包囲網 肆
織田秀俊暗殺により、守山城は織田弾正忠達成の攻撃であっけなく陥落した。織田達成は、母土田御前の説得を一顧だにすることはなかったという。土田御前は末森城内に監禁されてしまっている。
織田達成は末森城と守山城を手に入れたことで、さらに勢いを増していた。これまで謀反を静観していた弾正忠家家臣の中からも、織田達成に味方するものが現れ始めている。今川侵攻を前にして、勝ち馬に移ろうという輩は勿論、信長様が台頭しても加増なりに与れなかった家臣だ。悪く言えば、弾正忠家内での負け組が織田達成を担ぎ上げ始めた。
信長様は、清洲城を佐久間半羽介信盛に任せ、本陣を那古野城に移して対抗している。けれども、勢力としては急激に追いつかれようとしていた。
幸いなのは、織田達成の家老柴田権六勝家が、自領からまったく動こうとしていないことだ。
それでも、敵の正面戦力が増したことで、今度は那古野城に拘束されてしまっている。蟹江城に援軍を送ろうにも、裏切りを心配して半端なものを送ることが出来ない。とはいえ、信頼できる者を送れば、手許の戦力が減って末森方面からの圧力に抵抗するのが難しくなる。
睨み合いが続いたまま、時はもう九月に移っていた。
「物見の報告によれば、蟹江城はどうにか持ちこたえております」
「事前の準備が功を奏したな。左近もよく支えている」
「されど、いつまでも持ちますまい。そろそろ、兵糧も心許ないはず。弓矢も、どれほど残っていることやら……」
林佐渡守秀貞の報告に、信長様は難しい顔をしている。実際、蟹江城救援の目処が立たない。刻一刻と蟹江城は劣勢になっているのに、手を打てなかった。
もう過ぎてしまったことだが、南が吉と出ていればと思ってしまう。
「もう米の収穫に入ります。このまま戦を続けていれば、兵や民たちにも不満が生じましょう」
村井吉兵衛貞勝が苦言を呈する。米の収穫は、頭が痛い問題だった。収穫だけでなく、当然畑の作業もある。俺としても、村での初めての収穫を見届けたいと思っていたのに、叶いそうになかった。
「おかしい」
ぼつりと、信長様がつぶやいた。
「何がでしょうか?」
「今川だ。未だに奴らが攻めて来ないのはどういうことなのだ。入念に手はずを整えていたはず。もうとっくに尾張に来ていなければおかしい」
誰もが顔を見合わせる。俺も、熱田への上陸を阻止するという目の前のことを考えていたために、今川本軍の来襲を失念していた。動き出せば、緒川城の水野藤四郎信元から連絡があるはずなので、意識外に追いやっていた。
言われてみれば、確かに遅い。包囲網を完成させた段階で動き出しているはずが、一向に攻めてくる様子がない。
「機を窺っているだけでは? もしくは、収穫を前にして兵が集まらなかったということも……」
「わからん。蟹江城を攻めている今川軍に変わった様子はないのか?」
「敵の本隊は服部左京進友貞が率いる服部党であるのは確かです。今川は……少なくとも前面には出ていないようで」
林秀貞も腕を組んで、首を傾げている。
「どういうつもりだ。奴らの狙いがわからん」
油断を誘っているのか、ただ準備ができていないだけか、もっと秘められた計画があるのか。太原雪斎の策略に引っかかってしまったため、どうしても穿った考えをしてしまう。
「藤四郎に今川の動きを調べさせろ。奴ら、わしと勘十郎の共倒れを狙っているのやもしれん」
信長様と織田達成の両者が疲弊してから攻めてくるというのはあり得ることだ。尾張諸勢力が殴り合い、誰もが限界になったところで全てを掻っ攫う。そうすれば、勢力が衰えた織田達成や服部党との密約を反故にもできる。今川としては尾張の分配を楽に進められるだろう。
もしそうなら、今川にしたら、ここまで膠着が長引くとは思っていなかったのかもしれない。
現状、信長様の考えが最も正鵠を射ている気がする。誰もが、納得しているように見えた。
「それでは、強攻するは危険ですな。末森とは対峙を続けることに?」
「いや、現状で休戦を持ちかける。あくまで勘十郎とだけな」
「殿、それは謀反人を認めることになりませぬか! ご兄弟まで殺されたというのに!」
「期限は十二ヶ月。それで勘十郎の反応を見る」
林秀貞ら家臣たちが驚愕する中、信長様は冷静に指示を出す。しかし、信長様の声に俺の背筋が寒くなっているので、もしかしたら怒りが振り切れてしまっているだけなのかもしれない。
清洲城では、斯波義銀が執拗にお市の方に会おうとしていると聞く。家臣たちが、蟹江城で決死の戦いをしているというのに、お気楽なものだ。清洲城から報告が届くたびに、信長様は青筋を立てている。
そして、今回の休戦の話も、本当ならしたくないはずだ。しかし、いつまでも戦い続けられるほど弾正忠家に体力はない。特に謀反によって、勢力としては半減しているので尚更だ。今川侵攻前に青息吐息では、戦いにもならない。
信長様が提案した休戦の話は、予想以上に早く締結された。信長様と織田達成は、お互いを視界に入れることなく誓いの詞を書いた起請文、誓紙を交わした。
