国譲り 壱
弘治二年四月、昨年末から続く美濃での動乱は重要な局面を迎えつつある。
斎藤山城入道道三は、当初は稲葉山城の北方にある山県に逃れ、味方を集めようとしていた。
しかし、斎藤家家臣の多くは斎藤道三ではなく、謀反を起こした斎藤新九郎利尚を選んだ。斎藤道三は雪に閉じ込められ、周囲を敵に取り囲まれてしまった。
そして春を迎え、冬の間に行動を取れなくさせていた雪もすっかり溶けたことで、親子が激突に向かって動き出す。
「殿……どうか父をよろしくお願いします」
「岳父殿には助けてもらっていた。今度はわしがお助けしよう」
出陣を前にして、帰蝶様が信長様を見送りに来ていた。
これから美濃に向かって出陣し、敵中の斎藤道三を救出しようというのだ。ほぼ美濃一国を相手にしようというのだから、重臣たちはこぞって反対をした。かつての織田信秀の時代にも美濃とは戦っているが、あのときは一国同士の戦いだったらしい。
それを、信長様は反対を跳ね除けて出陣を決定し、尾張半国にも劣る状態で戦いに及ぼうとしている。
「殿も、どうかご無事で……」
心配する帰蝶様に向かって、信長様が頼もしい笑みを浮かべる。そして、前を向いて馬を進めた。
それに続くのが、俺たち馬廻りになる。今回は俺も、馬に乗っての初めての行軍である。
「どうだ長三郎。馬に乗れるようになったか?」
「はっ。暇を見ては馬に乗り、鍛練をしていました。問題はありません」
寒い冬の中、清須と村を往復して、貰った馬で稽古をしていた。だいぶ乗れるようになったと思うが、それでも周りにはもっと巧みに乗りこなす者ばかりだ。
「わしの後ろを走って追いかけていた長三郎が、馬に乗るようになった。だというのに、未だ尾張もまとめられんとはな……」
少し悔しげな表情を見せる信長様。
「それでも、敵は確実に減っております。殿の下で、尾張を統一するのも近いことでしょう」
「言いよるわ!」
信長様が気分良く大笑し、馬廻りたちも笑い出す。俺を嘲笑してではなく、自分たちが成し遂げてやるという笑いだ。
ちょうどそこに、軍勢を避けるようにして数騎の騎馬が姿を見せる。
「美濃を相手取るというのに、随分と余裕がありますな」
「三郎五郎か。勝幡から苦労」
「いいえ、今は西も落ち着いているので、問題はありません」
騎馬の一人は、織田三郎五郎信広である。信長様がいない間の清洲城の留守居役として、白羽の矢が立ったのだ。
「では殿、ご武運を……」
「うむ。清洲城を任せたぞ」
織田信広は、まるで顔を隠すようにして頭を下げた。
噂で織田信広は、信長様が織田弾正忠達成と休戦を結んだことに怒り狂ったらしい。守山城を守っていた実弟を暗殺されてしまったのだから、怒るのは無理もない。
しかし、信長様の前では、怒った様子を微塵も見せないのは流石というべきだろう。でも、何か企んでいるのではないかと思ってしまう。
信長様も当然噂を知っているだろうに、全く気にした様子がない。今回の出陣に当たって、留守居にあっさり織田信広の名前を挙げたくらいだ。親族同士で争うこの尾張で、信長様は家族親類を信頼している。いや、こんな尾張だからこそ信頼したいのかもしれないが。
とはいえ、将来的にはそれが大きな問題になる。いずれその時が来るようなことがあれば、警戒しないといけない。義弟の裏切りなんて、無い方がいいのだから。
俺は遠ざかっていく織田信広から、信長様に視線を戻す。
その顔は、いつもと変わりなく自信に満ちていた。
