浮野戦 壱
木曽川は、豊富な水量で支流が多いうえに、よく川が氾濫を起こしている。そのために、中島郡でも岩倉城から西側は特に足場が悪い。
ぬかるんだ地面は軍勢の移動に支障をきたす。兵たちの体力を奪い、行軍を遅らせてしまうのだ。そして、視界を遮るものがない平地が広がっているために、山上にある美濃の稲葉山城からは行動が筒抜けになっていた。これでは、美濃から援軍が到着するのを待っているようなものだ。
では、どうすればいいのか。答えは美濃から木曽川を越えさせないようにしてしまえばいい。つまりは、木曽川流域の織田伊勢守家の城を攻め落として、伊勢守家に援軍を送れないように囲い込んでしまう。木曽川と美濃の動向を見張る城に阻まれて、美濃から尾張に来るのが格段に困難になるはずだ。
岩倉城のほうが清須から近いために、そちらを先に落とさないといけないと思い込んでいた。
だが、当然清須からまっすぐ北上しては迎撃されてしまう。だから、那古屋城から瀬古に回って庄内川を越える。そして、北外山、小牧を通って、岩嵜、羽黒、犬山に向かう。この道は、信長様の姉が犬山城の織田十郎左衛門信清が嫁ぐために通ったので、付き添った者に話を聞くとまだぬかるみも少ない良い道であったそうだ。
当然、伊勢守家には軍勢の移動を知られてしまうが、犬山城についてしまえばこっちのもの。織田信清と協力して、ともに木曽川流域の城をこちらの物にする。
「あとは、囲い込んだ岩倉城を攻めれば良いだけとなります」
岩倉城を落とすためには、美濃の介入を阻止しなければならない。そこで考えたのがこの策だった。
奉行に任せている那古屋城の視察から戻った信長様は、興味深げに聞いている。そして、俺の話が終わると絵図の一点を指差す。
「狙うはここだな」
ちょうど稲葉山城の南、木曽川を越えたところにある対美濃の最前線であった城、黒田城だ。
「伊勢守家の家老、山内猪之助盛豊が城代であったはず。ここを取れば、お前の策は上手くいく」
「はい。如何でしょうか?」
信長様が絵図の黒田城辺りを指で叩き、考え込む。
「奴らが城を落とされるのを、黙って見ているわけがない。下手をすれば、挟撃をくらいかねん。美濃を動けなくするためには、奴らが動く前に素早く城を落とすことだ。だが、あの辺りの城は、村木のような急ごしらえの砦ではない」
どうやら、今回は俺が大きな賭けに出過ぎたようだ。対美濃最前線の城を甘く見積もりすぎた。
「駄目ですか……」
「考えは悪くない。要は、城を薄くすれば良いのだ」
「と、いいますと……こちらに、清須に敵勢を惹きつけるのですか?」
「さすれば、十郎左衛門はやすやすと城を落とせよう」
確かに、こちらが全力で出陣すれば伊勢守家は戦力をかき集めて来るしかない。犬山城周辺からは引き抜かないだろうけれど、それでも城は落としやすくなるだろう。
でも、それは後々に問題になりかねないことでもある。
「お言葉でありますが、そうなれば黒田城などの諸城は十郎左衛門様お一人の手に属しましょう。姉君が嫁がれている御一門とは言え、大きな力を持たせては危険では?」
「木曽川周辺だけのことよ。それで、しばらく十郎左衛門は美濃にかかりきりとなろう。その間に、今川、斎藤と伍する力を蓄える」
東は水野藤四郎信元の緒川城、北は織田信清の犬山城。敵対している大名と距離をあけて、一旦戦から遠ざかるというのだ。
確かに、尾張は織田信秀亡き後、国内で戦乱が続いている。ここで一年か二年は大きな戦をせずに力を蓄えるべきなのかもしれない。
「ならば、岩倉城についても落としてしまわなければなりませんね」
「美濃から援軍が来れないのであれば、落とし方はある」
信長様が軽く笑みを浮かべて、絵図の岩倉城を指先で丸く囲った。
弘治二年七月、弾正忠家は軍勢を清須に集結させた。その数、四千余。現在弾正忠家が出せる精一杯の兵数を揃えたことになる。
反対がないでもなかったが、この一戦で雌雄を決するという固い意志を信長様が示したことで、各城から続々と諸将が揃ったのだ。
林佐渡守秀貞、佐久間半羽介信盛、佐久間大学助盛重、柴田権六勝家、滝川左近尉一益、丹羽五郎左衛門尉長秀の重鎮たちが揃い踏みとなり、我こそはと意気軒昂であった。
清洲城は、勝幡城の織田三郎五郎信広が、佐脇藤八郎良之の養父である佐脇藤右衛門とともに留守居役となって留守を守る。
織田信広起用を不安視する声もあったが、それでも信長様は織田信広を指名した。裏切りなんて微塵も考えていないと言わんばかりの態度に、かえって織田信広が拍子抜けした表情を浮かべていたくらいだ。
そうして、陣容が整ったところで、岩倉城からも軍勢が出撃したとの報がもたらされる。
しかも、以前に散々岩倉城周辺を叩いたので、今度はそうはさせないとばかりに清洲城に迫る勢いだという積極的攻勢にでてくれた。
これは、父親を追い出して伊勢守家を継いだばかりの織田左兵衛信賢による意図なのかもしれない。
伊勢守家では、次男を寵愛していた織田信安が嫡男の織田信賢によって追放されている。つい二年前に斎藤道三が同じようにして殺されたというのに、呆れるほかなかった。
