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信長の軍師 賽の目は天下不如意なり  作者: 無位無冠
第三章 桶狭間の坂道
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木地師

 永禄二年((1559))一月、本来なら織田家は山口教継が籠もる鳴海城の攻略に取り掛かっている予定であった。そのための準備は、永禄元年秋の収穫後から進められており、あとは出陣を待つのみという段階になって、取りやめとされた。


 それは、京の大きな情勢の変化による。将軍、足利義輝の京への帰還だ。


 足利義輝は、天文二十二年((1553))に三好筑前守長慶によって京を追われ、近江の朽木谷で逼塞せざるを得なかった。それが、昨年になって近江の大名六角左京大夫義賢の支援を受けて、京奪還の兵を挙げたのだ。

 しかし、兵を挙げた五月六月こそ優位に軍を進めたけれど、四国からの援軍が到着した三好勢は月を経るに従って劣勢を覆していく。


 やがて九月になると、状況が不利になっていくことを(いと)った六角義賢は、三好長慶との和睦を図ることになる。そして、遂には足利義輝と三好長慶との間で和睦が成立した。


 こうして、将軍足利義輝は五年ぶりに京に帰還を果たす。実行力なき将軍の権威が、その力を取り戻すことになるかもしれない。


 そんな永禄元年の年の暮れに、信長様は足利義輝から上洛を命じられた。


「まさか、公方((足利義輝))様が京にお戻りになられるとは考えもしませんでした」


「それは誰もが思っていたこと。三好と和睦になるなど、誰が考えようか」


「それに加えて、殿をわざわざ上洛させるなんて……」


「長三郎、さっきから何が言いたいのだ。はっきりと申してみよ」


 信長様の声に不機嫌さが混じる。


「殿、長三郎は身重の妻を置いてきたのです。それは察してやるべきかと」


 忍び笑いを漏らしながら、今回信長様の随行八十人を率いる黒母衣衆の一人、蜂屋兵庫介頼隆が言う。


「生まれるのはまだ一月二月は先であろうが。何を女々しいことを言っている」


「殿はご心配することはありませんものね。又左衛門や内蔵助、勝三郎殿すら随行に選ばれなかったというのに……」


 俺は妻を残してこうして旅路についています。


 信長様への恨みがましい視線を我慢して、最後の言葉もどうにか飲み込む。


 俺と(たえ)にとっては初子なので、日に日に不安で堪らなくなっていた。そんな俺を見て家臣たちはすっかり呆れており、妙のために俺が何か作ろうとする度に異様な団結力を発揮して止められてしまっている。藤十郎すらそれに加わって、今では家中にすっかり溶け込んでいた。何もできない俺はさらに不安になっているというのに。


 そして今回、前田又左衛門利家と佐々内蔵助成政は上洛の随員に入っていない。また、近習筆頭である池田勝三郎恒興すらいない。三人の共通点は、妻が妊娠しているということ。さらには俺と同じ初子だ。さすがに前田利家の妻まつが妊娠したと聞いた時は耳を疑ったものだけど、とんでもないことに本当のことだった。

 親しい三人の内誰か一人でもいたら不安が和らげられたかもしれないのに、誰一人としていなかった。


「こらこら長三郎、殿のお決めになったことになんという言い草だ」


 蜂屋頼隆が、怒っているというよりかは呆れかえった口調で俺をたしなめる。


「殿もお生まれになったばかりの冬姫様をご心配されているに決まっておろう。それに、吉乃様のこともある」


 信長様の初めての姫が誕生したのは昨年冬。冬に産まれたから冬姫という名前を付けられている。呆れるほど単純な付け方に、帰蝶様とともにこっそり嘆息したものだ。また、吉乃様が再び妊娠して、ますます織田家は安泰だとみんなが湧き上がった。


