猿帰る
弾正忠家が分裂し、兄弟で睨み合いが行われていても、来年のために年貢は徴収しなければならない。
俺は、代官として去年よりも多くの村を回り、収穫を確かめていった。そのため、自身の知行地である村は篠岡八右衛門に任せきりになってしまった。
そして、元号が天文から弘治に変わったところで、ようやく村に赴くことが出来たのだ。
「米の収穫が悪かった?」
「はい。田の大きさの割に、少し収穫が悪かったという程度ですが。普通の田んぼではほぼ例年通りなので、やはり新田の水を抜くというのは良くないのではないかと……」
畑の収穫が草木灰で多少良くなっていたことで、大丈夫だろうと高を括っていた。麦藁を使った刈敷は、思ったほど効果はなかったようだ。
「稲はずっと刈りやすくなっていますがね。ただ、去年と違って長い間水を入れていたので、やはり水が乾くまで時間がかかっています」
「何か細工が必要だな……」
時間がかかるということは、畑の準備にも食い込んでしまうし、食い込んだ分だけ来年の米作りにも影響が出るかもしれない。
教科書的に考えていたけれど、なかなかうまくいかないものだ。
「それで殿、ご相談があるのですが……」
「どうしたんだ? まさか、裏作を止めろというのではないだろうな」
せっかく作った乾田を、充分に試しもせずに湿田に戻すなんてもったいないにも程がある。
「いいえ、そうではありません。今年は、麦だけでなく、豆を植えてみてはどうかと思いまして」
「豆……大豆か?」
「大豆と空豆を用意してあります。馬を飼うには、豆が良いと聞きますからな。せっかくなので、麦以外も試してみてはと思いまして」
裏作で馬の餌を作れないかとは考えていた。それを篠岡八右衛門は、前もって準備してくれていたのだ。
「良い考えだと思う。……助かるよ、用意しようと思って、何も出来ていないからな」
「何をおっしゃいますか。主君をお助けするのが家臣の役割。殿は大殿をお守りし、それがしが村を守れば良いのです」
「そうか……そうだな。これからもよろしく頼む」
本当に自分は人に恵まれていると痛感させられる。これに報いるためにも、村の収穫向上をこれからも考えていかなければならない。
「蒲黄の売却も順調だし、蒲を育てる箇所を作ってはどうかと思っているのだが、どうだ?」
「良い考えかと。山場を越えましたので、もう最近は他の村で蒲を取るのも難しくなってきましたから。払う銭を少し増やさねばならなくなりそうなのです」
まだ蒲の花粉が売れるとは広まっていない。それでも、村で使うようなので、食糧難を乗り切った今では他村の入会地から採集するのは良い顔をされていないようだ。
「戦の褒美で貰った丁銀を銭に代えているから、清須の生活は少し余裕がある。年貢の米で村人を雇って、蒲用の沼を作っておいてくれ。新田を作って、今ある田を蒲用に変えても良い。しかし、女子供の収入もあるから、他村へはこれからも採らせて貰えるように交渉はしておいてように。少しなら、俺の税から引いたら良い」
「承知しました。それと、米などの備蓄に使う蔵も建てて宜しいでしょうか? 以前に殿が、蒲黄の銭で備蓄すると仰っておられた……」
「ああそうだな、建てておいてくれ」
飢饉などに備えて、社倉を用意しておく。この時代、もしもの備えが生死を分けるのだから馬鹿には出来ない。幸い、今は蒲黄による臨時収入があるので、村人に負担をかけることなく蓄えを増やせそうだった。
「春前くらいには博労から馬と、犁も鋳物師から買わないといけないし、金がどんどん無くなるな」
これで蒲黄の免許状での利益がなかったなら、何もできなかったところだ。
俺の独り言に、篠岡八右衛門が苦笑を浮かべる。
まだまだ村には、増やさないといけないものがたくさんあった。二毛作はまだ上手く回っていないが、全体的には少しずつ良くなっているだろう。そう思うと、金は減っていくが金の使い甲斐はあった。
村での細々した指示を終え、清須に戻ると、新次郎とともに意外な人物が待っていた。
「藤吉郎……お前……」
「道祖様、ご無沙汰しておりました。勝手に消えてしまい、申し訳ないことを……」
