兄と弟 弐
夜、松岳道悦の部屋に赴く。部屋の周囲は、祝弥三郎重正が手配した人員がそれとなく守っている。松岳道悦が勝手を出来ないように見張ってもいた。
俺はひっそりとした冷たい廊下を歩き、松岳道悦の部屋の前で立ち止まり、跪いた。
「松岳道悦様」
俺が名前を呼ぶと、部屋の中の影が動く。
「こんな夜に何用だ?」
「殿が松岳道悦様をお呼びでございます」
また影が動き、障子が開かれた。
「兄上が?」
「はっ。お部屋にてお待ちになっておられます」
「夜では、ご病気の兄上のお体に触ろう。明日お伺いすると伝えよ」
「ご心配ありません。武衛、いえ斯波義銀を追放してから、殿は快方に向かわれて体調は随分と良くなっておられます」
松岳道悦が不機嫌な顔を浮かべて俺を睨みつける。
「聞いておらぬぞ」
「それがしにはわかりかねます。しかし、三郎五郎様は頻繁に殿とお会いになっておられます。先程も、殿とあれこれと話されておられました」
「三郎五郎……姑息な……」
織田三郎五郎信広が、わざと自分に伝えなかったのだと思ったのだろう。憎々しげな顔をして、俺を見る眼差しをさらに厳しくする。
「ご容態はどうなのだ?」
「病状は落ち着かれ、お座りになっていることが多くなりました。まだ立つことは叶いませんが……」
「そうか……わかった」
「では、早速――」
「いや、寒き夜だ。兄上は酒を召し上がらないから、せめて白湯を用意してお持ちする」
松岳道悦は、部屋を振り返る。釣られて部屋の中に視線を巡らすと、火鉢の上で鉄瓶が熱せられているようだ。
「こちらでご用意いたしますが?」
「構わん。大恩ある兄上に、手ずから用意したいのだ。用意でき次第、すぐに参上すると伝えよ」
「承知いたしました」
俺が膝をついたまま頭を下げると、さっと障子が閉められる。まるで、中を見て欲しくないと言わんばかりだ。
立ち上がり、もと来た廊下を引き返す。寒いので、少し早足で移動すると、すぐに信長様の部屋に到着する。
部屋の前には、また池田勝三郎恒興と河尻与兵衛尉秀隆が待機していた。
「白湯を手ずから用意してから、お越しになられます」
「わかった。与兵衛はそちらの部屋。わしはこっちの部屋で待つ。長三郎はここで待ち、お部屋に案内せよ」
池田恒興が示した部屋には、すでに武装した者たちが控えている。
河尻秀隆は、黙ってうなずいて指示された部屋に入っていく。池田恒興も、俺の肩を数度叩いてから、部屋に入った。
残された俺は、信長様の部屋の障子を開けたくなったけれど、頭を振って止める。そして、冷たい廊下に正座して松岳道悦がやって来るのをじっと待つ。
やがて、廊下の先に松岳道悦が姿を見せる。盆を持ち、鉄瓶と椀が載っていた。
俺は平伏し、部屋の中の信長様に声をかける。
「殿、松岳道悦様がいらっしゃいました」
「……入れ」
少しの間が開いて返事が返ってくる。俺は、ちょうど松岳道悦が部屋の前に着いたところで、ゆっくりと障子を開けた。
松岳道悦が、おもむろに部屋に足を踏み入れる。そして、俺を振り返って言った。
「兄弟水入らずで話す。お前はもう下がれ」
松岳道悦の命令に、俺は信長様に視線を向けるとゆっくりとうなずいた。
「承知しました。では、失礼いたします」
音が鳴らないように、今度は障子をゆっくりと閉める。そして、息を吐き出して、部屋の前から退いた。
もちろんそのまま下がったりはせずに、池田恒興と同じ部屋に入る。暗い室内に、武装した男たちが息を潜めて、襖の先を伺っていた。
微かに、声が聞こえてくる。
「ご容態はよろしいようですね」
「うむ。心配をかけた」
「とんでもありません。お慶びを申し上げます」