兄弟で一言の言葉をかわすことなく、熱田神宮の宮司によって休戦の約束が結ばれる。
休戦したとは言え、これから引き抜きなどの暗闘が行われることになる。織田達成の勢力は過去ないほど強くなっており、油断は出来ない。
休戦が結ばれると、すぐさま軍勢は蟹江城に駆けつけた。まさかの援軍に、服部党は算を乱して逃げていく。だが、逃げていく者の中に今川の姿を確認できなかった。
滝川左近尉一益と河尻与兵衛秀隆は、どうにか窮地を脱することが出来た。しかし、城兵たちは酷い有様である。斯波家家臣団も戦いの中でほとんどが討ち死にし、五十余名中数名のみが生き残ったに過ぎない。まさに危機一髪で、蟹江城は落城を免れていた。
「それにしても、あっさり休戦を受け入れるとは意外であった。長三郎が言っていた、勘十郎と今川が結びつきはなかったのではないのか?」
佐々内蔵助成政が、俺に箸を突きつけてくる。
「いや……おそらく今川は途中で計画を変えたんだ。いつまでたっても動かない今川に、勘十郎は痺れを切らした。そして、信長様と同じ結論に至ったんだろう」
織田達成と休戦し、蟹江城を守りきったことで信長様は兵を清洲城に戻した。当面の脅威は去ったからだ。そして、清須に戻ったことで、俺の家でいつもの面子と食事をすることになった。
「我らを潰し合わせるというやつか。小癪な連中だ。尾張にくれば、自慢の槍で蹴散らしてやるというのにな」
前田孫四郎利家が、飯をかっ込み、汁物をすする。俺も、眉間にしわを寄せて汁物をすすった。
そんな俺に、料理を作った妙が心配そうな顔をして話しかけてくる。
「どうしたの、長三郎? もしかして、口に合わなかった?」
「いや、違う。今川のことを考えていた……」
今川は、信長様を潰す絶好の機会を逃した。欲をかいたと言えばそれまでだが、落ち着いて考えるとどうにも急すぎる方針転換に思えてならない。
最初から潰しあわせるつもりなら、戦の準備は見せかけで十分だったはずだ。しかし、水野信元が調べたところかなり本格的であったらしい。それだけ下準備をしておいて、途中で方針を変えた。せめて信長様が動けない内に、緒川城などを落として知多郡を手中にするべきだったのに。そうなれば、織田達成も火のように攻め込んで自らの功を誇ったはず。それこそ、こちらが消耗しているところを攻撃できた。
どうも今川の動きがちぐはぐに思えてくる。あれだけ緻密で重層的な罠を仕組んだのに、急に実行者が変わって、方針を大転換したかのようだ。現状、信長様の勢力は削れたけれど、味方であるはずの織田達成と服部党に不信感を撒いて終わっている。
これで今川が侵攻をかけても、連携を取ることは出来まい。
俺が考え込んでいると、前田利家が思い出したと新たな話題を振る。
「そういえば、聞いたか? 滝川様が蟹江城を頂いたそうだぞ」
「おう、聞いた。なんでも、亡き家臣や城兵たちの復仇のために、涙を流して殿にお願いしたそうだな」
「此度の戦で、滝川様が育て上げた鉄砲衆の多くが死んだ。戦の習いとはいえ、手塩にかけた家臣が死ねば、やはり悲しまずにはおれまい。しかも、服部党などという野盗共が相手とあってはな」
前田利家が、旺盛に食事をする村井長八郎に視線を向け、そして自らも飯をかっ込んだ。
今回の戦いで、蟹江城を守り通した二人が最も評価された。滝川一益は蟹江城周辺を知行地とし、晴れて城持ちとなった。そして、河尻秀隆もまた加増を受けている。
俺たちもそれなりの働きをしたけれど、恩賞として丁銀を貰うに留まった。だけど俺は、信長様が集めている馬の中からこっそり一頭貰ってもいいことになっている。公には出来ないが、信長様に評価されたお陰だ。
農耕馬を買う前に自分の馬が手に入って良かった。清須では引っ越さないと馬を飼えない。だから、篠岡八右衛門には、村の屋敷に馬小屋を作るように命じている。次に村に行くときは馬で行くつもりだ。
「そういえば、今日は藤吉郎を呼ばなかったのか? あいつも戦で槍を振るったのだろう。その話を聞きたいと思っていたのだけど」
暗い話題を避けるために、俺は気になっていたことを前田利家に聞いた。藤吉郎は、足軽の一人として伊勢守家との戦に出ている。俺たちは馬廻りで固めた備だったため、離れ離れで話を聞けていなかった。
「それがな、どこを探してもいないのだ。那古野では確かにいたのだが、清須に戻ってからは見ておらん」
「大方、手に入った銭で遊女のとこにでも行っておるのだろうよ。気にすることではあるまい。明日になれば、いつもの猿顔でひょっこり現れる」
「ま、そんなとこだろう。あやつの話は、次に聞けばいいさ」
呑気に食事を続ける二人。そんな二人に、俺は藤吉郎が密偵であったかもしれないと言えなかった。
藤吉郎が豊臣秀吉であるということは置いて、食事で俺たちに見せるあの愛嬌が嘘であって欲しくないと思った。ただ、今川の侵攻に怯えている様子だったから、本格侵攻前に逃げただけであってくれればいいと。