「兵庫介、もう長三郎は放っておけ。もはやここから自力で帰れはしないのだからな」


 信長様はそう言って辺りを見渡す。


 峻険な難所を、信長様は地元の民に馬を引かれて進んでいる。俺や蜂屋頼隆については、当然そんな助けはなく、注意深く馬を進めなければならない。


 現在、伊勢と近江を結ぶ街道の一つ、八風街道を通過中だ。


 こんな通行が難しい街道を通らなくても良さそうな気はするけれど、尾張からはこの街道が京までの最短経路になっている。鈴鹿越えも検討されたが、今や山賊がばっこする地域となっており、通行のための交渉が長引くかもしれないので避けた。事前に金さえ払えば問題なく通れる八風街道の方が、通行に適していると判断したのだ。


 だけど、あまりのひどい道に俺は辟易していた。


 八風街道手前の田光で百人ほどの人足を雇い、それでどうにか通行することが出来ている。織田家の随員だけでは、とても荷物を運ぶことはできなかっただろう。


「美濃を通ることができれば、このような苦労はなかったのですが……」


「ふん。如何に公方様のご下命と言えども、我らを簡単に通すはずもないからな」


 足利義輝の命令を前面に出せば、遠回りではあるが平坦な道となる美濃を通ることは不可能ではなかったろう。だが、道中に斎藤高政による妨害がないとは言い切れない。最悪、暗殺すらも試みられるはず。

 そのため、敢えて危険に飛び込むことはせずに、足利義輝の協力者となっている六角義賢が支配する南近江に直接抜ける道を選んだ。


 俺は断崖絶壁のようになっている難所を横目に、どちらが安全だったのかと嘆息する。


「もうそろそろ、黄和田というところに着きます。宿もありますので、ご休憩されるのがよろしいかと……」


 信長様の馬を引いている男が、遠慮がちに蜂屋頼隆に話しかける。男の休憩という言葉に、随員の皆が疲れた声を上げて喜ぶ。


 蜂屋頼隆が信長様を伺うと、信長様は首肯する。


 これでようやく休める。


 俺も小さく声を上げて、馬の足を早めた。









 黄和田は、八風街道を越えてくる者たちへの宿がいくつかあり、織田家一行は分散して休憩を取ることになった。集落は、にわかにやってきた見知らぬ集団に警戒したが、田光からの案内人によって金を落とす上客だとわかると、せっせと水や馬の世話なりを買って出てくれた。


 信長様が近習たちとともに借り上げた宿に入って休憩する中、俺たち馬廻りは体を休めつつも念のために周辺を見て回る。


「やれやれ、まさかここまでの難所とは思わなかった。先行した五郎八は、今日の宿所をどこに置いたのやら」


「五郎八殿ならそう無理はなされないでしょう。八風道を越えたところで待っておられるはずです」


 蜂屋頼隆の独白に、俺は半ば願望を口にする。


 金森五郎八可近(よしちか)は、元々は美濃の出で、先代織田信秀の代から織田家に仕える人物である。周囲から母衣衆に名を連ねなかったのが不思議だと言われるくらいに、信長様からの信任は厚い。そのため、金森可近も母衣衆になれなかったのが悔しかったらしく、周囲の下馬評に反して母衣衆に選ばれなかった俺には親近感があるようだ。


 そして今回の上洛では、一日先行して道中の宿所の手配を行っている。


「だと良いのだがな。六角に呼ばれて、石寺まで行くなんてことにならなければ良いが……」


「まさか……石寺は六角義賢の居城、観音寺城の山下(さんげ)ではありませんか。いくらなんでも、六角が我らをそこまで招くとは思えません」


「わからぬぞ。六角は今や公方様や三好と強い協力関係にある。京に害をもたらさぬか検分するつもりがあるやもしれん」


「兵庫介殿は考えすぎですよ」


 正直、織田家はまだ畿内近国の勢力に見向きもされていないだろう。斯波家を追い出したことで一応注目されているが、主家を追い出すなんて各地で起きていることだ。念のために見ておくかくらいで、本命を呼ぶ前座程度にしか考えていない。本命とは、斎藤高政のことだ。


