信と家
サイコロを椀に振り入れる。
軽い音を鳴り響かせて、目を示す。出した目を確認したら、再びサイコロを手の中に収めた。そして、傍らにおいた、新次郎が持ってきた書状に目をやり、ため息をこぼす。
屋敷の外では、もう田植えが行われており、歌が聞こえてきている。
そんな中、俺は簡単な尾張の略絵図の前で考え込む。どうすれば末森を落とし、そして尾張を統一できるのかを。
「長三郎殿はずっと考え込んでいますな。一体、何を考えているのですか?」
声に反応して顔をあげると、前田孫十郎基勝が庭にたたずんでいた。
「いや、埒もないことです」
俺は立ち上がることなく、足を引きずるようにして縁側に移動する。前田基勝も、縁側に腰掛けた。
「随分と長く世話になってしまいました。お礼を申し上げていなかったので、お伝えしておこうと思ったのです」
「いや、孫十郎殿には当家の足軽を供養して下さった。お気になされず、いつまでも村にご逗留下さい」
前田基勝は、美濃から逃れてきてからずっと村に留まっている。お経を上げてくれたお礼に信長様に口利きをしようかと尋ねたら、断られてしまったのだ。その代わりに求められたのが、村での静養だった。
「ありがとうございます。しかし、長三郎殿が何やら考えておられたように、拙者も身の振り方を考えておりました」
「では、再び出家なさるのですか?」
前田基勝の伸びてきた髪の毛を見る。出会った頃は見事に髪を剃っていた。聞いた話では、比叡山で修行をしていたが、父親の危機ということで還俗して戦いに臨んだらしい。
「さて、修行を取り止めて、受け入れてもらえるか否か。現世のことを捨てきれない未熟者と言われるでしょう。そうした僧侶は数多いですが、外から叡山に入った者ではやはり……」
「何も叡山だけが僧の道ではないでしょう。南都にも、戒壇を授ける寺はあります」
「南都の寺院は、叡山とは仲が悪いのですよ。かつての因縁を今なお引きずっておるのです」
言外に、行っても相手をしてくれないと言っている。僧侶の道も、なかなか狭き門のようだ。確かに、大寺院と言えども、このご時世では荘園からの収入が限られていた。誰も彼もと受け入れている訳にはいかないのだろう。
「ですから、今しばらくは僧にならないことに決めました。現し世に戻ったのも何かの縁、ここで働きを示し、それから出家しても遅くはないでしょう」
「しばらく武士であられるということですか。なら、清洲城に行った折に殿に口利きを――」
「いえ、ここで、と申しました」
ここで働きを示す。それはつまり、俺の家臣になるということ。
俺が呆気にとられて前田基勝を見ると、前田基勝は庭に平伏して頭を下げる。
「未だ未熟にて、さしたる手柄は御座いませんが、道祖様の家臣にしていただけないでしょうか」
「ま、孫十郎殿、突然何を!」
「道祖様は、死した一足軽にあそこまでの温情を示された。その慈悲の心に、拙者も預からせて頂きたく、伏してお願い申し上げます」
「慈悲の心なんて全然持ち合わせていない。ただ、後ろめたかっただけだ……」
どうにか声を絞り出すと、前田基勝が顔を上げた。
「そのようなことはありません。この村もつぶさに見て回りました。地侍でもないのに、村に心を配り、村人の生活を安んじようとされている」
「村で収穫がよくなれば、殿へのご奉公に役立つだろうと思ってのこと。孫十郎殿がお感じなられるようなことはありませぬ」
「聖人は常に心無く、百姓の心を以て心と為す」
聞いたことがある気がするが、どうも思い出せない一文を前田基勝が口にする。
俺が戸惑ったのを察して、さらに続ける。
「唐土の古い考えです。善なる者は吾これ善とし、不善なる者も吾またこれを善とす、と続きます。善とは、人によって異なるもの。そのため聖人は自らの心を閉ざし、人々の心に従います。だから拙者は、道祖様に慈悲の心がお有りだと思っております」
「それは……」
それ以上、言葉が出てこない。村人は俺に慈悲の心があると思っている。前田基勝はそう言っているのだ。村人ともよく話をしていると思っていたが、俺の評判まで聞いていたとは思わなかった。
気恥ずかしさと、騙しているような後ろめたさが溢れてくる。そして、同時に敗北を悟らずにはいられない。どれだけ否定しても、前田基勝は皆がそう考えているとして譲らないだろう。
いつまでも平伏し続ける前田基勝に対して、俺も縁側から立ち上がって庭に下りる。
「篠岡八右衛門を五貫文に加増したばかり。出せて二、三貫文程度だが、それでも構わないのか? 殿にお仕えしたならば、十貫文以上は頂けるだろうに……」
「独り身ゆえ、食っていけるだけで十分です。それに修行生活で粗食にも慣れておりますれば、問題ございません」
「わかった。前田孫十郎基勝を召し抱える。叡山で修行したという見識を見せてくれ」
「ははっ! ありがとうございます。この身、存分にお使い下さい!」
主君が元農民で、篠岡八右衛門は地侍。そこに加わった前田基勝は元仏僧。おかしな取り合わせな気もするが、ともかく、こうして俺は二人目の家臣を召し抱えた。
