奇妙丸
年が明けて天文二十四年。春になっても今川が動くことはなかった。やはり、行動を開始するとしたら秋になるのだろう。ただ、服部党の動きは活発になっており、根城にされてしまっている海西郡には容易に近づけない状況になっていた。
道普請は各所で行われたが、夫役での普請であったので那古野と熱田、津島を結んだ道ほどの出来ではない。それでも、以前よりは格段に道が良くなっていた。那古野を中心とした道の拡充は順調に広まりを見せている。軍勢の移動は随分楽になるだろう。
そして、村では麦などの収穫が行われた。草木灰のお陰か、例年よりは畑作での収穫が良かったらしい。
「村人たちは喜んでおりました。これも、長三郎様のお陰だと」
「それは嬉しいけれども、僅かなものなのだろう?」
「それでも収穫が増えれば食うものに困りませんからな。それと、米も作る新田の方では、時期を心配しておりましたが、あの千歯扱きがあるのでなんとか米作りにもかかれそうです」
新田では米を作ってから麦を作る二毛作を行おうとしている。今回は麦が先であったが、ようやく米作りも出来るのだ。
考えていたよりも米作りの時期に食い込んでしまったために、大丈夫かと心配していたけれども意外にも千歯扱きが役に立ってくれた。
「麦と米とでは歯の隙間が違うから面倒だけど、上手くいってよかった」
従来の脱穀方法では時間がかかりすぎて、米作りに支障が出ていたかもしれなかった。篠岡八右衛門や数人の村人とああだこうだと秋から試行錯誤したお陰だ。一人で考えるよりも、農業に習熟した彼らに相談したほうが良いものが出来た。まだ、使おうとする者は少ないけれど、少しずつ広まっていくだろう。
「殿が仰った麦藁を漉き込む準備もできております。ただ、少し試してみたのですが……畑をした後なので土が固すぎるようなのです」
「では、出来ないのか?」
「いえ、出来なくはありません。ただ、耕す連中は不満そうですな……」
本当にやってみないとわからないことばかりだ。肥料として刈敷を行って土に栄養を与えるのは良いとして、土が固くなるというのは思っても見なかった。
「今年は頑張ってやらせてくれ。牛馬で耕す方法もあるから、来年にはなんとか取り入れてみよう」
「承知しました」
篠岡八右衛門が納得の姿勢を示し、新田を耕す連中の方に向かう。
「牛馬耕か……。牛か馬の購入と、犁はさすがに鋳物師に作って貰わないといけないよな」
思わずため息が出そうになる。まだ金には余裕があるけれども、自分の馬よりも先に農耕の牛馬を購入することになるとは思わなかった。
そして、馬が大食いなのは城での生活で知っている。管理こそしていなかったが、信長様の馬を見ていたのだ。餌用の畑を作るなり、二毛作の裏作で馬の餌になるものを作らないといけない。
俺の独り言に、隣りにいた新次郎が首を傾げて見上げてくるので、何でもないと首を振って答える。
「ここは八右衛門に任せて、そろそろ清須に戻るぞ」
「かしこまりました! 準備します」
屋敷に駆け戻っていく新次郎の背を見送り、俺は清須の方角を仰ぎ見る。
もうそろそろ、姉の子供が産まれてくるのだ。
姉の出産は、着々と進んでいるらしい。姉はすでに清須城内の外れにある一角に移されて、出産のときに備えていた。そして、その周囲では信長様が集めた僧侶たちによる加持祈祷が行われている。
そして信長様は、最近置くようになった御伽衆と熱心に話をしている。御伽衆は、芸能や学問を伝授する人であったり、また様々な話を知っている人物たちだ。そうした一芸に秀でた者たちから故事などを聞くことで、名前を考えていた。
また帰蝶様は、自室で読経をして姉と子供の無事を祈ってくれている。姉に対しては苦しい思いを抱えているときがあったようだけど、そうした気持ちを押し殺して姉を支え守ってくれた。
信長様と帰蝶様が自分にできることをする中、俺は何もすることができなかった。取るものは手につかず、ただうろうろとしているだけだ。
