芽生え
永禄元年は、ここ近年で特に暑い年となった。それは、秋の実りにも影響を与えており、各地で米の不作が懸念されている。尾張はまだ水が豊富なお陰で心配はないが、それでも暑さで作物がやられてしまっているところがある。
そんな中、那古野城の堀は無事に完成を見せた。そして、紀伊から運ばれた建材が、道普請で整えられた道を通って熱田から那古野まで運ばれる。
建材を運ぶのは、まるでお祭りのような騒ぎであった。無事に那古野まで運ばれるのを見届け、俺たち道普請の奉行衆は胸をなでおろした。
これで一旦道普請は終えたのだが、那古屋城の改築が終われば、また再開される見通しだ。それまで、各地を見て回って次にどこを普請するか考えておかないといけない。
とはいえ、初の奉行仕事を終えて、俺は領地の新しい屋敷でのんびりと過ごすことにした。一度却下された、今川義元を釣り上げて桶狭間に臨む策を練り直すためでもある。
しかし、なかなかうまい方法が思いつかず、サイコロを椀に投げ入れる日々が続いている。
そして収穫を控えた九月、事件が起こった。
「こができた?」
「ええ。どうやら、そうらしいの……」
嬉しげに笑う妙。俺は妻が何を言っているのか分からず、首をかしげる。
胸で渦巻くのは、こってなんだ、ということだけ。
俺の反応が悪いのに気づいた妙は、一転して怪訝な表情を浮かべた。
「長三郎?」
「あ、ああ。そうか……こができたのか……」
「長三郎、本当にわかっている?」
「ん? うん……わかっている、わかってる。そうかぁ、こができたのか」
腕を組んで、何度もうなずいていると、妙は俺を睨みつけてくる。
知らず知らず汗が吹き出てきていた。そして、すでに空となっている椀に手を伸ばして、水を飲もうとする。必死にこが何なのかを考えながら。
妙がわざとらしく大きくため息をつく。そして、腹部に手を添えた時に、俺の全身に稲妻が走った。
「子供か!?」
「ええ……そうよ」
もの言いたげな目で妙は俺を見てくるが、そんなことはちっとも気にならなかった。
「ほ、本当なのか?」
「村の子安婆がそうだって」
うれしさと信じられない気持ちとが相まって、なかなか言葉が出てこない。何か言おうとするが、ぱくぱくと口を開け閉めするだけだ。
妙の目つきがすっかり呆れ果ててしまう。そして、俺の目を覚ますように軽く平手で俺の頬を張った。
頬から気持ちのよい快音が鳴り響くと、俺はおもむろにそろそろと妙のお腹に手を伸ばす。着物の上から妙の腹を撫でる。次第に気持ちが落ち着いてきて、涙がこみ上げてきた。
「妙……ありがとう……」
俺が礼を言うと、妙の顔に笑顔が戻る。
家臣たちや村人たち、それに林一族に伝えないといけない。そして、いつもの親しい面々にもだ。また、何より信長様と帰蝶様に伝えたかった。
新しい家族が出来ることに、涙がこぼれて頬をつたっていく。
俺に子供が出来たことは、瞬く間に村中に広がった。喜びに沸き立つ中、飲めや歌えの大騒ぎになっていく。
普段飲まない酒を浴びるほどに飲んだことは何とか覚えているが、途中から記憶が途絶えてしまっている。
翌朝に吐き気と痛む頭を抱えてうずくまっていると、信長様からわざわざ呼び出しの使者が遣わされてきた。
妙が妊娠した報告のために清須に赴くつもりであったので、ちょうど良かった。
俺は、前田孫十郎基勝と道家兄弟に守られながら、気持ち悪さを我慢してどうにか清須まで馬で移動する。
そして、醜態を晒さないか心配されながら、俺は清洲城に登城した。
「なんだ、病か、長三郎? 顔が青いぞ」
どうにか信長様の前にたどり着けば、城内ですれ違うみなに言われたことを、信長様にも言われてしまう。
「い、いえ……昨日、酒を飲んでしまいまして……」
同じ下戸の信長様にはそれで通じたようだ。そして、俺が普段から酒を飲まないことを知っている信長様は、不思議そうにする。
「お前が酒を飲むとは、珍しいこともあったものだ。領地で祝い事でもあったか?」
「はい……実は、妙に子供ができたようでして……」
「ほう、妙に子が――」
そこまで言ったところで、信長様が目を見張る。手ずから扇いでいた扇子も動きが止まってしまった。
俺にも風がきて良かったんだけどな。
恨めしく扇子を見つつそんな場違いなことを考えていると、信長様が広げた扇子で俺を指し示す。
「長三郎! 真であろうな!?」
「村の子安婆が言うには、確かだそうで……。生まれるのは、来年の春の終わりか初夏辺りではないかと」
「それを早く言わぬか! 勝三郎、帰蝶を呼んで参れ」
「は、ははっ。すぐにお呼び致します」
池田勝三郎恒興が、弾かれたように部屋を飛び出していく。
俺がそんな池田恒興の姿をぼうっと見送っていると、いつのまにか信長様が目の前に立っていた。
「どうして早く言わなんだのだ!」
「俺も聞いたのは昨日でして……あと信長様、お願いですから声を押さえて下さい」