 そして六角にしたら、反抗する浅井久政を抑えるため、北近江に接する美濃の斎藤高政との関係は重要となってくる。足利義輝の命令による上洛とは言え、わざわざ斎藤高政と敵対する信長様と進んで会うとは思えない。


「むしろ、近江に入ったら美濃からの手が伸びていないかを注意するべきかもしれません」


 六角義賢が斎藤高政にこちらの旅程を漏らすなんてことがあり得る。


 蜂屋頼隆も俺の考えを察したようで、重々しく頷く。


「此処から先は、気の利く者を前後に少し散らしておこう。長三郎は見回りを続けてくれ」


 伏兵や追跡している者がいないかを調べる人員を出すということだ。


 蜂屋頼隆が数人の随員を呼び寄せ、指示を飛ばしていく。


 俺は命令どおりに見回りを続けようとした時、ふと地べたにいくつも椀を並べた物売りと目が合った。


 物売りは不思議そうに首を傾げ、そして買ってくれと言うように一つの椀を両手で持ち上げてみせる。


 物売り、粗末な服の少女に近づき、持ち上げてみせている木の椀を受け取ってしげしげと眺めながら問いかけた。


「随分と小さな物売りだ。親はどうした?」


 少女はさらに首を傾げてみせ、少し離れた木陰で寝ている男を指差す。


「ああ、なるほど。父親が寝ているから代わりに売っていたのか」


 俺の言葉に、少女が首を振る。


「じい」


 少女の言うとおり、よく見れば髪も髭も白くなっている。


 俺は苦笑して、少女に椀の相場より少し多めに銭を渡した。すると少女が困った顔をして、視線を俺と祖父でさまよわせるので、そのまま銭を握らせる。

 そして、手の中で椀を握って老人に歩み寄った。


「ご老人、起きているのだろう。薄く目が開いたのをちゃんと見ていた」


「やれやれ、何用ですかな。物の出来は良いはずですが……」


「とても良くできている。どこで誰が作った物なのだ?」


「この黄和田から北、君ヶ畑で。それは、わし自身が作り申した」


 老人は身を起こし、あぐらをかいて座る。


轆轤(ろくろ)師か」


「ここらでは木地師と呼びますが、まあ同じものですな。それで、何か御用でしょうか? 今あるものは、孫が売っている物しかありません」


「いや、轆轤を持っていよう。欲しいのはその腕だ」


 老人の目が鋭さを増す。


「ここの近隣とは言え、あんな小さな孫をつれて物を売るのはおかしな話だ。そして、荷を見るに、旅をしようとしているのだろう? 巡国するのならば、ご老人の年齢では珍しいし、女児の孫を連れていくのはさらにおかしい。ここまでおかしければ、刺客などではなく、何か事情があって君ヶ畑とやらにいられなくなったかしたのだろう」


 俺は片膝をついて老人に視線を合わせる。


「別に君ヶ畑を追い出されたなんてことはありません。今でもあそこに住んでいるので……」


 老人から歯切れの悪い返答が返ってくる。


 どうやら、何か事情があるのは確かなようだ。


「そうか。では、もし君ヶ畑を出て諸国をめぐるのであれば、尾張にある道祖長三郎の領地に寄ってくれ。ぜひ仕事を頼みたい」


 俺はそう言って立ち上がり、領地の場所を伝える。これで領地に来てくれれば御の字だ。孤輪車(ひとつわぐるま)の車輪などに手を加えられるかもしれない。


 老人の訝しげな視線を無視して、俺は周囲の見回りに戻る。その後も他の馬廻りが老人と孫を気にした素振りを見せるが、すでに俺が話をしているので特に咎められることはなかったようだ。


 半刻ほどの休憩が終わり出発するときに、二人が品物を片付けているのがちらりと見えた。

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