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信長の軍師 賽の目は天下不如意なり  作者: 無位無冠
第一章 織田弾正忠家の墾道
34/101

姉と弟

 信長様は懸案となっていた清州城をついに攻略した。守護代であった織田大和守家は潰え、尾張下四郡をその影響下に納めることになる。

 また、弾正忠家は商業収入に頼る面が大きかったのが、大和守家とその家臣たちの領地を没収したことで飛躍的に収入の増加が見込めた。


 しかし、これまで弾正忠家が経験したことがない程の土地を欠所処分するので、その対応に大わらわになってしまった。まず、欠所地となる村々に指出を提出させなければならない。指出とは、現地の実態把握のために田畑の面積、年貢高や領主などを記載したものを言う。

 検地の一種であるが、現地に赴いているわけではないので正確性に欠ける調査だ。村側としてもわざわざ調査に来ないことはわかっているので、実際よりも田畑を少なくして報告したりする。一時のごまかしでしかないことも多いが、村としては少しでも楽になりたいと思うのは当然だった。

 

 指出と清州城に残されていた検地帳とを整合し、どこを直轄地にして、またどれだけ恩賞として分配するのかが決められていく。そして弾正忠家だけでなく、召し抱える大和守家の元家臣たちについても考えなければならないので、余計にややこしくなる。

 面倒だけど、これは必要なことだった。なぜなら、そうした召し抱える家臣たちは代々守護代家で実務にあたっていた家の者たちだからだ。彼らはこれから弾正忠家が必要とする、下四郡を治めるにあたって実務的知識を有している。


 吏僚たちが総動員されて、戦功のあった者たちから次々と領地が宛行われていく。まずは籠城戦で坂井大膳から那古野城を守り通した佐久間半羽介信盛、滝川左近一益らに恩賞が与えられていった。

 そして、籠城戦の守将である林秀貞の番がやってきた。


「よくぞこの那古屋城を守り通した。守将として皆を鼓舞し、槍を振るって敵を退けた働き、見事である。よって加増を遣わす」


「ありがたき幸せ。これからも、殿の御為に粉骨砕身いたします」


 池田勝三郎恒興が、信長様の代わりに恩賞の目録を手渡した。林秀貞は、恭しく目録を受け取り、次の者に場所を譲るために退こうとする。そこに信長様が声をかける。


「秀貞、まだその場で待て。この場で、皆に告げておくことが有る」


「はあ、かしこまりました」


 林秀貞がその場に座り直す。周囲も、何が始まるのかと居住まいを正した。


「此度の戦で清州城を手中に収めることができた。ついては、本城を那古野から清須に移す」


 信長様の決定は当然のことだ。清州城のほうが権威があり、象徴性も高い。これからの尾張統治を担っていくという表明にもなる。

 

 誰も異議を唱えるなんてしない。むしろ弾正忠家の隆盛に高揚しているくらいだ。


「それにあたって、この那古野城の城代に林秀貞を任ずる」


「せ、拙者に那古野を任せていただけると!?」


「そうだ。城の修復、城下の再建とやることは多い。商人たちからの税は弾正忠家の柱であり、那古野はその重要な拠点だ。そして今川との戦いには、ここから出陣することが多いだろう。そのための用意を怠りなく努めることが肝要だ。これほどの重責、筆頭家老たる林秀貞以外に任せるに足る家臣はおらん」


 弾正忠家の重要拠点を任せてもらえる。それだけ林秀貞が信長様に信頼されていることを示していた。


 信長様に反発する旧臣たちを取りまとめ、君臣の間を取り持ち続けた苦労が報われたのだ。もちろんそれだけでなく、荒らされてしまった那古野の復興に林秀貞の力を期待する面も大きいだろう。


「身命に代えましても、必ずや殿のご期待に沿うてみせます!」


 林秀貞とその背後にいる一族の家臣たちが平伏する。


 主君からの信頼が厚いということは、これからの出世も大いに有り得るのだ。それに城代とは言え、那古野を治めるのだから旨味は大きい。林一族は、総力を上げて那古野を復興させるから、籠城戦前の姿を取り戻すのも早くなるだろう。


