嵐の前
突如現れた信長様と織田勘十郎信勝の母、土田御前。先代織田信秀の死後、信長様の弟妹たちとともに末森城で暮らしている。
急な母親の登場に、信長様もただ驚かれてばかりで、何も言うことができない。それは、信長様麾下の家臣たちも同様だ。第一、土田御前とまともに顔を合わせたことがあるのは、乳兄弟の池田勝三郎恒興ぐらいで、俺自身も織田信秀の葬儀の際に遠くから見ただけに過ぎない。
柴田権六勝家は眉間にしわを寄せて難しい表情をしていた。だが、織田信勝と津々木蔵人だけは、どこか余裕の表情を浮かべている。
「母上は何をしにここに来られましたか?」
「何をしに、などと……喜六郎が殺されたのですよ。母であるこのわたくしが、黙っているはずがないでしょう。とはいえ、右衛門尉殿相手では何も出来ず、嘆いていたところを勘十郎が仇を討ってくれたのです。それを三郎、お前は……何もせずただ見ていただけでは有りませぬか」
「母上、今のわしは弾正忠家が主。家中に争いがあれば、双方の話を聞いて裁かねばならぬ身です。今回のことは、元服したというのに遊び呆けておった上、一人で行動していた喜六郎に罪が有ります。罪無き者を罰すれば、弾正忠家は世間の笑い者になりましょうぞ」
信長様は、毅然として対応しているが、母親相手だからかいつもよりも語気は柔らかい。
「だから何もせなんだと? お前には兄弟の情がないのですか。戦場での討ち死にならば、武門に生まれた者の習いとして諦めもつきましょう。ですが、優美で優しい喜六郎はそうではない。あのように無残に殺されて良いわけがありません」
「しかし母上……」
「第一、三郎がいけないのです。孫三郎殿が亡くられた後、守山のお城を右衛門尉に任せてしまうなど。勘十郎か喜六郎に任せていれば、そもそもこのようなことにはならなかったのです」
土田御前は、母親として信長様に遠慮がなさすぎる。実の子に対する気安さもあるのか、不満に思っていたことを良い機会だと吐露していた。
そっと信長様を覗えば、どんどん顔が険しくなっている。母親相手だからどうにか堪えているといった感じであった。
「お前はちゃんと弟たちにも分けることを覚えなさい。あなたの叔父たちや三郎五郎殿、喜蔵殿などではなく、しっかり他の者へも分け与えなくてはなりません。弾正忠家の当主というのなら、一部の者だけでなく皆を率いる度量をお示しなさいな」
「働きに応じて、加増なりをするのは当然のこと。まだ十分な働きをしていないのに、弟だからと重用しては、それこそ問題が生じましょう」
「奉公があってから恩を与えるだけでは、場を与えられぬ者に不満が溜まるのです。まずは恩を与えて、それに報いさせることもできましょう」
一理あるにはあるが、信長様はまだ元服して間もない弟たちにしていなかっただけだ。自分や亡き姉、滝川一益などは、まず先に恩を与えられて尽くしている。
自分がそうであったように、信長様が弟たちをなかなか前に出さないのは、失敗しないようにという優しさだ。もちろん、織田信勝が旧臣たちに担ぎ上げられないためでもあったが、初陣の場を用意するだのあれで気を使っていた。
「……では、母上はわしにどうしろと?」
「勘十郎に熱田の半分でもお渡しなさい。勘十郎が守る末森は三河に近いのだから、それぐらいなら構わないでしょう」
よりにもよって熱田を半分でも譲れとは。信長様が、いや恐らく誰であっても承知することはないだろう。熱田は金山と同じだ。一人が治めるから問題が起きずに金を生み出す。そこに、二つの権力が存在すれば、金山が銅山に成り下がってしまう。
完全に信長様の顔から表情が消えた。土田御前は、虎の尾を踏み抜いたことに気がついていない。
「三郎、どうですか? 母の願いを聞いて――」
「母上は勘十郎を甘やかしすぎるにも程がある!」