「長三郎様、せめてお座りになられては如何ですか?」
「ああ……そうだな」
新次郎の呆れた忠告に、俺は生返事を返して縁側に座り込む。しかし、すぐにじっとしていられずに立ち上がって、またうろうろと歩き出した。
自分が父親になるわけでもないのに、と呆れる新次郎を尻目に、腕を組んで歩き続ける。
そこに、幾度も顔を合わせた人物が近づいてきた。
「長三郎、少し良いか?」
「九郎左衛門殿……」
近づいてきたのは、塙九郎左衛門尉直政。信長様に抜擢された人物で、彼の妹が信長様の庶子を産んでいる。馬廻りとしての役割を担っているが、それよりも吏僚として村井吉兵衛貞勝の下で働くことが多い人物だ。
文武両道に優れ、いずれは馬廻りを率いるのではないかと噂されている。
俺は新次郎に手で離れているように示し、塙直政に向き直った。
「どうかされましたか? 九郎左衛門殿がわざわざ……」
「分かっていよう。長三郎の姉が、殿の御子を出産されるという噂を聞いたのでな」
「……左様ですか」
少なくても、姉の心配をされるほど親しくはない人物だ。確実に姉が産む信長様の御子を気にしている。塙直政の妹が産んだ子は、弾正忠家の後継者にはなりえない。それは、正妻たる帰蝶様が信長様の御子と認めていないからだ。
「お生まれになる御子は、弾正忠家の後継者になられると聞いたが、真かな?」
「それは……殿と奥方様がお決めになることです」
「なるほど。御子をどうされるのかは知らないと、そう言うのか」
「家臣が主君の御子の将来を決めるなど、恐れ多いことですので」
男子であれば帰蝶様の養子になるなんて、わざわざ教えることはない。
しかし、塙直政は気分を害した様子を見せず、微笑を浮かべて俺の両肩を叩く。
「そう警戒するな、長三郎。わしはお前の姉をどうこう思ってはおらん。妹と甥の扱いも納得しておるのだ」
微笑の奥、確かな敵意を忍ばせた眼光を俺に向けている。
「これからはわしとお前は親類と言えなくもないのだ。以後は手を携えて殿を支えて行こうではないか、なあ長三郎」
「とても良いことですね、それは……。もし……共に働く場にあれば、宜しくお力添えをお願い致します」
「そうだ、それでいいんだ」
俺の返答に気を良くしたのか、それともここを引きどころと思ったのかはわからないが、塙直政は俺の両肩から手をどけた。
そして、そっと俺の耳に囁いた。
「これからも、己の分というものをよく承知しておくことだ。わしはまだまだ出世するからな、お前以上に」
そうして、塙直政は何事もなかったかのように悠然と歩き去っていく。
角を曲がり、姿が見えなくなったところで、俺は目元をほぐす。信長様が大和守家を倒してから、出世競争が起こっている。そして、三河進出を謡ってからは、激化の一途を辿っていた。
姉が信長様の御子を産むということは、それだけ寵愛を受けているということ。その弟である俺は、これからさらに出世すると思われている。信長様がそんなに甘い方だとは思えないけれど、そう思わない人物はいるのだ。
結局、俺の知行地となった村の報告を捻じ曲げたのが誰かはわからなかった。そのため、どこかで聞き漏らしがあったのだと一応判断されている。だけど、さっきの言動からすると、もしかしたら塙直政が細工をしたのかもしれない。証拠は何もないし、全然違う人物がやった可能性もあるが、何か手を打つ必要があった。
離れていた新次郎が走り寄ってくるので、俺は手を上げて大丈夫だと示す。
もううろうろと歩き回ることは止め、俺はまた縁側に腰掛けた。
姉の出産が始まってから、とてつもなく長い時間が経過した。加持祈祷を行う僧侶たちも交代して休憩を取っているが、その声に疲れが混じっている。
今は一室に信長様と帰蝶様、俺が揃っている。あまりにも長く時間がかかっているために、もう一人ではいられない心境だったからだ。