声しか聞こえないのがもどかしい。少し開けられないかと襖に手を伸ばそうとすると、池田恒興に手を掴まれた。そして、首を横に振って俺を諌める。
「今夜呼んだのは、先々のことを話しておこうと思ってな。わしの死した後のことだ」
「お元気になられたというのに、そのようなことを……」
「親父のことがある。兄弟で争うのは、織田家のためにならんからな」
「なるほど。では、兄上のお話を聞きましょう」
「うむ。わしにもしものことがあれば、織田家は勘十郎、お前に任せようと思う」
松岳道悦が息を呑み、言葉に詰まったと見えなくてもわかった。
「な、なにを言いますか。兄上には奇妙丸がおるではありませんか?」
「まだ童子に過ぎん。そんな者に、織田家を任せられようか」
「しかし、三郎五郎とともにそれがしが支えますれば、問題はありますまい」
信長様の忍び笑いが聞こえてくる。
「三郎五郎は自分に任せろと申したのに、勘十郎は我が子を支えてくれるという。やはり、跡継ぎにはお前を選ぼう」
「お試しあったのか!? これは、騙されましたな」
松岳道悦の嬉しさを隠しもしない笑い声が上がった。
「では、遺言を認めておく。そこの紙と筆を取ってくれ」
「わかりました。そうだ……兄上のために白湯を用意しておりますので、それを飲みながら、少しお話をしましょう」
衣擦れの音とともに、松岳道悦が提案する。
「そうだな。ゆっくり話すのも良かろう」
「どうぞ、兄上。それでは、その間に白湯を入れておきます」
このまま何事もなければ、信長様は弟を殺さなくても済む。信長様は仮病を止めて、いつもどおりの生活を送る。そして、松岳道悦は叶いもしない遺言を心待ちにするだけだ。
「勘十郎」
「何か? ああ、墨を取っておりませんでしたな」
「その白湯、自分で飲んでみよ」
「ええ、勿論飲みますよ。しかし、まずは兄上の分なので……」
「わしは、それを飲めと言っておるのだ」
信長様の部屋だけでなく、俺たちが待機している部屋でも沈黙が流れる。襖に手をかけて、いつでも踏み込むことが出来るようにする。
「お前は……待つということを知らんな、勘十郎よ」
「当主に相応しいのは、わしだ! お前のようなうつけであってたまるか!」
松岳道悦の大声とともに、一斉に信長様の部屋に踏み込んだ。驚く松岳道悦は、持っている鉄瓶を信長様に投げようとしていた。
俺は、信長様と松岳道悦との間に割り込む。だが、鉄瓶が投げられる前に、河尻秀隆によって松岳道悦が斬られた。
松岳道悦は倒れ込み、苦悶の表情を浮かべる。そのまま、数人がかりで押さえつけた。
「長三郎」
俺の後ろにいる信長様が、すっくと立ち上がり、俺に手を差し出す。俺は、手首をひるがえして、持っている刀を信長様に差し出した。
「座らせよ」
平坦な声で信長様が命じると、押さえつけられていた松岳道悦が、強引に座らせられる。
「腹を切るのだ、勘十郎。わし自ら介錯してやる」
「ぐっ!」
池田恒興は、短刀を抜いて松岳道悦に握らせた。周囲は、油断なく刀を突きつけて、信長様を襲えないようにする。
松岳道悦は観念したように、僧衣の上から短刀を自分にむけた。しかし、その腕はすぐにがたがたと震え始める。そして、懇願するように信長様に顔を向けた。
信長様は松岳道悦の懇願を顧みることなく、その横に立っていつでも介錯できるようにした。
諦めたのか、顔をうつむかせて短刀をゆっくり動かす。その時、飛び上がって信長様に襲いかかった。
問答無用で囲んでいた刀が突き入れられる。そのため、信長様に短刀は届かず、力なくそれを落とす。膝をついた状態で、虚ろな視線を信長様に向ける松岳道悦。
「さらばだ、勘十郎」
信長様がそう言うと、上段に構えた刀を振り下ろした。
松岳道悦の亡骸が運び出されていく。部屋には、信長様と俺だけが残っている。やがて、小姓や侍女たちが片付けにやって来るだろう。