家に帰った俺の姿を見ると、跪いて額を地にこすりつける藤吉郎。
どうして藤吉郎がいるのか分からず、新次郎を見る。
「今朝方に、訪ねてきたのです。前田様か佐々様にお伝えしようとしたのですが、藤吉郎がどうしても殿の戻るまで待ってくれと申すので……」
懇意の前田孫四郎利家ではなく、俺を待っていた。密偵かもしれないと疑っていたのが、藤吉郎に知られていたのだろうか。
俺は土下座する藤吉郎の前に立つ。
「那古野で姿を消し、どこに行っていた? 正直に答えよ。今のところお前は、戦が怖くて逃げ出したと言われている。殿も、大変お怒りだ」
「それは……遠江に、行っておりました」
今川義元が支配する一国だ。
俺は、刀に手をかける。新次郎が、そんな俺と藤吉郎に視線を彷徨わせる。
「藤吉郎、お前は今川の間者か?」
「違います! 断じて、間者などではないのです!」
「では、何故遠江に行った!? それも、今川との戦の最中に!」
「以前の主君に、会いに行っておりました! いつまでも今川が攻めてこないことを不審に思い、調べに行ったのです!」
やはり藤吉郎は武家に仕えていた。それも、今川家臣の誰かに。
自然と刀を握る手に力が入る。
「隠しておりましたが、わしは尾張を出た後、今川家臣の松下長則様に仕えました。そして、そのご子息の加兵衛様に奉公をしておったのです。加兵衛様には大変良くしてもらい、武士にしてやろうとも仰せでございました。しかし、尾張者で農民上がりを他の家臣たちに馬鹿にされ……不憫にお思いになられて暇を出されたのです」
「それで尾張に戻ってきたと?」
「はい……。あとはご存知のとおりで。どうか、信じて下され! 本当に、今川のことを調べに行ったのです!」
「……どうして、俺なのだ? 孫四郎との方が仲が良かろう。それでも、俺を頼って戻ってきたのはどうしてだ?」
「道祖様のお生まれが、わしと同じ農民だからです。道祖様なら、わしの境遇を分かってもらえると、そう思いました。前田様はお優しいですが、所詮は農民上がりだと馬鹿にされる思いを知るのは、道祖様以外にいないのです。だから道祖様なら、殿様にお取り次ぎしてくださると」
藤吉郎が顔を上げて、まっすぐに俺の目を見て訴えてくる。いつもの場を盛り上げていた藤吉郎ではなく、その目は一所懸命に命を張る武士たちと同じだった。
「最後に教えろ。弾正忠家の状況は知っているだろう。決して良くはない。それにお前は、殿に死罪を申し付けられることもあり得る。それなのに、命を懸けて遠江を探り、尾張に戻った理由を」
「わしは、わしを馬鹿にした武士たちを見返したかった。だから、尾張に戻ったのです。そこで、どうにか城仕えをして、取り立ててもらおうと考えておりました」
藤吉郎は俺を見つめる目を和らげて、嬉しそうな顔を浮かべる。
「でもこんなわしを……道祖様、佐々様、それに前田様はとても良くして下さいました。こんな小者を、飯の席に同席させて下さったりも。わしを、元は農民だと馬鹿にするのではなく、ちゃんと藤吉郎として扱ってくださいました」
そして藤吉郎が再び額を地に擦り付けた。
「黙って行ったのは、遠江に行って戻ってくると申しても、信じてもらえないと思ったからでした。勝手ばかりではございますが、わしは殿様やお三方のお役に立ちたかったのです!」
そうか、俺と藤吉郎は同じなのだ。俺が信長様に御恩を返そうと思うのと同じように、藤吉郎は俺たちから受けた恩を返そうとしている。
自分と同じだとわかると、すっと藤吉郎が戻ってきた理由を納得してしまう。
俺は刀から手を離した。その様子を見て、新次郎がほっとしている。
「登城するぞ。殿にお会いして、藤吉郎が調べたことを言上するんだ」
「ありがとうごぜえます! この藤吉郎、この御恩は一生――」
「まだ命が助かったわけではない。全ては、殿次第だ」
藤吉郎の調べたことが、信長様のお目に叶うかはわからない。もしもの時は、俺が藤吉郎を斬ることになる。
それでも俺は、藤吉郎は信じられると、絶対の確信を持っていた。
「斬れ」
