西三河
「――――郎! ――三郎ったら。起きなさい長三郎!」
なんだよ姉ちゃん。もっと寝かせてくれよ……。
「長三郎! もう日が昇るわよ! 信長様とお稽古でしょう!」
日が昇る? 稽古?
姉が体を揺すってきているが、なかなか目が覚めてくれない。丸くなって姉に抵抗する。
「いい加減に起きなさい! 信長様に怒られても知らないからね!」
信長様……怒られる……? 怒られる!
「きゃっ!」
がばっと起き上がると、姉がびっくりして尻餅をつく。
「ごめん姉ちゃん! 行ってくるよ!」
「待ちなさい! 握り飯!」
姉が差し出す竹皮の包みを受け取って、全力で走る。そして走りながら、包みから握り飯を取り出して口に含む。
俺はずっと信長様の稽古に付き合う日々が続いている。まず、朝夕の馬の稽古には走ってついていく。そして夏から始まったのが、川での水泳だ。川で泳がない日も、弓の名手だという市川大介を呼び出して弓の稽古を受けている。とにかく、毎日が稽古詰めだった。徹底的に体をいじめ抜くような日々を送っている。
模擬戦への参加人数も少しずつ増えており、稽古にも混ざる時があった。
平手政秀も、こうした弓馬の稽古にはなにも言わない。ときどき報告させられるが、特に変わったことがないので平和そのものだ。
握り飯を頬張りながら走っていると、角から急に人が出てくる。俺は思わず叫び声を上げ、避ける間もなくぶつかってしまう。ぶつかった相手はよろめき、俺は逆に吹き飛ばされてしまった。
「長三郎! お前、若殿になんて無礼を!」
勝三郎の怒鳴り声が聞こえ、上を見上げると信長様の怖い顔。俺は慌てて平伏した。
「申し訳ありません! い、急いでいて……」
信長様は何も言わず、俺が落としてしまった握り飯の包みを掴む。そして、握り飯を取り出してかぶりついた。
「行くぞ、わっぱ。ついて来い」
通り過ぎがてらに包みを投げ返される。俺はため息をつき、最後の握り飯を食べながら後に続いた。朝の馬の稽古。それは、いつも通りの朝のはずだった。だが、それは急報によって打ち破られる。
天文十八年(一五四九)九月、今川義元による西三河侵攻が行われたのだ。
「まさかこんな時に義元めが動くとは……」
青白い顔をした織田信秀が憂鬱げに頬杖をついている。
信秀の居城である末森城には、信長をはじめとする弾正忠家の主だった面々が集っていた。
「三月に続いての侵攻……もう、今年はないものと考えておりました。油断しすぎましたな」
家老たちの中で、平手政秀が代表して信秀のつぶやきに応えた。
「敵の大将は……また太原雪斎でありましょう」
「三月は追い返したが、去年の小豆坂では虚を突かれしてやられた。此度は――」
信秀が口もとを押さえて咳をする。家老たちは、そんな信秀を心もとなく見ていた。
身分としては、守護代家に仕える奉行でしかない織田弾正忠家。そんな弾正忠家による尾張支配は、信秀の才覚によって成り立っていると言っても過言ではない。その信秀が、長く病に臥せってしまっている。家臣たちが動揺するのも無理なかった。
「此度は三郎五郎だけでは持ちこたえられまい」
織田三郎五郎信広。家督の相続権こそないが、信秀の息子である。現在は、今川に侵攻されつつある、三河国の安祥城を守っていた。
「援軍を送ってやらねばなるまい。だが、儂がこれでは――」
またもや大きく咳をする信秀。
「父上!」
信長が立ち上がり、信秀の前に進み出る。
「私が援軍を率いて三郎五郎を助けにまいりましょう。父上はこの末盛でお待ちください」
「三郎が……な。戦の経験が少ないお前では、してやられるのが目に見えている。下がっておれ」
「では誰が安祥へ加勢に行くというのですか!」
大声とともに手で家老たちを示す。誰もがそっと顔を伏せてしまった。
信秀が平手政秀に顔を向ける。
「……政秀……そなたが行ってくれ」
「殿のご命令とあれば」
政秀が頭を下げ、信長が目を吊り上げている。
「すぐに兵を整えます。しかし、稲刈りの時期です。兵は少なくなってしまいます」
「仕方あるまい。できるだけ多く集め、安祥にむかえ」
「……刈田も行われるでしょう。三河では米が手に入りますまい。なので、多めに米を持っていきます」
刈田狼藉は、敵の支配地域における田畑を収穫前に刈り取ってしまう行為だ。敵の収入に打撃を与え、かつ自軍の兵糧にすることができる。敵方にとっては一石二鳥の行動であり、味方にしたら泣きっ面に蜂だ。
「委細任せる」
「かしこまりました。つきましては……三郎様にも出陣してもらいたく思います」
「どういうことだ?」
「三郎様も初陣は済ませておいでですが、このような大戦はまだご経験がない。殿が出陣できない今、良い機会です。また三郎様にご出陣いただければ、士気は高まりましょうぞ」
「しかしだな、政秀……大戦だからこそ、三郎にはまだ早い」
「いつまでも先延ばしには出来ません。大将はそれがしが務めます」
信秀はまだ目前で立ったままの信長を見上げた。若輩者にありがちな、血気に逸る表情を見せている。当主であり、父である信秀にとっては不安でしかない。
だが、健康に心配がある自分に代われるのは安祥城の信広であり、目の前の嫡男三郎信長だけだ。政秀の言う通りに、今後を見据えて信長に経験を積ませるのは必要なことだった。