信長様が激高して立ち上がる。
「な、なにを言うのですか」
「喜六郎のこともそうだ。明日にも今川がやって来ようというときに一人で馬を駆けさせるなど、言語道断。弾正忠家の恥以外の何物でもない。これも、父亡き後の母上の教育が悪かったのではないですか!?」
「そんな……三郎、わたくしは……」
「もう母上は黙っておられよ! 弾正忠家の主はわしだ! このわしが――!」
「殿!」
俺は、信長様の声に負けないよう、精一杯腹から声を出して叫ぶ。
視線が集中する中、俺はさっと前に出て平伏する。
「殿、そこまででございます。どうかお心をお鎮め下さい」
「長三郎、またお前か。差し出口を挟むな。これは親子の問題であるぞ」
「ならば清須にて、家臣を抜いてお続きを遊ばして下さい。今は、大方殿様も喜六郎様を亡くされて平静ではありません。清須にて、先月お生まれになったばかりの奇妙丸様をご覧になられたら、心も落ち着かれましょう。親子のお話は、それからでも遅くはございません」
信長様が、乱暴に腰を下ろす。まだ怒りが治まっていないが、とりあえず矛を収めてくれた。俺に向かって下がれと手を振るので、頭を下げてから元の位置に戻る。
「良かろう。続きは清須でだ。勝三郎は母上を清須にお送りしろ。ああ、ついでだ、末森の市たちにも奇妙を見せよう」
「かしこまりました。さあ、大方殿様、この勝三郎めがお供いたしますので、清須に参りましょう。奇妙丸様は、それはもう可愛らしい赤子でございますよ」
信長様の怒気を受けた土田御前は、心ここにあらずといった様子でうなずいて、勝三郎に連れられて出ていった。
「勘十郎も末森に戻って謹慎しておれ。権六、勘十郎を確と見張っていよ。今川への備えも怠るな」
「承知しました。寛大なご処分、痛み入ります」
柴田勝家が頭を下げる。織田信勝は渋っていたが、信長様に睨みつけられると、不承不承小さく頭を下げて家老たちとともに退出していった。
ひとまず、嵐は去ってくれた。信長様に悟られないように、皆が小さく安堵の息を漏らす。
「……この守山城を誰に任すか」
「守山は御一門が治められている地です。我ら家臣では、身に余りましょう」
丹羽五郎左衛門尉長秀が言上する。
「もう数年後なら、市介で良かったのだがな。まだ守山を任すには不安がある」
市介は名を織田信成といって、織田信光の長男である。今は父親の遺領をそのまま相続することは叶わなかったが、いずれ返されることになっている。
「もはや蟹江城の喜蔵をこの守山城に移すしかあるまい」
「されど、今や蟹江城は熱田を守る大事な城。生半可な者では、その重責を支えられません」
「蟹江城は滝川左近に任せようと考えている」
蟹江城を滝川一益に預ける。異例の大抜擢に、場がざわめき出す。
「左近は信頼が置けますが、本当にご家老衆でなくてよろしいのですか?」
「構わん。左近なら上手くやろう。しかし、あやつだけでは手が足るまい。何人か与力を付けてやらねばな」
与力とは、信長様の直臣を他の直臣の指揮下に置くことだ。こうすることで、より大きな働きをすることができる。
「五郎左は喜蔵が到着するまで守山に残れ。城下の復興も始めておくように。右衛門の家臣どもを働かせよ」
「ご命令通りに致します」
とりあえずは、これで東は大丈夫だろう。それにしても、織田信勝の拡大思考は厄介だった。これまで抑え込まれていたのが、津々木蔵人の登場によって我慢できなくなっているようだ。
「お市様たちが来られたとなると、清須も華やかになるな」
「ますますお美しくなったと聞いているが、さてどのように成長されたのか」
前田孫四郎利家と佐々内蔵助成政が、信長様の妹二人のことで盛り上がっていた。
そこに、藤吉郎がまつの作った料理を運んでくる。