信長様が地面に平伏する藤吉郎を一瞥し、一言で俺に命じる。そして、もう藤吉郎を見ようともせず、部屋に戻ろうとされる。
「お待ち下さい。藤吉郎の報告をお聞きになってから御沙汰あっても、遅くはありません。どうか、藤吉郎に機会をお与えくださりますよう、お願い申し上げます」
俺は縁側に平伏し、深く頭を下げる。
「藤吉郎は、今川について探っていたらしいのです。今後のために、話を聞くべきです。どうか、伏してお願いします」
「道祖様……」
俺の名を呼ぶ藤吉郎の声が震えている。
少し考えるように間が開く。やがて、信長様が大きく足音を鳴らして戻ってくる。そうして、縁側から外に足を投げ出すように座った。気に入らなければ、何時でも自分で藤吉郎を斬るつもりだ。
「藤吉郎、殿にお話しろ」
「はい。わしは……今川が戦の準備をしていたのに、一向に攻めてこない理由を調べに、前の主君である松下長則様のいる遠江に行っておりました」
信長様の目がより険しくなる。
「ご子息の松下加兵衛様が、噂でありますが、お教え下さいました。何でも、今川義元の近くにいる誰かが病で倒れてしまったらしいと。その人物が、今回の尾張攻めを差配していたらしく……」
「倒れたのは太原雪斎か!」
信長様が立ち上がり、藤吉郎に歩み寄った。
「さ、左様です。時間がかかったのは、加兵衛様に確認してもらっていたためです。今川家中の話では、もう長くはないだろうと……」
まさか、あれだけの罠を仕込んだ太原雪斎が病だったなんて。道理で、急に方針が変わった訳だ。
全てを知っている本人が動けないのでは、下手すると攻め込んだ今川も泥沼に陥るかもしれない。一時の恨みを買っても、距離を取って共倒れを狙うのも納得がいく。
少なくても太原雪斎が指示なりを出せない状況になっているのは確かだ。太原雪斎が動ければ、そのまま攻め込んでくれば終わる。だから、わざわざ不慮の噂を流して、こちらの油断を誘う理由がない。
「長三郎、どう考える」
「太原雪斎が倒れたとなれば、今回の今川の動き全てに説明がつきます。そして、これは弾正忠家にとっての好機。末森の勘十郎は休戦中ではありますが、今のうちに岩倉城の伊勢守信安を討つことが出来ましょう」
「であるか」
信長様も同じ結論に至っている。
今川は動かない。
今までは、後背を気にして今川義元が駿河に留まっていると思っていた。しかし、今川義元と太原雪斎が逆でも良かったはず。なのに太原雪斎だけが三河の前線に出続けていた。また、今回でも機会を逃さずに、太原雪斎から報告を受けていただろう今川義元が出ていれば、泥沼に嵌まるようなこともない。
恐らく、今川義元は武田、北条と結んでも、まだ駿河を出れない事情がある。でなければ、高齢の太原雪斎が全てを仕込むはずがない。
そして、これが示すもう一つは、今川に三カ国の兵を率いる大将は今川義元と太原雪斎の二人しかいないということ。今回のことで、今川義元は自分が動けるような体制を構築することに注力するだろう。
「今川義元が動けるようになるまでが勝負です。それまでに尾張を統一して、今川の来襲に備えなければなりません」
「愚図愚図しておれんな、長三郎!」
「はっ!」
信長様が足元の藤吉郎を見下ろす。そして、笑みを浮かべて宣った。
「猿、草履はどうした! 足が汚れてしまったぞ!」
「は、ははっ! すぐにお持ちします!! 少々お待ちを!」
藤吉郎が、慌てて信長様の草履を取りに駆け出していく。途中、様々なものにぶつかりながらも、痛そうな顔を見せずに笑って走っていた。
それから少し経った弘治元年閏十月十日、太原雪斎が駿河長慶寺にて死去したことが、尾張にも伝わってきた。享年六十だという。
本来なら尾張でも大きな話題になっていたはずだった。だが、確実な太原雪斎死去の報に前後して、尾張は今川に構っていられる状況ではなくなっていた。
美濃において、信長様の養父斎藤山城入道道三が、跡目を継いだ息子斎藤新九郎利尚によって謀反を起こされたのだ。斎藤利尚は父の寵愛を受ける弟二人を殺害、斎藤道三はかろうじて稲葉山城から北にある大桑城に逃れていった。
突如として、信長様の大きな後ろ盾が失われた。




