儚き世
産所に飛び込むと、姉は折り重ねた布団を背に置き、ぐったりとしている。顔は血の気を失い、まるで幽霊のようであった。
あまりの様子に立ち尽くしていると、後ろから信長様と帰蝶様も産所に入ってくる。
二人の姿を認めて、姉に付き添っている子安婆が残念そうに僅かに首を振ってみせる。
「血を……流しすぎました。手を尽くしましたが、もう助かりますまい」
「そんな、そんなことがあってたまるか! どうにかしてくれ!」
俺は子安婆に駆け寄り、懇願するようにその体を揺すった。しかし、また首を振るだけで俺に取り合おうとしない。
「……沢彦和尚を呼んでこい。急ぎ祈祷を再開させよ」
信長様が静かに妙に命じる。
しかし、妙が動く前に帰蝶様が手で遮った。そして、信長様が抱いている奇妙丸に手を伸ばして、優しく抱き取る。
そして帰蝶様が泣いている奇妙丸をあやしながら、ゆっくりと姉の傍まで歩く。俺は、縋っていた子安婆に押し退けられて帰蝶様に場所を譲らされてしまう。
「お通……お通、聞こえていて?」
帰蝶様の呼びかけか、それとも奇妙丸の泣き声に反応したのか、ゆっくりと薄く目を開けた。
「ほら、お通。見える? 立派な男の子よ」
「ああ……」
呻き声とも返事とも取れるような声。でも、ゆっくりと奇妙丸に手を伸ばそうとする。
帰蝶様がその姉の手を取り、奇妙丸を触らせた。姉が弱々しい手つきで奇妙丸の頭を撫でると、徐々に奇妙丸が泣き止んでいく。
「名は? 名は……何と?」
か細い声は、不思議とよく聞こえる。
帰蝶様が姉の質問に答えず、信長様を振り返る。信長様は、固く目をつむって上を見あげた。そして、さっきまでの感情を封じ込めて、穏やかな顔つきで帰蝶様に並ぶ。
「奇妙丸と名付けた。かの聖徳太子誕生の故事に習い、名付けたのだ」
「きみょう、奇妙丸」
姉は奇妙丸の名を呼びつつ、その顔を撫でる。
「きっと……信長様のように……秀でたをのこと、なります。ね? 奇妙丸」
姉の手から力が抜け、下がっていくのを信長様がすくい上げて奇妙丸に触れさせる。
「通……苦労をかけた。お前の奉公、この織田信長は終生忘れはせん」
「ただの……村むすめに、過ぎたるごおん……をたまわり、ました」
「安心して逝くがいい。全て、わしが引き継ぎ、守っていく」
「おとうとを、お願い、しま、す」
信長様がうなずき、一度姉の手を強く握った。
「お通。ごめんなさい。そして、ありがとう」
今度は帰蝶様が信長様に代わって、姉に奇妙丸を触れさせる。
「きみょうまるを……きみょうをどうか……」
「ええ、健やかに育てます。きっと、お通のように芯の強い子になりましょう。そして、いずれは殿すら足元に及ばぬ、日本一の男にしてみせます。だから……」
帰蝶様の瞳から数筋の涙が流れる。
「なにも、なにも心配いりません。私が……母として、育て、慈しみますから」
「おたのみ、します。……きみょう、帰蝶さまのおっしゃることをよく聞くのです、よ」
姉が奇妙丸に微笑みかける。声も、どうにか聞き取れるくらいに小さくなっていた。
そして、姉の視線が俺に向けられる。緩慢にうなずいて、俺を呼んでいる。
信長様と帰蝶様のお二人が、俺のために場所を譲ってくれた。子安婆が俺を押さえつけている力を緩め、開放する。
俺は立ち上がり、のろのろと譲ってくれた場所に足を進める。
「姉ちゃん、俺は……」
言葉が出て来ない。俺が信長様と帰蝶様の提案を断っていれば、いや、もっと以前に村に懸けられた夫役を受け入れていたらと、どうしても考えてしまう。
姉が俺に手を伸ばそうとするので、両手で姉の手を掴んで頬に添える。
「ありがとう」
「どうして、お礼なんだよ。だって……」
「むらから、連れ出してくれて。おふたりに会わせてくれて。あの子を産ませてくれて……ありがとう」
「姉、ちゃん」
膝から崩折れて、頬に添えた姉の手を強く握りしめる。
「さいを、てばなしては、だめよ」
「うん……わかってる」
サイコロはずっと懐に入れたまま、肌身離さず持っている。