心配した岩倉城の織田伊勢守信安による妨害もなく、順調に軍勢は進んだ。そして、斎藤利尚は全軍を斎藤道三に回しているようで、難なく木曽川を渡ることが出来た。
かつて信長様と斎藤道三が会見をした聖徳寺の対岸を北上。そうして、稲葉山城から南西の大良という場所を流れる小川で、斎藤利尚軍に行き当たった。
「あれは……安藤守就の軍勢ではないか?」
「旗印からすると、確かに安藤伊賀守ですな。かつて我らに助勢した者たちと戦うことになるとは、奇縁と申しますか」
信長様の疑問に、丹羽五郎左衛門尉長秀が答える。
知っている人物との戦いを憂えているのではなく、むしろ楽しみにしている様子であった。
「見るに、西美濃に名を響かせる稲葉、氏家の旗もあります。名にし負う三人衆が揃い踏みとは……」
佐久間大学助盛重も感嘆の声をあげる。
「前にいるのが誰であっても、蹴散らして岳父殿のもとまで行かねばならん。前に進むぞ!」
信長様の声に反応し、一斉に鬨の声をあげる。
信長様の周囲に集まっていた各備の大将たちが戻っていき、法螺貝の音とともに軍勢が動き出す。
雄叫びを上げながら、前進していき、やがて小川の中央付近で両軍の足軽同士がぶつかり合う。
俺は信長様とともにその様子を眺めている。前線では、前田孫四郎利家や佐々内蔵助成政、藤吉郎なんかも戦っているというのに。
「戦いたそうだな、長三郎」
「はっ。いえ……その様なことはありません」
反射的に嘘をついてしまったが、信長様には言った端から見抜かれてしまっている。
「慣れよ。つぶさに見届け、敵を崩す術を身につけるのだ」
「かしこまりました。じっくり観察します」
視線を戦場に向ける。
少し遠いが、足軽たちが槍を振るっている姿が見て取れた。その後方では、弓矢を射続けているし、石を投げているのも確認できる。
戦場を少し離れて見るのは初めてのことだった。いつも、混乱の渦のような前線で戦っていたから、変な気分になる。戦の当事者の一人であるはずなのに、馬上で少し視界も上がっているので、まるで傍観者になったような気分であった。
喚声が各所で上がる中をしばらく観察するが、信長様が言うような敵の崩れそうな部分は一向に見当たらない。
「手強いな。あの三左が手傷を負いよった」
信長様が指差す先で、森三左衛門尉可成が馬乗で敵と一騎打ちを演じている。よく戦っているが、徐々に押されているようであった。
「あの三左衛門殿が手こずるどころか、押されているなんて……。美濃は人材が多い」
森可成と互角に戦う武士が向こうにはいる。美濃の力を見せつけられる思いであった。
「美濃の力、侮れません」
「当然だ。死んだ親父が勝てなかったのだからな」
信長様も、美濃の力を初めて目の当たりにしている。自信に満ちた顔は変わりない。しかし、甘く見ていたのだろう。今、己のが父親も勝てなかったことを実感しているのだ。
「伝令! 伝令で御座います!」
一騎の騎馬が本陣に駆け込んでくる。
声のした方を向くと、馬から軽やかに下馬する姿が目に入る。顔はよく見えないが、見たこともない伝令。
信長様を守るために、数人が伝令の前に立つ。
「斎藤家家臣、土田弥平次! 我が殿、斎藤山城入道様のご指示で参りました!」
「岳父殿からだと? して、何と仰っておられたのだ?」
信長様が護衛を押し退け、跪く伝令の前に立つ。
土田弥平次は、戦っていたのがわかる泥に汚れた姿で、肩を震わせて無念だと言わんばかりである。
「殿は……織田様に合流されようと長良川で戦い……すでに、敗れましてございます!」
「何だと!?」
