守山城
一頭の馬が疾駆しているのが離れたところからでも見えていた。若い男、まだ少年といえる子が、巧みに馬を操っている。
そして、茂みに身を隠し、注意深く、本当に一騎だけなのかを確認している男たち。
「本当にやるのですか?」
「無論だ。これは殿がお望みになっていること。お前たちは、何も心配せずにあれを射殺せば良い」
「しかし、実の弟御を……」
「弟御であろうが、役にも立たんのだから利用して差し上げるまでよ。お前たちも出世したいであろう。のう? いつまでも小身に甘んじていたくはあるまい。これが上手く行けば、加増は約束されておるぞ」
男たちは不安を隠せずに顔を見合わせる。だが、命令している男が早くしろと目で命令していた。
そのため、一人の男が弓に矢をつがえ、狙いを慎重に定める。他の者たちも、うなずきあって茂みの中から弓を構えた。
一騎駆けを楽しんでいるのだろう、少年の唇は柔和で、美麗な顔つきははっとする美しさがある。
茂みから弓で狙いを付けていた者たちと向かい合う形になった時、風切り音の後に少年が馬から落下する。襲撃者たちは、少年がしばらく動かないことを認めると、今度は近づき、足蹴にして死んでいるかを確認する。
胸を矢で射られ、何が起こったのかわからないという目で、少年は死んでいた。
男たちはうなずき合い、さっとその場から離れていくのだった。
収穫の秋を控えた六月、尾張では今川の侵攻は間近であるとあちらこちらで噂になっていた。それは、弾正忠家が戦の準備に心血を注いでいるだけではなく、今川領国である駿河・遠江・三河の三国でも戦の準備が始まったことによる。
しかも、かつての安祥城の時とは違い、隠そうともせずに大々的に準備を行っていた。それは、今川による大攻勢が行われる証左であった。
かつてない規模の戦いになる。
信長様は、織田三郎五郎信広の勝幡城と織田喜蔵秀俊の蟹江城、両城にさらに防備を固めるように命令を下す。そして、那古野城には弓矢や兵糧が次々と集められていった。
清洲城でも、勝幡城に援軍がすぐに送れるように準備が進められた。村々へは、いつでも陣夫として人と馬を出せるように厳命されている。
そんな時、清洲城に急報が届けられた。
織田喜六郎秀孝、昨年元服したばかりの信長様の弟が、殺されたのである。
「何が起こった。どうして喜六郎が殺された?」
「はっ。それが……喜六郎様はただ一人で守山周辺まで遠乗りに出ておられたらしく……。そこを、川狩りをしていた右衛門尉様の家臣たちに見咎められ、矢を射掛けられたらしいのです。矢は、偶然胸に当たり……お亡くなりに……」
守山城を守る織田信次の家臣によって、実弟の一人が殺されてしまった。信長様なら激怒し、怒声を上げてすぐに織田信次を引っ張ってくることを命じられる。
共に報告を聞いていた俺たち家臣は、怒声に備えて心構えをする。
だが、いつまでたっても、信長様は命令を発しなかった。ただ、胡座の上に肘を置き、俯かせた頭を指で支えている。
信長様の最も近くにいる二人、池田勝三郎恒興と丹羽五郎左衛門尉長秀が視線をぶつけ合う。幾度か視線と顎を動かし合って応酬するが、なかなか決着がつかない。
やがて二人は、同時に俺の方に顔を向けた。他の近習たちや馬廻りの面々も俺を見ている。視線を俺から信長様の方へ動かして、お前が行けと告げる。
俺はため息を我慢し、身じろぎをして体を少しほぐす。
そして、胡座をかいたままの状態で少し前に出て平伏した。
「殿、ご命令を頂ければ、我らが守山城に向かいます。右衛門尉様と喜六郎様を殺害した下手人たちを、清須まで連れてまいりましょう」
「……下がっていよ」
「え?」
「下がっていよ、長三郎」
眼光鋭く、俺を睨みつける信長様。俺は何も言わずに頭を下げ、元の位置に下がる。俺に嫌な仕事を押し付けた面々は、そ知らぬ顔を決め込んでいた。
俺は後で覚えていろと何人かを睨みつける。
だけど、俺の犠牲によって、信長様が怒ってるわけではないということが判明した。ほっと胸をなでおろすところだが、状況が状況だけに何があるのかと心配になる。
「喜六郎は一人だったのだな?」
「それは間違いありません。末森から守山までの道々で尋ね回ったところ、確かにお一人であったと」
「我が弟ともあろうものが、この時勢に供も付けずに馬一騎で駆け回るなど、あってはならぬこと。右衛門と下手人は罪には問わんと伝えよ」
「ははっ。ありがとうございます! 大殿の御諚、確かに申し伝えます」
守山城からの使いが、急ぎ戻るために退出していく。
俺たちはまた顔を見合わせ、今度は池田恒興が信長様に話しかけた。
「本当に宜しいのですか?」
「今川が攻めてこようという時に、供も付けず一人遊んでおる喜六郎が罪だ。例え生きていても、喜六郎を許しはせなんだわ」
どうやら、信長様の考えでは全面的に織田秀孝が悪いようだ。俺も、遊んでいたかはともかく、一人というのは感心できなかった。信長様に付き添った経験からして、供は連れておくべきだ。俺は最初の頃は信長様に追いつけずに、よく置いてきぼりを食ったけれど。
「お前たちは、くれぐれも軽挙をするでないぞ。今は供を連れて行動せよ」
「はっ!」
俺たちは一斉に平伏する。信長様が満足げにうなずいた時、どたどた走る音が近づいてきた。
前田孫四郎利家などの馬廻り衆が立ち上がり、刀に手を添えて警戒する。
