契と策
弘治三年二月吉日、ついに妙との祝言の日を迎えた。
先月に移った新居は、信長様の清須での新居はほどほどにしておけという忠告を入れ、無主となって手放された屋敷を修繕したものだ。
家臣二人には無主だったというのは縁起が良くないと文句を言われたので、修繕に加えて加持祈祷をしてもらっている。それでも安く済ませられて助かった。
そして、今日使う諸々の道具は借り物だ。よっぽどの大身でないと、普段使わないようなものを持っているわけがなく、俺は清洲城から借りてきた。藤吉郎が清洲城内でそれなりの役職に就いているので、簡単に借りられたのだ。
俺はただ落ち着かずに、今日のために設えた祭壇、擬似的な床の間の前をうろうろとあるく。
床の間なんて言うけれど、白絹を敷いて、そこに色々な物を置いて飾り付けているだけだ。一つの二重台には蓬莱を、また他の二重台に三ツ杯を置いて近くには瓶子や銚子、提子がある。他にも置鯉と置鳥なんかも置かれていた。
この時代の祝言は夜に行われるために、室内は僅かな灯りに照らされているだけで薄暗い。そのためか、訳の分からない不安が胸中から湧き出している。
そんな時、にわかに表が騒がしくなってきた。おそらく、花嫁が到着したのだろう。
俺は覚悟を決めて、じっと待っていることにする。やがて、祝言の間の障子が開けられて輿が担ぎ入れられる。輿を担いでいるのは、篠岡八右衛門の妻と村井吉兵衛貞勝の娘、つまりは佐々内蔵助成政の結婚相手だ。それに加えて、村で雇った女中と女たち。
ゆっくり輿が下ろされ、篠岡八右衛門の妻が輿の御簾をあげた。そして、妙の姿がようやく見られた。
練絹の白い小袖を重ね着して、その上から綾絹の白小袖を纏って白の帯で締めている。さらに白の打掛を来ていた。正に白装束というやつだった。
化粧を施された妙の顔が、俺の方を向く。いつもと様子が違う妙に、心臓がうるさく鳴り続けてしまっていた。
妙が輿から降りると、輿は女たちによって運び出されていき、祝言の間には二人だけが残される。
静かな室内で、俺の心臓の音だけが鳴っている気さえしていた。硬直して動けない俺を他所に、妙は静々と疑似床の間の前に着座する。そこで、ようやく俺も動けるようになって妙の隣に腰を下ろす。
そして、今度は見計らったかのようにして、再び篠岡八右衛門の妻たちが入室してくる。酒改めの役として、一人が瓶子を持ち、もう一人が銚子と提子を持って後ろに控える。
床の間は祭壇になっており、そこに捧げられていた酒はお神酒となっている。ただ、俺は酒がほぼ飲めないのでかなり水で薄めてあるものだ。この日のために、何度も酔わない量を測っている。
三三九度の盃を妙と交わす。入っている酒は僅かなはずなのに、顔が熱くなってしまった。妙が心配そうに見てくるので、笑顔を作って安心させる。それでも妙は不安そうだった。
だから、酒改めの役の女たちがすこし離れたところで、妙の耳に口を近づける。
「顔が暑いのは、妙があまりにきれいなだけだ。だから、そんなに心配するな」
「ちょ、長三郎……」
妙はぱっと顔をうつむかせてしまう。しかし、薄暗い中でも、その顔は真っ赤になっているのがわかった。
その後は、もう薄ぼんやりとしか記憶が残っていない。ただ色直し後の饗膳の時に、いつもでは言わないようなことを、妙に囁いていたのは覚えている。
翌朝、妙の隣で目覚めると、昨夜囁いたことを思い出して悶え苦しんでしまう。そして、何故か家臣二人と友人三人が正座させられている姿が庭にあるのだった。
晩春を迎え、ようやく清須も暖かくなってきた。妙との新居での生活もだいぶ慣れてきたところだ。
だが、私生活では順風満帆ではあるのだけれど、岩倉城攻略の策は何も思いつかないままだった。
「殿は今日も難しい顔をしているのですね。食事のときくらいはお止めになられては如何ですか? もうそろそろ佐々様たちがいらすのでしょう」
「あ、ああ、そうだな。すまない」
組んでいた腕を解いて、後ろ髪を撫でる。清洲城内ではとても考えられないので、家にいるとついつい考え込んでしまっていた。
妙と女中が着々と食事の用意を整えていくのをぼんやりと眺める。そうしていると、がやがやと無遠慮に家に上がり込んでくるのが聞こえる。
そして、新次郎や前田基勝と挨拶を交わす声が聞こえたと思ったら、いつもの面子が顔を見せた。佐々成政、前田利家、藤吉郎の三人にその家臣数人。
「邪魔をするぞ」
「お手伝い申し上げろ、まつ」
「お妙様、これは持参した今日の分の酒でございます」
三人が思い思いに俺の近くに座り、前田利家が連れてきたまつが妙を手伝い始める。それはよくある光景なのだが、前田利家が村井長八郎ではなく知らない男を連れていた。
「紹介しよう、長三郎。こいつはわしの弟でな。少し前に佐脇家に養子に入って、清須に住むことになったから連れてきた」