「味方三千に対し、敵は二万余り。当初は優勢にことが進んだのですが……衆寡敵せず……無念です。拙者は乱戦になる前に、織田様にこのこと伝えよと命を受けまして、罷り越しました」
斎藤道三がもう負けてしまっている。
戦場の声が聞こえてくる中、今回の目的が喪失してしまった。
信長様を見ると、北の方向に顔を向けている。拳を固め、怒りに震えていた。俺はそんな信長様に馬を寄せる。
「遅かったか……」
「殿、このままでは義父上様を破った斎藤方の本隊が来ます。そうなれば、木曽川を渡るのが難しくなって、尾張に戻れません」
「わかっている。後ろの陣夫どもをまず下げよ。それから、五郎左と大学にも伝令を出す。退くぞ!」
信長様の指示を伝えに、幾人かが馬上の人ととなり、駆け出していく。
「岳父殿に味方した美濃衆も拾わねばならん。弥平次、美濃に詳しいのはそなただ。わしの馬をやるから、落ち延びる者たちに伝えよ。羽島の先を目指せとな」
「かしこまりました! すぐに触れ回りましょう。しかし、その前にもう一つお伝えすることがあります」
土田弥平次が一旦言葉を切り、声を潜ませる。
「拙者の妻の実家が、小折城主の生駒様なのです。そこに、妻とともに殿のご家族を逃しております」
「それは真なのか?」
土田弥平次が深く首肯する。
小折城は尾張、木曽川沿いの犬山城の近くだ。戦場とは全く逆の方向に、斎藤道三は家族を逃していた。
「よし、すぐに迎えを送る。弥平次も、後から清須に来るが良い。その働きに見合う知行で召し抱えようぞ」
「ありがたき幸せ。必ず、清須でお目にかかりましょう。では、御免下され!」
すぐに信長様の替え馬が連れてこられ、土田弥平次が馬に飛び乗って駆け去っていく。
「一刻も早く退くぞ、急げ!」
信長様の下知が飛び、本陣が慌ただしく動き出す。
陣夫たちが牛馬を連れてある程度距離を取ったところで、退却の法螺貝が鳴らされる。徐々に後退が始まり、こちらの河原から援護のために次々と弓鉄砲が放たれた。
信長様が本陣直属の馬廻りを引き連れて前に出る。
やがて、退却する部隊を後ろから襲おうとしている敵兵に突撃していく。
俺も、騎馬で必死に追いすがり、槍を振るう。本来なら、あまりこうした戦いはしないが、仕方がない。馬から下りる暇がないのだから。篠岡八右衛門や足軽たちも追いついてきて、俺や信長様が敵兵に引きずり下ろされないように周りを固める。
少しの間だけ戦い、引き上げる味方が距離を稼いだら、こちらも少しずつ引き下がっていく。深追いしてくる敵は、弓や鉄砲が狙い撃ちされて数を減らす。
「一気に下がるぞ!」
信長様の号令で、騎馬が一目散に小川を抜け出す。足軽が遅れて続くが、そこに敵の弓鉄砲も放たれる。
ちょうど篠岡八右衛門たちを見ていた俺の目の前で、村から連れてきた足軽の一人が変な倒れ方をした。残る二人が急いで抱え起こし、肩を貸している。
「どうした!?」
「わかりません。急に倒れました! 矢も刺さっていないので、恐らく鉄砲かと! まだ息はあります」
駆け寄ると、倒れた足軽を支えている篠岡八右衛門が答える。
こんなところで、傷を確かめるなんて出来ない。俺は馬から下りて、足軽を馬に担ぎ上げさせる。そして、残った足軽を指差して命令する。
「八右衛門は馬を連れて、皆と一緒に退却しろ。俺はこいつと残る」
「承知しました。どうか、ご無事で!」
篠岡八右衛門が馬を引いていく。
俺は、対岸を睨む信長様の近くに足軽とともに戻り、さっきまでこちらに鉄砲を放っていた一角を見る。
旗は、間近で見たことのある安藤守就の旗だった。