それはともかく、織田信賢は木曽川周辺の城からも兵力を抽出したのだろう、ほぼ同数と思われる四千を率いているようだ。
現状のところ、全てが上手く進んでいる。伊勢守家の兵の大半を清須に惹きつけられたのだから。
「殿、敵は随分と攻め込んでまいりました。出陣されなくてよろしいのですか?」
林秀貞の意見に、信長様は問題ないとうなずく。
「出来るだけ清須近くで戦う。奴らを簡単に北へと戻れなくさせるのだ」
「承知しました。田に被害が出てしまうでしょうが、やむを得ませんな」
村井貞勝らがいないので、清洲城の内政を兼務する林秀貞からしたら、田の被害は気になるところだろう。
「殿、先鋒はぜひこの柴田権六にお任せ下さい」
「いや、佐久間大学が先鋒を承りたく存じます」
柴田勝家と佐久間盛重が睨み合う。柴田勝家からしたら、信長様の正式な麾下となって初めての戦だ。ここで働きを見せておきたいところだし、佐久間盛重は新参者に手柄を取られてたまるかと思っている。
火花を散らす二人を、信長様は面白そうに見ている。そして、良いことを思いついたと扇で手を打った。
「先鋒は三人とする。半羽介、大学、権六が務めよ。誰が最も功績をあげるのか競うのも一興だ」
信長様の決定に、名前を呼ばれた三人は色めき立つ。
「先鋒に興味はありませんが、この二人に負けるのは御免被ります。見事、先鋒を務めてみせましょう」
「かしこまりました。我が力をとくとご覧じますぞ」
「腕が鳴りますな。これは負けるわけには参りません」
さっきとは違う意味で火花を散らす三人。滝川一益と丹羽長秀はうらやましそうにしている。
「佐渡と左近は三人の後ろに控えよ。必要とあれば前に出す。五郎左、馬廻りは温存だ」
三人が平伏し、これで陣立てが決まった。
予想外なのは守戦に強い佐久間信盛を前に出したことだが、三人の競争心に上手く火がついているようだ。
軍議が終了し、信長様が池田勝三郎恒興や佐脇良之といった側近や小姓たちを引き連れて奥に下がると、諸将は我先にと自分たちの軍勢のところに戻っていった。
俺たち馬廻りも、丹羽長秀に続いて戻ろうとする。
「五郎左殿、我らが温存とは、納得がいきません!」
「殿がお決めになられたことだ、下がれ孫四郎」
前田利家が丹羽長秀に噛み付いているが、丹羽長秀は軽くいなしている。しかし、納得いかなかったのは前田利家だけではなかったらしい。
「孫四郎の申すとおりです。尾張統一のための戦に、我ら馬廻りが指を咥えてみていなければならんとは。五郎左殿はそれで良いのですか」
結婚したばかりの佐々内蔵助成政も、前田利家の肩を持つように丹羽長秀に詰め寄る。それを丹羽長秀は掻き分けるようにして、遠ざけた。
「お前たちは、ええい、邪魔だ。殿がお決めになられたのだから、仕方あるまい!」
「五郎左殿、お待ち下さい! くっ、長三郎も何か言ったらどうだ!?」
「いや、五郎左殿に申し上げても仕方ないだろう。殿がお決めになったんだから」
俺が賛同しないと見ると、前田利家と佐々成政が今度は俺に詰め寄ってくる。
「この大一番に働きを示せないでは、末代までの恥ぞ。長三郎には、それがわからんのか!?」
「そうだぞ、長三郎。それに、我らはお互いに妻を持った身だ。ここで大きな手柄を上げて、妻を喜ばせるのも甲斐性というものだ」
急に二人が詰め寄ってきて、どう対応するべきか困惑していると、さらに二人が押しが弱いだのなんだと言ってくる。しかも、丹羽長秀は俺に合掌すると、そそくさと逃げてしまっていた。
「ああ、はいはい。俺が悪かったから、少しは落ち着け。もう五郎左殿はどこかに行ってしまったぞ」
「くっ逃げられたか。仕方あるまい、後でまた五郎左殿にお願いせねばな」
前田利家が、丹羽長秀の逃げた方向に顔を向け、悔しそうにする。
そこに、廊下を塞いでいる俺たちに不機嫌な声がかかる。
「邪魔だ。そこをどけ」
振り向けば、数人の男たちが後ろにいた。俺たちは反射的に廊下の端によると、もう俺たちに視線を向けることなく壮年の男を先頭にして通り過ぎていく。
その中には、塙九郎左衛門尉直政の姿もあった。隣を歩いている男と親しげになにか話をしている。
男たちが通り過ぎて十分に離れたところで、前田利家が腹立たしい様子で掌を拳で打つ。
「何だ偉そうに。我らにどけなどと」
「仕方あるまい。廊下を塞いでいた我らが悪いのだ」
「見ない顔だったが、誰かわかるのか?」
気になって、訳知り顔の佐々成政に尋ねる。
「九坪城主の簗田四郎左衛門様だ。桃巌様の代に弾正忠家に仕えるようになったが、その前は斯波家に仕えていたのだ。滅多に見られない御仁だから、長三郎が知らないのも無理はない。わしも一度見ただけだからな」
「では、後ろにいたのは? 九郎左衛門殿と話をしていた」
「息子の左衛門太郎殿だろう。どうして九郎左衛門殿と一緒であったのかは知らん。何か気になるのか?」
「いや……ただ、見ない顔だったから、気になっただけだ」
塙直政に簗田左衛門太郎。塙直政は、油断ができない相手だ。しばらく何もされてはいないが、それでも警戒を怠ることができない。その塙と親しくしていた簗田家についても、警戒しておいたほうが良さそうだった。