俺の返事に、姉は嬉しそうに笑う。そして、もう力の入らないはずの手を動かして、俺の頭に乗せた。かつて、出陣前に父がそうしたように。
「長三郎、名をば成しなさい」
しっかりとした口調で、俺に命令する。
「……わかった。浄土や来世にまで、名を広めてみせる」
「お――と――――といっ――――いるわ」
「姉ちゃん? 姉ちゃん!?」
最後の力を振り絞ったのだろう、姉は事切れたように力を失ってしまった。
俺たちを見るために、目をどうにか開けようとしてしている。瞳を動かして、俺を、信長様を、帰蝶様と奇妙丸に視線を向ける。でも、少しずつまぶたが下がっていく。そして、目が閉じられた。
「姉ちゃん!」
俺だけでなく、みんなが名を呼ぶけれど、もう姉の目が開くことはなかった。
母の死を察したのか、火がついたように泣く奇妙丸の悲鳴だけが聞こえている。
廊下に座り込み、ただ月を見上げていた。
姉の遺体は、すでに死に化粧が施されて、そのまま産所に安置されている。明日にも沢彦宗恩によって供養が施されることになっている。
俺は家に帰る気にもなれず、産所が見える位置でぼうっとしているだけだ。
「やっぱりここにいたのね」
「お妙か……どうかしたのか?」
「一応、奇妙丸様のことを伝えておこうと思ったのよ」
妙が、俺の真後ろに座った。俺は振り返りもせず、まだ月を見ている。
「お通の代わりに帰蝶様が奇妙丸様と七日間のお籠もりに入ることになったわ」
新生児はまだ人ではないと考えられている。人間の世界にまだ属していない、清浄な存在だと信じられていた。これから七日間かけて、清浄さを失って不浄な世界に生きる人間となっていく。
母親はその間、ずっと起き続けていなければならない。それも、七日間を座って過ごすのだ。
本来なら姉がそうしなければいけないのだけど、帰蝶様が引き受けてくださったようだ。
「そう……。帰蝶様も休んでおられないから、心配だな」
「帰蝶様なら大丈夫よ。私も休んだらお手伝いするわ」
「ありがとう。色々と手伝ってくれて」
あぐらをかいたまま振り返ると、妙が驚いた顔をしている。
「長三郎が素直にお礼を言うなんて」
「偶にはな」
急に気恥ずかしくなって、また体を反転させる。
そして、しばらくお互いが黙ったまま時が流れた。
「姉ちゃんは……知っていたんだ」
「お通が何を知っていたというの?」
俺が長三郎ではないということを。
喉元まで出かかった言葉を、どうにか飲み下す。
最後、聞き取りにくかったけど姉は確かに言った。おっとうと長三郎と一緒に待っている、と。
どうして、サイコロを手放してはいけないのか。長三郎ではないと知りながら、弟として面倒を見てくれたのは何故なのか。
父と同じで、俺に名を成さしめるように言ったことも含めて、疑問は尽きることがない。
でも、それを知っている二人はもういない。じゃあもう、遺言どおりにするだけだ。
「やっぱり、何でもない」
「そう? でも、何か聞いて欲しいことがあれば、いつでも聞いてあげるから……」
「ああ。ありがとう」
それだけ言って、口を閉ざす。そしてまた、そのまま時間が過ぎる。
「……じゃあ、もう行くわ。長三郎も、休まなくてはいけないわよ」
妙が立ち上がる衣擦れの音がする。
「お妙……」
「なに?」
「腹が減った。何か食う物ない?」
盛大なため息が聞こえる。
「はいはい。本当に長三郎の頼みごとは食べることばっかりね」
呆れながら、笑いを含んだ声。
「まあ、何かあるでしょう。作って来てあげるから、ここで待っていて」
俺はただ手を上げてわかったと伝える。
妙の足音が遠ざかっていくと、同じ方向からどすどすと音を立てながら近づいてくる音がする。
「と、殿様!」
「妙か。ここで何をしておる」
「はっ。えっと、その、長三郎が腹が減ったと申すので、何か作ってきてあげようと」
「では、儂の分も持って来い。長三郎とともに待っているのでな」
「かしこまりました! 急いで作ってまいります」
妙が静かに走っていく。
流石に信長様が来られたのでは失礼があってはいけない。俺は片膝をついて信長様を迎えた。