「お市様にお犬様、どちらの御方も菩薩のようにお美しい方々でしたぞ」
「なに? 藤吉郎、お前見たのか?」
「ええ、しっかとこの目で見申しました。その美しさに、わしだけでなく、皆が唾を飲み込んだくらいですわ」
自分の目を指差しながら喋る藤吉郎。
俺か前田利家、もしくは佐々成政の家で食事をするのは、もはや定例となりつつある。そこに、新次郎や村井長八郎などが加わり、藤吉郎もよく呼ばれていた。
「お前は見るな。お二人が汚れるわ」
「それはないですよ、佐々様」
藤吉郎が情けない顔をして、一気にそれが周囲の笑いを誘う。
不思議な愛嬌がある藤吉郎は、みるみると清洲城にいる小者たちの中心となっていった。
そして、親しくしている前田利家や、俺が村に行っているときは前田利家に預かってもらっていたりする新次郎に聞いても、特に怪しい動きはなさそうだ。
念のため妙にも聞いたりしたが、こっそり城の奥に出入りしているなんてこともないらしい。信長様も、特に藤吉郎について指示することはない。
もう問題ないのではないかと思うが、気を緩めるのは今川を撃退してからでも遅くはないだろう。
だから、話が面白いという理由で、食事には出来るだけ藤吉郎を呼んでいた。実際、何でもない話でも藤吉郎が話すと面白いのだから、良い娯楽だった。ただ、時折場所を誤魔化して話をする時があるので、それが尾張を出た後に向かったところだと考えている。
「まだ早いが、さて殿は誰に嫁がせられるのか」
「お市様でも、まだ十にもなっていない。いくらなんでも気が早すぎるだろう」
俺が佐々成政を諌めるが、首を振って指を突きつけてきた。
「甘いぞ、長三郎。お市様を娶った者が、次の出世頭だ。もう競争は始まっている。今日だけで噂が駆け巡っておるわ」
「殿がそう簡単に手放すとは思えないな」
お犬の方は知らないけれど、お市の方はいずれ近江の浅井長政に嫁ぐことを知っている。だから、まだまだ先の話のはずだ。
「呑気にしおって。噂では、塙九郎左衛門尉直政殿と長三郎が有力視されておるというのに」
「な、そんな、馬鹿なこと!」
「まあ、長三郎はおまけだがな。だが、塙殿の名前が上がっておるのだから、お前も当然入っておろうと言う訳だ」
信長様の御子を産んだ女性の家族。塙直政の名前が出たら、もう一人もというわけだ。しかも、姉は死産であり、塙直政の妹は側室にすら上がれていない。信長様が気にして、妹を嫁がせることで一門に迎え入れようとするのではないかという発想だ。
俺が黙り込んでしまったので、佐々成政が気まずそうに指を下ろす。
「すまん、長三郎。少し……調子に乗った」
「いや、いいんだ。そうか、九郎左衛門殿がお市様の婿となるかもしれないのか」
「あくまで噂だろう。殿がお決めになることだ。我らは、とにかく手柄を立てていればいいのよ」
自分には一切関係ないかのように笑う前田利家。しかし、信長様が決めることなのは確かだ。それを、あれこれ推察したところで邪推にしかならない。
「違いない。今川の奴らも、我らの手柄となりに尾張まで来るのだ。丁重に出迎えねばな」
「やっぱり……今川は攻めてくるのでしょうか?」
藤吉郎が、不安そうな顔をする。
「近くそうなるだろう。藤吉郎も戦に出されるだろうし、暇な時に槍の訓練をつけてやるぞ」
「ありがとうございます、前田様」
藤吉郎は曖昧な笑みを浮かべ、前田利家がその背中を乱暴に叩く。
それは、いつもの楽しい食事であった。準備を整えている自分たちが今川に負けるはずがないと、誰もが確信していたのだ。
天文二十四年八月、海西郡の服部党を中心とした今川との連合軍が、滝川一益の守る蟹江城を攻撃した。そして、慌ただしく清洲城から援軍が出陣しようとしたときに、東方から急報が届けられる。
織田信勝、謀反。