信秀は、二人に任せるとばかりに手を振った。
「兵糧はできるだけ用意しろ! もうすぐ収穫だ。ありったけ持っていく!」
「矢は自分で運ばせるんだ。駄馬には米を優先!」
那古野城は出陣の用意でてんてこ舞いになっていた。鎧兜に、必要物資の用意と当座の兵糧の準備。さらには集まってくる武士や足軽の受け入れと、人手がいくらあっても足りない。
そして俺は、伝令役として城を駆け回っている。
「長三郎、駄馬がどれほど集まったか聞いてこい。それと――」
「陣夫の人数ですね! 行ってきます!」
今も、信長様の筆頭家老である林秀貞の命令で戻ったところだと言うのに、また走らされる。もうついでに聞かれることもわかるくらいに駆け回っていた。
平手政秀は、安祥城への援軍の大将として末森城で準備にかかっている。そのため、日頃は政治面で動いている林秀貞が前面に出て準備を進めていた。立場的には平手政秀よりも上なのに、金策の方では劣っているために地味な活躍しかしない。だが、交渉事などでは信長様に信頼されて任されていた。
この人は礼儀を守って、仕事をちゃんとやっていればとやかく言わない人なので楽だ。
俺が城門まで行くと、ちょうど信長様が末森城での軍議を終えて戻ってきた。
「わっぱ! 準備はどうなっている!?」
「人手が足りません! 詳しくは林様に聞いて下さい」
「違う! わしの出陣の用意だ。それとお前のもだ!」
俺は信長様が何を言ったのか理解できず、とまどってしまう。
この城からは援軍だけを出して、信長様が出陣するとは考えてもいなかった。信長様が今川と戦うのは、十一年後になる永禄三年(一五六〇)の桶狭間までないと思いこんでいた。
「信長様が出陣するなんて! そんな、そんなこと……ありえないんじゃ……」
「訳のわからないことを言っていないで、さっさと準備をしろ!」
困惑した俺を置いて、信長様が馬小屋の方に向かう。俺は急いで他の雑用係に林秀貞への報告を頼み、踏み入れたことのない信長様の居室に急いだ。
忙しく行き交う人々を尻目に、信長様の居室前に行くと、ちょうど姉が出てきたところだった。
「姉ちゃん! ちょうどよかった! の、信長様のしゅ、出陣の用意! いいい急いで!」
「落ち着きなさい。もう帰蝶様がご用意なされているわ。あたしも手伝ったのよ」
姉の用意済みの言葉に、俺は腰が抜けたように崩れ落ちてしまう。
「姉ちゃんも知ってたの? 信長様が出陣するって?」
「勿論よ。長三郎、あなたもしかして……知らなかったの」
出陣なんて無いと思い込んでいたのだ。そりゃ、織田信長の歴史をすべて知っているわけではない。これが史実通りなのか、俺がいるせいなのかもわからない。ただ、戦なんてしばらくないと、自分の都合のいいように考えてしまっていた。
「知らなかった。……それに、俺もついていくことになった、みたい……」
「……そう……なの」
姉が、座り込んだままの俺をそっと抱きしめてくれる。
「行くななんて言えない。だけど……どうか無事に帰ってきて」
強く抱きしめられる。姉は、震えていた。いや、姉だけではなく、俺自身も気づかないうちに全身を震わせていた。武者震いではない。おっとうも死んだ戦に、自分も行くのだと思うと怖いのだ。
「まだあんたは幼いから、前に出て戦わない。でも、ちゃんと信長様についていくのよ」
元服しないと成人とは見做されない。俺はまだ元服していないし、十一歳での元服は無いとまではいかないが、武士だったとしても早い部類になる。だから、元服するにしてももう数年後だろうし、戦に出るなんてそれからだなんて甘い考えだった。
「姉ちゃん、俺……」
「大丈夫よ。信長様なら、危ないことになんかならないわ。だから、あんたも大丈夫。ほら、立ちなさい。ちゃんと仕度をしないといけない」
姉に促されるようにして立ち上がる。そして、手を引かれていこうとしたとき、信長様の居室から女性が姿を見せた。
「お通、ちょっと……あら?」
「帰蝶様。申し訳ありません。これから、弟の仕度をしてやらないといけなくて」
信長様の奥方、こんな近くで初めて見た。
「そう、その子が長三郎。話はよく聞いている。毎日、殿が連れ回している子ね」
おそらく姉から俺のことを聞いているのだろう。でも、いつの間に姉が帰蝶様の側にいるようになったんだ?
「その子もここで支度させればいいわ。早いでしょうけど、元服もやってしまいましょう」
「そんな! この子は武士ではないのですよ」
「でも、ちゃんとした刀持ちの子だと殿が言っていたわ。だから……殿は長三郎のために刀も用意していた」
おっとうは鎌持ちではなく、ちゃんと刀を持っていた村の成員だった。そうなると、自分も元服のときには刀を父から与えられて、刀持ちとして村での発言権を持つのだ。刀を持つ者と持たない者では、大きな差がある。
おっとうが死に、信長様の雑用係として頑張り、何らかの役職についても刀を持つ身になるとは考えてもいなかった。
「信長様が……俺に?」
「ええ。さあ、こっちにおいでなさい。お通はこの子に合う具足を持ってきてあげて」
俺は、何と言っていいか分からず、導かれるままに信長様の居室に入っていった。