「佐脇藤八郎良之と申します。長三郎殿のことは、兄より伺っておりました。以後、お見知りおきを」
佐脇良之が、丁寧に頭を下げる。なかなか精悍な顔つきの美丈夫だ。
「佐脇殿のところに養子が入ったとは聞いていたが、孫四郎の弟だったとはなぁ」
「兄上は荒子の立て直しに必死なのだ。他にも蟹江城が近いから、兄上は滝川様の縁者から嫁を貰った」
当主交代で済んだとは言え、今の前田家は評判が良くない。信長様に背いた家はどこもそんな状態であった。罪はなんらかの功績を上げて払拭する必要がある。そのために、前田家が選んだのは人の結びつきのようだ。
「ここだけの話にして欲しいのだがな、どうも前に荒子の兵を動かしたのは父上ではなく、どうも兄上の方らしいのだ」
「それは……」
思わず佐々成政たちと顔を見合わせてしまう。
表向きは当主であった前田利家の父が、熱田と清須の間を遮断したことになっている。
「亡くなられた林美作守様に逆らえなかったのはわかるが、それで藤八郎を養子に出したのが納得できんでな」
「孫四郎兄上、もう良いではないか。佐脇家の方々はとても良くしてくれている。長兄も、前田家のことを考えて自身の嫁を迎えたのだから」
「いいや、お前はわしの下に来るべきだったのだ。そうしたら、いずれ出世したときに前田姓で一家を立てさせてやれた」
「はいはい、わかりましたから。兄上が城持ちとなられた時は、いつでもこの弟をお呼び下さい」
まるで信じていないような弟の言い方に、前田利家は佐脇良之の首に腕を回して締め上げる。ただのじゃれ合いとわかっているので、囃し立てている間に、膳と酒が運ばれてきて食事が始まった。
「孫四郎が秘密の話を漏らしたのだから、ここはこの内蔵助も披露してやるかな」
佐々成政が酒を飲みながら言う。そして、声を潜めて俺たちだけに聞こえるように話し出した。
「村井様から聞いたの話だから、恐らく本当のことなのだが……どうも殿は那古野城を改築するおつもりだそうだぞ」
「那古野城をでございますか? それはまたどうしてでしょう」
藤吉郎が佐々成政に酒を注ぎつつ、首をかしげる。
「わからん。だがやはり、今川のことをお考えになっているのではないか?」
「そんなことよりも、誰が改築された那古野城を任されるのかということだ。そこのところは聞いていないのか、内蔵助?」
「いや、村井様もお聞きになっていないそうだ」
まさか俺じゃないよな?
驚いているふりをしつつ、汁物に口をつけて顔を隠す。信長様は、清須の新居はほどほどで良いと言った。ということは、清須を離れることがあるということ。
まあ、流石にそれはないか。あるとしたら、誰かの与力になって那古野城の方に移るということだろう。
「長三郎は殿から何も聞いておらんのか?」
「いや、特には聞いていない。でも、もしかしたら……誰かの与力になるのかもな。そう考えれば合点がいくことは言われた」
「長三郎が与力になるのなら、また林様が城代か?」
「いやいや、林様は奇妙丸様の傅役だぞ。清須からお離れにはなるまい」
それから、家老級の人達の名前が上がるが、どれも那古屋城を任されるようには思えなかった。
結局、話が盛り上がらなくなったところで、今度は藤吉郎が口を開く。
「では……次は藤吉郎めがとっておきを披露いたしましょう」
藤吉郎が、口横に手を当てて周囲に聞こえないようにして話す。
「実はですね……見たのですよ」
「何だ、もったいぶりおって。さっさと話せ、藤吉郎」
「炭薪の奉行を仰せつかっているので、夜や朝方に見回りをすることがあるのですが……その折に見てしまったのです、殿様を」
信長様を見た。それだけなら別に秘密にするようなことではない。
「どこに入っていったと思います?」
「殿が盗み食いでもされていたか?」
「そんなんじゃありませんよ。実は、生駒家の吉乃様の部屋に入って行かれたのです、夜に」
吉乃殿の部屋に信長様が入っていった。
それを聞いた俺たちは、満足に噛みもせずに食べていたものを思わず飲み込んだ。
「昨年の稲生の戦いで、土田弥平次様は深手を負われて九月にお亡くなりになられた。帰蝶様に侍っておられた吉乃様を、恐らく殿様がお慰めになられたのでしょうな」
腕を組みつつ、しみじみと言う藤吉郎。
佐々成政と前田利家は酒を飲んで、喉に詰まっているものを押し流す。
「まあ、奇妙丸様だけでは、お子は随分と少ない。ご側室をお取りになるとは思っていたが……それが吉乃様とはな」
「まったくだ。しかし……考えてみれば良い人選だと思うぞ。犬山城には姉君、小折城からご側室。どちらも木曽川の近くにある城だ。美濃と戦うために、心強い味方となってくれそうだ」
木曽川の近くにある城。
佐々成政が前田利家と藤吉郎に講釈を垂れている。そして俺は、岩倉城を落とす策をうっすらと思いついていた。




