普請前
胸がきりきり痛むような、重苦しい雰囲気が評定の間を支配している。
隅で控えているだけの俺ですら、逃げ出したくなる怒気を信長様は放っていた。
ちらりと目だけを動かして様子をうかがえば、より信長様に近い家老衆も居心地が悪そうだ。そして、信長様の怒りを一身に受けて平伏している男は、小刻みに震えている。
「もう一度申してみよ」
「は、ははっ! その……お生まれになったのは……茶筅丸様よりも……早く……」
「生まれたのなら、何故早く父たるわしに言わなかったのだ?」
「も……も、申し訳ありませぬ……」
評定の間に意気揚々として乗り込んできた男、岡本下野守定季は平身低頭して謝罪を口にする。
急使とのことで評定に乗り込んできた岡本定季は、熱田で信長様の第三子、男の子が誕生したことを報告した。生んだのは熱田神宮に関係する坂氏の娘で、岡本定季はその娘の親類だそうだ。ついこの間に茶筅丸が生まれたばかりなので、慶事が続いたと喜びに沸いたのだが、岡本定季が余計なことを付け足して事態が一変した。
あろうことか、吉乃様が産んだ茶筅丸よりも、二十日早く生まれていたというのだ。だから坂氏の娘が産んだ男の子が、次男だと。それを聞いた信長様は、喜びの顔から急転して、岡本定季を怒鳴りつけた。
「真に茶筅丸よりも早く生まれたのか?」
「はっ! ま、真でございます」
まあ、最早そう言うしかないだろう。
本当なら言葉を翻す必要はないし、今更嘘だと言おうものなら、信長様に斬り捨てられるだろう。まだ報告が遅れてしまったというほうが、叱責だけで済むとの判断だ。
信長様が、しばし岡本定季を睨みつけて、大きく息を吐いた。
「まあ、よい。生まれた子は茶筅丸に次ぐ三子とする。わかったな」
「かしこまりました!」
「落ち着けば母子は清須に移せ。世話は……」
信長様が視線を彷徨わせて、誰にするか考える。ふと、俺のところで視線が止まったが、すぐにふいっと他の者を見た。
そこに、柴田勝家が声を上げた。
「それでしたら、確か殿の直臣衆にいる幸田の家に赤子が生まれたはず。幸田も清須に住んでいるので、御子のお世話をするのに丁度良いかと」
「そうか。では、そうしよう」
信長様がうなずき、そして岡本定季に話は終わったと手を払って退室を促した。
「と、殿……まだ、御子の名をお決めいただいておりませんが……」
「そうであったな。ふむ……」
顎に手をやり、名前を考え始める信長様。やがて、思いついたと口を開く。
「名前は勘八とする」
その言葉に、評定の間にいた全員がざわめき出す。
「殿! 御子の名にそれは……! どうか、もう一度お考えを!!」
「黙っていよ。もう決めたことだ」
岡本定季が再考を求めるが、取り付く島もない様子だ。
勘八、尾張の言葉では、虚言を言うという意味。つまりは嘘つきということになる。この尾張で子供に付ける名前ではない。
岡本定季は打ちひしがれた様子で、うなだれている。そして、一度信長様に頭を下げると、力なく退室していった。もはや食い下がる力もないらしい。
「殿に知らせなかった岡本定季に罪はあれど、生まれたばかりの御子に罪はございません。お考え直しあっては?」
何とも言えない空気を払うために、林佐渡守秀貞が進言する。
「わかっておる。追って、別の名前を伝える。しかし、これでつまらぬ張り合いをする者は出て来るまい」
「はっ、出過ぎたことを申しました。仰せの通り、熱田の者共もこれで懲りたことでございましょう」
とりあえず、赤子に嘘つきという意味の名前は回避されたようだ。家臣からしたら、とても勘八と呼べるはずがないのだし、何より元服するまでが可哀想というものだ。
「では……評定を始めます。まず、簗田四郎左衛門から文が参っておると聞き及びましたが」
「四郎左衛門には、沓掛周辺を取り込むように指示を出しておった。だが、なかなか上手くはいかんようだ」
信長様が、池田勝三郎恒興に向かってうなずく。
「はっ。簗田殿が申すに、やはり在地の土豪に今川の手が深く入っておるようです。また、沓掛の東にある三河の寺部城がこちらに接触を図ってきたようですが、これを瞬く間に討たれております」
織田家が力をつけてきたことで、国境の領主が織田と今川の両属を狙ったのだろう。しかし、今川はそんな中途半端を許しはしなかったようだ。下手をすれば一斉に背かれる危険があるのに、大胆なことだ。
「寺部城の鈴木重辰を討ったのは、岡崎城に戻ってきた松平蔵人佐元康。この尾張にいた、あの松平竹千代のようです」
「なんと! 三河にあの松平が戻ったとは……」
「これは岡崎に残っている松平家臣は気を張っていような」
家老たちが口々に驚きの声を漏らす。
そうか、ついにあの徳川家康が動き出したのか。
たった七歳にして、異様に落ち着いていて気持ちが悪かったと覚えている。確か自分よりも四つ年下だったはずだから、今は十六歳のはずだ。
「簗田殿が調べたところ、寺部城の仕置をした後、松平元康は岡崎城に留まることを許されなかったそうです。すでに駿河に戻らされているとのこと」