田植えが終わった村を篠岡八右衛門に任せ、俺は前田基勝とともに清須に戻ってきた。そして、すぐさま登城して信長様に面会する。
「最近、またぞろ武衛がうるさくなってきた。今川と結んでいた分際で、あれこれと横槍を入れてくる」
信長様が不機嫌そうに愚痴をこぼす。視線の先には、実妹たちに加えて帰蝶様の妹が遊んでいる姿があった。
たぶん、斯波義銀の横槍にお市の方との婚約の話が含まれているのだろう。
「武衛様は何と仰られているのです?」
「ふん。弾正忠家と斯波家が一体になることで、尾張を自分がまとめるなどと抜かしておる。だから市との祝言を早くしろなどと。それで、奉行家の弾正忠家も守護代だと言いよる。兄弟間の争いも、間に立つなどと嘯いてな」
尾張守護の斯波義銀を頂点に、伊勢守家と弾正忠家の両守護代というわけか。しかし、その弾正忠家の当主が信長様とは限らないという訳だ。
「しかし、武衛様を黙らせるには伊勢守家を退治することが必要でしょう。さもなければ、担ぎ上げられて面倒になりますし」
「わかっている。力なくとも意義があるのは、わしが身をもって経験している。今は奴の手足が少ないから大きく動けんのが幸いだ」
斯波家家臣団は、蟹江城での戦いで壊滅状態になった。家臣の人数が減ってしまって、清須の外部勢力と連絡できないことが不安材料を減らしている。
「では、武衛様の仰ることはどうかお聞き流し下さい。今は何も出来ないのですから。十分な監視に留め、排除する時をお待ち下さい。また主君殺しなどと言われては面倒です。それよりも大事なことがあります」
「勘十郎か。さて、あやつをどうするか……」
「厄介なのは、未だ旗色を鮮明にしていない者たちです」
「古くからの重臣たちだな」
信長様の断言に、俺はうなずいて答える。昔から信長様を嫌っている老臣たちは、すぐに反抗するものだと考えていた。
しかし、一年あった休戦期間ももう少しで明けようというのに、まだ信長様の下で大人しくしている。戦果を上げる信長様に臣従したのか、それとも裏切る機会を待っているのか、どっちつかずを貫くのか判断に迷う。
「動くとしたら、信長様が勘十郎と決着をつけるときになります。それまでは、身中の虫であり続けます。あぶり出すには、決戦に持ち込む以外にありません」
「動くか、勘十郎が?」
美濃のこともあり、信長様は敵を増やしている。織田達成は、こちらが弱ったところを叩くという選択肢が出てきた。だから、休戦を伸ばすなり、交渉を申しこんでくることもあり得る。
「絶対の有利を確信すれば、出ざるを得ません。今川とは切れていないでしょうが、かといって今更唯々諾々と従うとは思えません。今川が来る前に、自己の力で弾正忠家を統一したいというのが本音のはず。それも、出来うるなら早い方が良いのです」
信長様との休戦を選んだのがその証拠だ。少しでも自分の力を高めておいて、今川との交渉を有利にするなり、決裂すれば戦うだけの力を残しておきたい。織田達成も取れる選択肢が増えて、欲が出てきている。
「勘十郎を動かすのは容易いこと。しかし、こちらが勝てるかどうかは賭けになってしまいます」
「賭けか。分は良いのか?」
「賽の目だけが知っていることですね。人知では神慮を計り知れません。勝つか負けるかなど、二つに一つの五分五分でしかありませんから」
考えに考えたけれど、どう転ぶかはわからない。この策の根幹をなす人物たちに、話すら通していないのだから。
「上手くいけば、一戦で決着がつきます。面従腹背の輩も潰え、尾張下四郡の統治は、今度こそ盤石になりましょう。あとは……信長様があの方に信用されているかどうかだけ」
「誰だ?」
それまで、時折顔だけ振り返っていたのが、ここにきて信長様が俺と向き合った。見下ろす視線は厳しい。
俺は視線を避けるように平伏した。
「那古野城城代、林佐渡守秀貞様にございます」
林秀貞は、平手政秀の死後は筆頭家老としてよく家臣団をまとめている。弾正忠家の老臣たちをまとめ、信長様との間を取り持った。そして、すっかり那古野を復興させた手腕も大きい。信長様は、林秀貞を信頼して、役目を任せている。
だけど、当の林秀貞は信長様が弾正忠家を率いるのに相応しいのかを見定めている。厳密に言えば、林家が信長様についていっても大丈夫なのかどうか。
妙や新次郎から清須の話も聞いているはずだし、俺にも新次郎経由で書状が来る時があった。現状、織田達成に味方する様子もなく、これまで通りに老臣たちをまとめている。
「佐渡か。あやつには十分に報いている」
「それは林様もご承知です。しかし、それがいつまで続くでしょうか?」
気にせず、やれることをやればいいと思う。信長様は、ちゃんと働きに見合った評価をしてくれるはずなのだから。
勿論、林秀貞にしても永遠に立場を保証してもらおうと思っていない。しかし、家を背負うというのはそれだけでは済まされないのだろう。少しでも家を保つために、家臣は主君を選ぶ。それもまた武士の生き方だ。
「いいだろう。話してみよ」
「家中に噂を流し、家臣団にあえて揺さぶりをかけます」