「長い……」
信長様が独白するが、もう俺も帰蝶様も答える元気はなかった。ただ、姉と産まれてくる御子の無事を黙って祈るだけだ。
その時、僧侶たちの声がだんだん小さくなっていき、やがて聞こえなくなる。
「祈祷が止んだ?」
「何かあったのでしょうか……」
信長様が障子を開けると、まっすぐに西日が差し込んでくる。
そして、聞こえてくる赤ん坊の泣き声。
「産まれた、産まれたか!」
信長様が怒声のような大声を上げる。その声に反応するように、赤ん坊の泣き声はより大きく聞こえてきた。
「この声の大きさ、まさに殿の御子……」
帰蝶様が腰を抜かしたように座り込んでいる。しかし、その顔は無事に産まれた安堵に満ちていた。
「和尚、沢彦和尚!」
加持祈祷をあげていた僧侶の一人に、信長様が声をかける。
「吉法師殿、御子が誕生されましたな。お喜びを申し上げる」
信長様を幼名で呼ぶ僧侶、沢彦宗恩は信長様に教育を施した徳の高い僧侶だ。亡き平手政秀を弔うために建立した政秀寺の開山も、信長様に乞われて務めている。
疲れをにじませた顔で、沢彦宗恩が祝福を述べた。
「ご苦労であった和尚。さあ、食事の用意がしてあるので、ゆっくりお休みあれ」
「結構なこと。施し、有難く」
沢彦宗恩が弟子たちを引き連れて、用意された休憩部屋に下がっていく。
僧侶たちを見送っていると、産所になっていた部屋から、年かさの侍女が姿を見せた。腕には白い包みを抱いている。
「殿、おめでとうございます。男子ですよ」
「お、おお、男子か!」
信長様と帰蝶様が、侍女に抱かれた赤ん坊を覗き込む。二人が嬉しそうに赤ん坊を指先で触っている。
俺は、それをただ離れて見ていた。男の子なので、姉の子は帰蝶様の養子となることが決まったのだ。俺がずけずけと入っていくことは出来ない。
帰蝶様が侍女から赤ん坊を受け取る。そして、俺に顔を向けた。
「何をしているの長三郎。早くこっちに来なさい」
「しかし、帰蝶様……」
「愚図愚図していないで早く来い。お前の甥なのだぞ」
信長様までも俺を呼ぶので、俺は恐る恐る近づいて、赤ん坊の顔を覗き見た。まだ、父母のどちらに似ているのかはわからない。それでも、信長様のような凛々しい顔立ちを想像させられる。それでいて、何故か姉の子なのだと感じさせられる顔でもあった。
「殿、名はお決めになられたのですか?」
「うむ」
信長様が、帰蝶様から赤ん坊を受け取り、胸に抱く。そして、西に沈みつつある太陽を拝み見た。
「三国伝記に曰く、太古に在りし聖徳太子がお生まれになった時、西より光が指して宮中を明るく照らしたという。その容顔は奇妙にして神異の験有りと。その故事に習った」
信長様が一拍間を置き、朗々とした声で名を告げる。
「奇妙丸」
聖徳太子にあやかって付けられた名前。畏れ多いけれど、もうその名前しかないというようにしっくりくる。
帰蝶様もそう思っているのだろう。何度も奇妙丸の名前を呼んでいた。
あとは、姉の回復を待つだけだ。きっと、姉も奇妙丸の名前を気に入るだろう。
そこに、お産を手伝っていた妙が部屋に飛び込んでくる。騒々しさに、奇妙丸が再び大きな泣き声を響かせた。
「すぐにお越しください。お通様が……」
目に涙をため、妙が息を切らしながら告げる。
俺は奇妙丸の泣き声を背に、反射的に部屋を飛び出した。
織田信忠の幼名、奇妙丸は頭の形が変であったから付けられたなんて話がありますね。さすがにそれはどうかと思い、意味を調べました。
奇妙には確かに、普通にはない、珍しいことという意味があります。しかし、並外れて優れていることという意味もあります。意味の出典である『三国伝記』は室町時代の説話集です。一応内容も確認し、聖徳太子のことだったので今回採用しました。『三国伝記』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことが出来ます。