「つまり、今川はまだ三河を完全に掌握したわけではないということだ」
信長様の言葉に、全員が表情を引き締める。
「来年には鳴海に兵を寄せる。今度こそ、あの城を落とすぞ」
「はっ!」
声を揃え、みなが平伏する。これまでのばらばらだった織田家ではない。尾張の大半を制し、主家の斯波家を下した大名としての戦になる。
「各自、準備を油断なくしておくようにせよ。だが、その前に那古野城の普請もあるのを忘れるな。五郎左、普請はどうなっておる?」
「滞りなく進んでおります。もう田植えが終わるので、人夫を動員して秋までには堀を完成させることができましょう」
丹羽五郎左衛門尉長秀が少し進み出て報告する。それに続いて、島田所之介秀順が口を開く。
「どうにか城の建材に目処がたちました。やはり木曽の方は斎藤の手が伸びており、手に入りませんでしたが、紀伊の方から入手できましてございます」
柱などに使う太い木材はなかなか手に入らない。近くでは木曽が生産地になっているけれど、そこから木を運ぶ木曽川は美濃との境界線になっている。那古野城のための木材とあっては、斎藤は意地でも邪魔をするだろう。
そのため島田秀順は、方方を探し求め、これまた産地となっている紀伊で見つけることが出来た。紀伊からなら、伊勢湾を海路で熱田に運ばれることになる。
「良くやった。では、太郎兵衛。お前が申していた通り、熱田から那古野までの道の普請が大事になる。そなたたちが言っていた通りにやってみよ」
「ははっ! 奉行衆でもう一度検分し、いつでも始められるように致します」
「吉兵衛や五郎左ともよく相談しておくように」
山口太郎兵衛は深く平伏し、俺たち他の奉行衆も頭を下げた。
信長様から裁可が降りたことで、那古野・熱田間の道を普請することができる。
その後、美濃や海西郡の服部党などの報告がされたが、俺は奉行としての初仕事で頭がいっぱいであった。
評定が終わり、家に戻ると前日に呼んでいた前田孫十郎基勝が道家助十郎を伴って来ていた。
俺は道家助十郎に席を外させて、前田基勝と向き合う。
「新次郎がいなくては、何かと不便ですな」
「まったくだ。早く代わりの者を見つけたいが……これといったのがな」
「取り急ぎ、村より奉公に出ても良いという者を連れてきております。村との連絡は、その者をお使い下さい。そして拙者も、これからは殿のお側で動いた方が良いでしょう」
「そうだな。だが、助十郎はどうするつもりだ?」
「警護が必要かと思いまして。清十郎と助十郎を交互に守りにつけます」
これまで平時は、新次郎が従者をしながら俺の身辺を守っていた。別に命を狙われているわけではないけれど、家臣たちにしたら腕に覚えのある者を一人はつけておいて欲しいとのことだ。
「わかった。では、そうしよう。ところで、村の方の屋敷は出来上がったのか?」
「はい、大方は。あとは細かい所の仕上げと、しっかりした蔵などを建てております」
「道杉に命じていた弧輪車はどうなっている?」
「新しく三つ出来ております。拙者にはよくわかりませんが、少しずつ手を加えているとのこと」
最初に作ったのを含めて、四つの弧輪車があるということだ。次の道普請で実際に使ってみて、問題点を洗い出せば、より改良を施せるだろう。
「今奉行をしている道普請で使ってみる。八右衛門に人夫の人選させて、弧輪車を使えるようにさせておこう」
「よろしいのですか? 普請で問題が出れば、恥をかくこともありえますが……」
「かと言って、作っただけで眠らせるわけにはいかない。領地から連れてきた者たちを自分で差配するくらい、簡単に融通できるから大きな問題にはならない」
これが他人の指揮下で使い物にならなかったら大問題になるけれど、自分で指揮するならどうとでもなる。
「承知しました。さっそく使いを出しておきましょう。他に何かございますか?」
「そうだな……いや、特にはない。孫十郎はどうだ?」
「八右衛門から、春の収穫について報告を受けております。まあ、畑一枚あたりの収穫は例年通りとのことです。ただ、二毛作ができる場所を増やしているので、その分少し全体の収穫は増えていると」
「順調のようだな」
「はい。しかし、食い物を求めて村に流れ者が増えてきております。まだ被害は出ておりませんが、盗みなどがあるやもしれません」
豊かなところには人が集まってくる。そこには当然犯罪者もいた。この時代、村人も武装しているのでそう負けはしない。けれども、集住が不十分で一軒一軒が離れている場合などでは、寝静まったところを集団で一軒ずつ襲われるなんてこともあり得る。
「頭の痛い問題だ。どこかに行けと言っても、聞きはしないだろう」
「はっ。なので、八右衛門が人夫として雇ってはどうかと申しておりました」
また銭が掛かりそうな提案をしてくれる。
ため息が出そうになるのを堪え、俺は前田基勝と篠岡八右衛門で考えたという話に聞き入った。