そして、息を切らせた男が評定の間の前にある庭に姿を見せた。男は、膝をつき頭を下げる。
「ご報告します! 末森城の勘十郎様が右衛門尉様追討の兵を挙げ、守山城に攻め入ってございます!」
「何だと! 誰がそんなことを許した!?」
「詳細は不明ですが、勘十郎様は整えていた兵を率い、もう守山城の間近まで迫っております」
「勘十郎に勝手を許すとは、権六は何をしているのだ! ええい、馬引けい! 一刻も早く守山に参るぞ!!」
信長様の下知に、俺たちは大慌てで準備を開始する。
今川侵攻を直前にして、弾正忠家の結束が揺らいでいた。
清洲城から守山城まで、僅かな供回りだけを連れて信長様は馬を駆けさせる。俺は、信長様から借りた馬に跨って、どうにか大きく遅れずについていくのが精一杯だ。これで道普請がされていなかったら、とてもついていくことはできなかっただろう。
守山城に到着すると、すでに守山の城下は放火されてしまっている。そしてどうやら、守山城は降伏したらしく、まさに織田信勝を先頭に入城しようという時であった。
そこに、信長様が兵たちを追い立てて乱入する。
「勘十郎、何をしておる!」
「これは、兄上。……遅いですぞ。もう喜六郎の敵は討ち申した。今更来られたところで――」
「この阿呆が!」
「な、何を仰る!? 敵を討ったそれがしに向かって、阿呆などと……」
信長様が織田信勝に馬を寄せて、青筋を立てて睨みつける。織田信勝は怯んで、馬を数歩引かせて信長様から距離を取った。
以前に清洲城で見かけた津々木蔵人らの織田信勝家臣たちが、両者の間に入ろうとする。それを、信長様の馬廻り衆が遮った。
一触即発の雰囲気の中に、大声が響き渡る。
「双方、それまで! ここは、この柴田権六勝家に任せ、両者ともお引きになられよ!」
戸惑う末森の兵たちをかき分けて、柴田勝家が姿を見せる。急いで来たらしく、鎧を身に纏っていなかった。
「蔵人、下がれ」
「しかし権六殿……このままでは……」
「儂が下がれと言ったら下がらぬか!」
声を荒げる柴田勝家に、津々木蔵人たちが縮こまってしまう。主君である織田信勝を見、そしてまなじりを上げて怒っている柴田勝家を見る。
信長様が、窮して動かなくなった二人に埒が明かないと、織田信勝を無視して入城するべく馬を進めた。俺たちは背後を警戒しながら、信長様に続く。
柴田勝家に止められて動けない織田信勝たちを尻目に、信長様は守山城に堂々と入城した。
守山城は、すぐに信長様によって掌握された。そして今は、兵を整えていたために遅れてやって来た丹羽長秀によって警備されている。
すでに末森の兵たちは帰城させられ、守山城には織田信勝と津々木蔵人、柴田勝家に僅かな側近が残るだけだ。
「それがしは喜六郎の敵を討っただけ。それに一体何の非がありましょうや」
「裁きは当主たるわしがすること。勝手な検断に及び、私戦をしようとは言語道断。許しがたき行為だ」
「……では、兄上は喜六郎を殺した者たちを如何されると?」
「今回のことは、状勢も弁えずに一騎駆けをした喜六郎が悪い。よって、弓を射た者も、ましてや右衛門には罪はない」
「馬鹿な!? 弟が殺されたのです! それを罪がないなどと!」
織田信勝が抗弁するけれども、信長様は取り合わない。
「早々に城を捨てて逃れた右衛門に感謝するのだな。そうでなければ、双方を成敗していたところだ」
喧嘩両成敗は、ずっと変わらない武士の掟。どんな理由があれど、仲間同士の揉め事は許されない。信長様の言う通り、織田信次が徹底抗戦していれば重い処罰が下されていた。
織田信勝が、不満に満ちた顔をしている。それに対して、織田信勝の二人の家老は大人しいものだ。柴田勝家は大事にならずに安堵している様子で、津々木蔵人はただ何かを待っているようにじっとしている。
信長様が池田恒興の方を向く。
「右衛門は見つかったか?」
「いえ、それがどこにもおられませぬ。範囲を広げて、捜索を続けます」
「右衛門が見つからぬとなると、守山城の城主を決めねばならんな。さて……どうするか」
頭が痛そうに、信長様が額を押さえる。今川が動き出す前に、こちらの防備に穴が開こうとしているのだから当然だ。
「兄上、それがしが……」
「勘十郎は黙っておれ! そもそも――!」
「なんですか、そのような大きな声を出して」
信長様が織田信勝を怒鳴ろうとするが、女性の声によって止められてしまう。
突然のことに、信長様も困惑した顔で声の主を凝視している。
「本当に三郎は昔から声が大きくてうるさいこと。もっと静かに出来ないかしら」
「は、母上……。どうしてこちらへ?」
信長様が母と呼ぶ女性、土田御前は微動だにせず、信長様をじっと見つめている。
部屋中の家臣たちが、すぐに部屋の端によって土田御前のために場所を開けた。
土田御前はゆっくりと部屋に入ってくる。そして、織田信勝の隣に座り、信長様に相対した。
本作のブックマーク登録が3000件を突破しました。登録して下さっている皆様に御礼申し上げます。
単純に考えれば、3000人もの読者の方々がいることになります。多くの方に呼んで頂いていると思うと、身の引き締まる思いです。
次はブックマーク登録4000件を目指します。これからも頑張っていきますので、拙作を宜しくお願いします。
さて、一話で終わるはずが伸びてしまいました。織田秀孝を殺したのが何者なのか、目的とともにそれは追々明らかになります。




