統一前
岩倉城を包囲して二ヶ月余り。未だ陥落する様子が見られないまま、もうそろそろ米の収穫を迎えようとしていた。
いつもなら村の方に移動して収穫を見届けたり、代官として各村に赴いていた。しかし、今年は緊急の出陣があるかもしれないため、清須に留まることにしている。
妙は、俺が昔から作っていた千歯扱きがちゃんと仕事をしているところを見たがっていたけれど、俺が出陣するかもしれないというので清須に残ってくれた。
村人たちは、俺の妻を一目見てみたかったらしいが、俺だけの都合ではないのだから諦めてもらうしかない。
その妙は、反物を並べて女衆と姦しくお喋りしている。長く留守にしていたのと、楽しみにしていた村に連れて行ってやれなかったので、せめてもの慰めと思って幾つか買ってきたのだ。
「良かったですね。奥方様が喜んで下さって」
「ああ。しかし、後で内蔵助がうるさいかもしれないな」
新次郎がどうして佐々内蔵助成政の名前が出るのかと、首をかしげる。
「内蔵助の奥方、お香殿が来ている。後で妻にねだられたなどと、文句を言われそうだ」
俺が渋い顔で説明し、そして椀を満たしている水をあおる。新次郎は、苦笑を浮かべて俺から空になった椀を受け取った。
妙は佐々成政の妻、香と親しくしている。気の強い女性らしく、佐々成政はいつも言い負かされているらしい。他に親しくしているのが、前田又左衛門利家のところにいるまつだ。そして、最近加わったのが岩倉城で会った浅野又右衛門長勝の養女寧々である。
史実での藤吉郎の妻。育てた武将たちに多大な影響力を持ち、徳川家康すら警戒した高台院その人だ。
今はまだ十歳にすぎない童女であるけれど、物怖じせずに相手に接するところが妙に気に入られたようだ。まつとともに寧々を妹のようにかわいがっている。
岩倉城から帰ってきたら、寧々と親しくなったと聞いて驚いたものだ。なんでも、寧々は近い年のまつと親しくなって、その縁で妙とも会うようになったとか。
妙に冗談で、新次郎の嫁にするかと聞いたら、どうも二人はあまり相性が良くなかったらしい。俺が縁付かせたいのなら林と浅野の両家に話をすると言ってきたが、やめておくことにした。藤吉郎の嫁候補を奪うのはどうも気が引けた。
藤吉郎はまだ士分に取り立てられていないけれど、岩倉城での功績もあるのでそろそろ城仕えから動きがあるかもしれない。
そこでふと、新次郎の顔を見る。
「そういえば、新次郎はそろそろ元服か……」
「はい。来年に、元服いたします」
「では、新次郎を林の家に戻さなければならないな」
もともと元服まで俺のところで小間使い兼連絡係という話だった。それから大きく情勢が変わって、俺は林家とは縁戚になっているのだから、わからないものだ。
感慨深く腕を組んでうなずいていると、新次郎がおずおずと口を開く。
「あの……元服したら、やはりここに置いてはくださらないのでしょうか?」
「何だ? ここに残りたいのか?」
「はい、出来ましたら!」
まあ、余裕はあるのだから元服した新次郎を置く分には大丈夫だろう。
しかし、預かっていた手前、本人が残りたいと言っても筋が通らない。ちゃんと話をしておかないと、大変なことになる。
「林様には相談しておくが、ここにいれるかどうかはわからないぞ」
「それでも構いません。よろしくお願いします」
頭を下げる新次郎。
「わかった。一応お願いしてみよう」
新次郎なら信頼できるし、他の家臣たちと相性もいいから、ここに残ってくれるのなら頼もしい限りだ。
喜ぶ新次郎を尻目に、ゆっくりどうやって林佐渡守秀貞に伝えるか考える。
そして、俺が女たちの姦しい声を聞きながらのんびり考えていると、庭先に知った顔がやって来た。
「おお、藤八郎じゃないか。腕の傷はもういいのか?」
顔を見せたのは前田利家の弟、佐脇藤八郎良之である。浮野の戦いで、腕を斬られながらも首級を上げた信長様の小姓だ。
「ええ、もうすっかり良くなりました。長三郎殿には兄弟ともに心配をかけ申した」
「気にするな。又左衛門の怪我はどうだ?」
「昨日会いましたけれど、まだ痛むとぶつくさ言っておりました。命があっただけでも僥倖であったというのに……本当に困ったものです」
佐脇良之がお手上げだと肩をすくめるので、俺と新次郎も笑い声を上げた。
「それで、どうしたんだ? 藤八郎がわざわざ来るなんて」
「ええ。殿が長三郎殿をお呼びになっております。急ぎではありませんが、必ず登城するようにと」
「そうか、承知した。何か仰っておられたか?」
「いいえ、特には。ただ、何やら考え事をしていらしたようです」
これは、何か問題が起こるのかも知れない。
俺は無意識に、懐に入れてあるサイコロに触れて立ち上がった。
清洲城に登城すると、すぐに信長様のもとに通された。
「お呼びにより、長三郎参りました」