信長様は、血に濡れた夜着のまま、持っている俺の刀についた血を紙で拭う。
「これは駄目だな。刃こぼれした」
見た限り、信長様の言うような状態にはなっていない。しかし、俺は鞘を差出してうなずく。
「そのようですね。信長様に頂いたものですが、仕方ありません」
「新しいのをやる」
信長様が鞘の中に刀を納める。そして、掛台から自分の刀を取って俺に放った。
俺はそれを受け取り、腰に帯びる。
「勘十郎様は、手強い方でした」
「ああ。だが、待つことを知らん奴だった。あいつが我慢していれば、今度こそ寝首をかかれたやもしれん」
「いいえ、そんなことはありません」
俺が頭を振ると、信長様が訝しげに俺を見る。
「信長様は……俺がお守りします。だから、前だけをご覧になっていて下さい」
「ふん。わっぱの分際で……」
「ええ。俺は……ずっと信長様の後ろを追いかけている、わっぱですよ」
そう言うと、頭をはたかれた。音だけが高くなり、全然痛くない。俺をはたいた信長様は、昔と変わらない視線を俺に向けてくる。
そして、信長様がそのまま部屋を出ていく。
「吉乃の子の名を考えなければならん。ついて来い」
「もうお決めになるのですか?」
「まだ決めはせんが、考えておいて問題あるまい。どうせ今日はもう寝られん」
「わかりました、お供いたします」
どうせ、ここで考えた名前をつけることはないだろう。俺は軽い気持ちで、信長様の後に続いて、次々と挙げられる名前に評価をつけていく。そして、目についたという理由で茶筅と信長様が言ったあとに、相撲のような押し合いの喧嘩になってしまった。当然、負けたのは俺だ。
勝ち誇る信長様の目には、もう憂いは残っていなかった。
「長三郎、何をしているの?」
夜、蝋燭の灯りを頼りにして紙を折っていた。何枚か折った紙を重ねて、針で穴を開けたところで妙に声をかけられた。
「ちょっと、綴本を作ってるんだ。先に寝ててくれて良いよ」
「綴本なんて、急にどうしたの? 日記でも書くつもり?」
後ろにそっと妙が寄り添う。
「いや……日記じゃないけれど、書き留めておきたいことができた」
穴を開けたところに、紙を縒って作った紐を通して重ねた紙を冊子にする。
そして、表紙には交名と記した。
「交名って誰の名前を?」
妙の質問に答えず、俺は表紙をめくって、二紙目の端に村の名前を書いてから、その下に名前を付け加える。去年死んだ、足軽の名前だ。
信長様と新しいお子の名前を考えている時に、ふと死んだ足軽の名前を思い出せなかった。だから、こうして記しておくことにしたのだ。
妙が首をかしげて説明を求めるが、俺は交名帳をそっと閉じた。これに、名前が付け足されることがないことを祈りながら。
道祖長通の逸話に、足軽たち一人ひとりの名前を呼んで、気軽に話しかけたというのがある。名前を呼ばれた足軽たちは、長通のために命を惜しまず戦ったという。足軽の名前を全て覚えるというのは、とても現実的とは思えない。だが、道祖家の足軽は異様な強さを発揮していたことは、当時の日記に記されている。恐らく、その強さを後世の人が想像した結果生まれた逸話であろう。
だが、その逸話が事実だという意見もまたある。それは、ある寺が所蔵する道祖長通直筆と伝わる交名帳を根拠にしている。交名帳には、多くの名前が記されており、中には武士の名前すらある。この交名帳こそが、長通の足軽の名前を記したものだと主張するのだ。
しかし、道祖長通の家臣であった全員の名前を確認できないことから、その考えは疑問視されている。ただ全ての交名帳が現存しなかっただけなのか、全く別の意味が込められているのか、今なお決着はついていない。