「なんだ、泣いておるのではないのか」
「信長様は、俺の泣き顔を見に参られたのですか……」
「通にお前のことは任されたからな。わっぱのように泣いていたら、殴ってやろうと思っただけよ」
拳を固めてみせる信長様。
「泣いていませんよ。泣いたら……姉ちゃんに心配かけてしまうので……」
俺の返答が気に食わなかったのか、眉間にしわを寄せる。そして信長様は、さっきまでの俺と同じように、胡座をかいて座る。俺にも早く座れと床を叩くので、信長様の隣に腰を下ろした。
「通がよく言っていた。長三郎は考え過ぎるから、わしのように殴ってやる者が必要だとな」
「姉ちゃん……勘弁してくれよ。信長様になんてことを言うんだ。そりゃ、そういうこともあるけど……」
頭を抱えて困ると、容赦なく頭をはたかれてしまった。
そして、ああだこうだと姉との思い出話を信長様と語り合う。信長様が語る姉は、俺が知っている姉とはまた違う姿を教えてくれた。
あれで姉は俺の前では随分と繕っていたらしい。失敗をする姉など見たことがなかったから、とても新鮮だった。
いつしか、気づかないうちに視界がぼやけていることに気がついた。
「泣いたな、長三郎」
信長様の一言で、ようやく俺は涙を流しているのだと知った。
「俺は……泣いているのではありません」
「ほう、ではそれは何なのだ?」
「これは……涙が勝手に泣いているのです」
ただの負け惜しみにすぎない。でも、今は信長様の思惑通りに行くのが嫌だった。
「何とも屁理屈をこねる嘘つきだ。まるで売僧ではないか」
「どうとでも仰って下さって結構です。俺は泣いていませんから」
「今日はそういうことにしておいてやろう。通に免じてな」
信長様が寂しそうに産所に視線を向ける。
そして、裸足のまま地面に足をつけ、舞うようにして口ずさんだ。
「この世に常の住み家はありはしない」
「……草葉にかかる白露や水面に映る月のようにあっけないもの」
「花を見ては歌いし者たちの栄華は、無情の風に誘われて飛び散ってしまう」
「月を愛でては興じ楽しむ者たちも、月より先に雲に隠されてしまった」
信長様と俺とで、交互に吟じる。人の一生の短さを表した一節。
「長三郎」
「はっ!」
月を背に、信長様が俺の名を呼ぶ。俺も裸足で地面に降りて、膝をつく。
「儚き世を憂い、仏門に入ることは許さん。その身が朽ち果てるまで、お前はわしについて来い」
「承知しました。この道祖長三郎が、道を示し、また御身をお守りし、冥府までお供いたします」
信長様をお守りし、名を成してみせる。それが、この時代にいる意味だと信じて。
「妙が戻る前に、賽子を振るぞ。吉凶を占うのだ」
「何の吉凶でしょうか?」
「知れておろう。奇妙丸のよ」
信長様が好戦的な笑みを浮かべて、懐から賽子を取り出す。また新しい賽子だ。
俺も負けていられないと、懐からサイコロを取り出した。
天文二十四年(一五五五)五月、織田信長の嫡子奇妙丸生誕す。実母の名前は伝わっておらず、信長の正妻帰蝶の養子に迎えられた。
読者の方には突然と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、お通に退場してもらうことは随分前に決めていました。暗い展開にすると皆さんに読まれなくなるみたいな話もありますが、歴史物だし死がつきまとうのは仕方ありません。
そして、長三郎がサイコロを持っている理由とか、名を成せと言ったことは、そのうちに明らかにしたいと思っています。いや、別に壮大な計画があるわけではありませんが。
また今回のために中近世の出産を調べましたが、女性はとても大変です。どうも、寝転がってはいけないようでして、ずっと座っているかしゃがんでいないといけないらしいですね。なのでお通も死にそうなのに布団を背に座っていたわけです。むしろ、そういうので体力を消耗するから亡くなるのではないかと思ったくらいです。
さて、次回は隠れたもう一つの陰謀が動き出します。
どうかこれからも、拙作にお付き合いください。