「この、宿酔している場合か! 誰か! 桶で水を持って来い!」
すぐ間近で信長様が大声を上げるので、頭に響いて仕方がない。すぐに酔う上に、なかなか酒が抜けない体が恨めしかった。
矢継ぎ早に質問を投げかけてくる信長様に耐えていると、池田恒興が呼びに行った帰蝶様がやって来る。
そして、俺を見つけるや両肩を掴んで前後に揺さぶってくる。
「長三郎、妙はどこです!?」
「りょ、りょう、領地に残して――」
「どうして連れてこないのです!? いえ、やっぱりもしものことがあってはいけないわね。さあ、詳しく話をきかせなさい!」
「その前に離して下さいよぅ」
力なく懇願するけれど、結局水が届けられるまで二人の詰問は続けられた。吐かない自制心が残っていたことがせめてもの救いであった。
「あの長三郎がついに親となるか」
「男の子か、女の子か。どちらであっても楽しみなことですね」
さっきまでの剣幕が嘘のように、信長様と帰蝶様は落ち着いた様子で感慨深そうにしている。
俺は、酔いをちゃんと覚ましてから登城すべきだったと後悔しながら、桶から椀ですくった水に口をつけた。
「ついこの前には内蔵助の妻が懐妊したことを言うてきたが、それに長三郎が重なるとは思いもせなんだ」
「本当に、殿の仰る通りです。今年は殿に三人の子ができ、そして来年は家臣たちの家にも。慶事に恵まれて、良き年となりましょうね」
「三人ですか?」
佐々内蔵助成政の妻、お香も妊娠したというのは気になるけれど、それよりも帰蝶様が言う三人が気にかかった。今年生まれた信長様の御子は茶筅丸と勘八改め三七の二人。奇妙丸をいれると御子は三人だけど、今年生まれたのではない。
俺のわけがわからないという顔に気がついた帰蝶様が、楽しげに笑う。
「あら、殿は長三郎に言ってなかったのですか。殿は側室をもう一人迎えたのです。予定では冬に子供が生まれるのよ」
それは全然知らなかった。俺にどうして早く言わなかったと言っておきながら、信長様だって、もう一人御子が生まれることを教えてくれなかったなんて。
恨みがましい目で信長様を見ると、文句があるのかと睨まれてしまう。慌てて顔を伏せて、また水に口をつけた。
「それで名を決めてあるのか?」
「まだ決めておりません。なにぶん、昨日に妙から聞いたばかりでしたので。まだ時間がありますので、男と女の両方を考えてみようかと思っています」
「ちゃんとした由来を考えなさいね。殿のように、目についたものなどということがないように」
「かしこまりました」
信長様は奇妙丸の名前を付けることに力を使い果たしたように、次男三男と名付けが取ってつけたものになっているようであった。
一応、それなりの理由をつけているけど、これでは奇妙丸のことまで疑ってしまいたくなる。
「ああ、それで今日呼び出した件なのだがな」
信長様が誤魔化すように、話題を変える。
「普請の折に与力を欲しがったであろう」
「はい。新たに元服した林新次郎を与力に頂きたかったのですが……」
「新次郎はまだ元服したばかり。与力とするには、まだ何が出来るかわからん。まさか、与力に小姓や小間使いと同じことをさせるつもりであったか?」
そう言われてしまうと何も言えなかった。確かに、信長様の家臣に元服前と同じことをさせるのはおかしいし、道普請には新次郎得意の槍は意味がない。
「佐渡から口添えはあったが、許すわけにはいかん。与力は己の役目を補うためにいるのだ。そこをよく考えておけ」
「承知しました」
どうして今更と思わないでもなかったが、俺は頭を下げる。
「それでだな、長三郎に預けたい者がいるのだ」
「預けたい者、ですか?」
「そうだ。なかなか見どころがある小僧だ。お前なら会ったことがあるし、丁度良いと思ってな」
誰のことかさっぱりわからない。首をひねって考え込んでいると、信長様があっさり名を明かしてくれた。
「大蔵太夫の息子、藤十郎だ」
「藤十郎を、でございますか? では、大蔵殿は信長様にお仕えするということでしょうか?」
「いや、そうではない。藤十郎だけだ。猿楽師ではなく城仕えがしたいと申してな、父親を説き伏せおった」
信長様は大蔵太夫十郎を召し抱えたいと思っている。だから、その息子の藤十郎を足がかりにしたいけれど、大蔵太夫に憚って自分の近くに置くのは問題がある。
そこで俺に白羽の矢が立ったということだろう。俺なら大蔵太夫と接点があるし、父親としては安心できる。
そして、俺は新次郎に代わる人材を手にできるかもしれない。
「承知しました。藤十郎をお預かります。しかし、大蔵殿を召し抱えられなくても、お怒りにならないで下さい」
「わかったわかった。では藤十郎は任せたぞ」
「はっ!」
桶を脇に避けて、俺は信長様に平伏する。
いつの間にか、気持ち悪さと頭痛は無くなっていた。