「うむ」
信長様は鷹揚にうなずいて、小姓たちを下がらせる。どうやら内密の話のようだ。
「何かありましたか?」
「あるやもしれん」
信長様にしては珍しく、歯切れが悪い言い方だった。
「美濃の動きが不穏だと連絡が来た」
「この時期にですか?」
木曽川を越えるためには、相当な軍勢が必要だと予想していた。それほどの軍勢を、収穫前に掻き集めようとしているとあっては、疑いたくなる。
「収穫が終われば、美濃は雪で行動が難しくなる。そうなれば岩倉城を救うことができんからな。無理にでも兵を整えているのか、もしくは見せかけだけか……」
確かに、信長様が言ったことは考えられる。でも、どちらとも恐らくはないだろう。時期がおかしすぎるからだ。
無理に兵を集めるにしても、岩倉城を救おうとしたという形を見せるだけでも、普通ならもっと早く動くはずだ。こんな収穫に関わるような時期まで遅らせる意味がない。その間に岩倉城が落城している可能性もあったのだから。
信長様は自身で気が付いているが、別の考えがないか確かめるために俺の呼んだのだ。そして、俺の考えも信長様と同じのはず。
「それとも、裏切り者がいるかです」
信長様が目を閉じて、脇息にもたれる。俺に続けろということだ。
「斎藤高政が兵を集めているのなら、こちらをおびき寄せて奇襲するつもりです。そして、上四郡に美濃につく者は全て岩倉城にいます。犬山城の十郎左衛門様が裏切っているのなら、欺瞞するまでもなく木曽川を越えておりましょう。裏切り者は……残念ながら弾正忠家の誰かになります」
「で、あるか」
「最も怪しいのは――」
「三郎五郎だ」
信長様の断定に、俺は黙って頭を下げた。
考えられるのは二人。今は松岳道悦と名乗る勘十郎信勝と、その織田信勝を斬るように進言して叶わなかった三郎五郎信広。
守護の斯波義銀の可能性もなくはないが、もはや斯波義銀に味方する者は皆無になりつつある。それは、信長様が伊勢守家に横領されていた荘園の一部を寺社や弱小豪族に返したのが大きい。斯波義銀は、信長様が清洲城に戻ると伊勢守家との仲裁に乗り出した。だが、ここで和睦したらせっかく帰ってきた荘園が、再び伊勢守家に横領されかねない。そのため斯波義銀は、守護としての名声を急速に失っている。
そんな人物が動いたところで、誰も味方しないので脅威に感じる必要はない。
松岳道悦は、正直怪しくはあるけれど、信長様を打倒する軍勢を集めるなんてことは不可能だ。家老の柴田権六勝家は完全に信長様に心服している。末森城は押さえているし、味方する者がいないからとても謀反なんておこせない状態だ。
残ったのが、織田信広ただ一人になる。織田信広なら、勝幡城を擁しているので奇襲できるだけの軍勢を用意できる。それに、信長様が清須を離れる時はいつも城代として清洲城に入っていた。
「斎藤高政が信長様を引きつけておいて、三郎五郎様が清洲城を奪う。そして、勝幡城から軍勢を引き入れれば、美濃、岩倉、清須と我等を包囲できます。我らの兵は逃げ散り、まともに戦うことすら叶いません」
「やはり、三郎五郎とも戦うしかないか」
信長様は、兄弟間での争いに嫌気が差しているようだ。謀反を起こした弟を斬らなかったことを後悔しているのだろうか。しかし、助命は守護の排除には必要なことだ。
「胸中をお察しします。しかし、ここで勝利すれば、尾張は信長様によって統一されるのも事実です。なので……」
「分かっておる。負けてやろうなどとは思ってはいない。しかし、考えていることがある。長三郎、賽を出せ。吉凶を占うぞ」
信長様が己の賽子を出したので、俺も懐からサイコロを取り出した。
弘治三年九月、美濃の斎藤高政が尾張侵攻のための兵を挙げたという知らせが清洲城にもたらされた。
信長様は、これあることを予測し、事前に用意させておいた馬廻りたちだけを率いて木曽川流域の黒田城救援に向かうことを決定した。
「良いな、藤右衛門」
「承知いたしました。しかし、まことに三郎五郎様が……」
清洲城の留守居役として残る佐脇藤右衛門が困惑した表情を見せる。俺の周囲にいる小姓や近習、馬廻りたちも信じられないという顔をしていた。
「何もなければ、わしが三郎五郎に詫びを入れれば済む話だ。お前は、言われた通りに清須を守ればよい」
出陣を前にした信長様が、佐脇藤右衛門に厳命する。
信長様の命令に、佐脇藤右衛門が渋々と言った様子で引き下がった。たぶん、織田信広と何度も共に留守居をするうちに信頼関係が出来ていたのだろう。
「殿、出陣の用意が整ってございます。いつでも、お下知を」
丹羽五郎左衛門尉長秀が現れて、平伏する。
「よし。ここで斎藤高政を追い返せば、岩倉城は今度こそ落城を待つのみ。尾張を、弾正忠家が統一するのだ!」
尾張統一のため、最後の戦いが始まろうとしていた。