 満足気にうなずく信長様。そして次に、その目を俺に向けた。信長様の視線を察した池田恒興が、口を開く。


「次、道祖(さや)長三郎!」


「はっ!」


 縁側に座っていた俺は、信長様の前まで行くために大広間に足を踏み入れた。大広間にいる重臣たちの中には、刺さるような視線を向けてくるものもいる。

 信長様の寵愛を良いことに、足軽の小倅が成り上がってきた。きっと俺をそんな風に思っているんだろうな。

 今まではよくある足軽の出世程度でしかなかった。だが、この場に呼ばれるということは、これまでとは訳が違う。


 俺は信長様の前まで進み出て、平伏する。


「道祖長三郎、此度の戦におけるお主の献策による勝利への貢献は疑いようがない。また、半羽介や左近からも働きの程はよく聞いておる。よってここに、恩賞を取らせる」


「恐悦至極に存じます!」


 林秀貞と同様に、池田恒興が俺に手渡してくる。それを、両手で押し頂いて受け取った。


 裏からでも字が透けて見える薄い紙。これを貰うために、多くの人々が命を懸けて戦う。持っているものを守るために、もしくは新たに手にするために。そして多くの兵たちが、これを手にすることはない。


 懐に入れるために折りたたもうとすると、文面が目に飛び込んでくる。


就今度尾張下四(今度尾張下四郡欠)郡欠所之儀、(所の儀に就き、)

坂井大膳知行分(坂井大膳知行分)内三拾貫文、(の内三十貫文、)

為扶助申付候(扶助として申し付け候)訖、全知行(い訖、知行を全うし)

不可有相違者也(相違有るべからざる者)、仍状如件、(也、仍って状件の如し)

 天文二十三

  五月四日    信長(花押)

    道祖長三郎殿


 多くの文書は、右筆が文章を書いて、文書発給をする本人は花押(かおう)を書いたり印を押すだけだ。でも、この字は何度も見ている信長様の自筆に間違いはない。わざわざ俺のために、書いてくれたのだ。


 俺は思わず顔を上げた。信長様が、笑みを浮かべている。


「長三郎に証文をやるのは二度目であるな。だが、今回のはお前だけの物だ」


「感謝に……堪えません。ありがとうございます」


「直轄地にする予定の一村を預ける。まずはその村の代官も務めよ」


「承知仕りました。道祖長三郎、より一層の忠誠を捧げます」


「励め長三郎」


「はっ!!」


 本格的に武士としての力量が試されることになる。信長様についていくとともに、これからは俺自身も誰かを引っ張っていくのだ。

 信長様が大名として一歩を踏み出したとともに、俺も引き上げられるように武士としての一歩を踏み出す時が来た。


 姉は喜んでくれるだろうか。


 その時は、うれしさとともにそんなことを漠然と考えていた。









 論功行賞が終わり、俺はさっそく姉に報告しようとすると、ちょうど信長様から自室に来るように命じられた。

 すると信長様の自室には、帰蝶様と姉がすでに待っていたのだ。


「帰蝶様に、姉ちゃんまで……。一体何が?」


「まずは座りなさい、長三郎」


 怒っているわけではないのに、凛として俺に命じる帰蝶様。


 戸惑う気持ちを抑えて手で示された場所に座る。

 上座に信長様と帰蝶様。その側近くに姉がいて、俺は一人下座にいる。


「今日はお通のことで、折り入って長三郎に話があります」


「急に何事でしょうか?」


 姉に視線を向けるが、目を閉じて少し顔をうつむかせている。


「知っての通り、殿と私の間には子がいません」


 もしかして、信長様に庶子が生まれたことが関係があるのだろうか。でも、俺が呼ばれた理由がわからない。


「清須に殿がお移りになる今、殿は側室を迎えることもありましょう。でも、その側室の子が跡取りとなるのでは、美濃の父が黙ってはいない」


 言われてみてはその通りだ。でも、信長様がいずれ美濃を手に入れることから考えて、問題ないのではないだろう。勿論、そんなことは口が裂けても言えないけれど。


「そこで、殿と相談して養子を迎えることにしました」


「それは……おめでとうございます、と申し上げてよろしいのでしょうか」


「長三郎次第です。その子供は、まだ身籠ってもいないのですから」


「身籠っていない?」


 ということは、これから妊娠するということだ。ますます呼ばれた意味がわからなくなった。


 首をひねる俺に対して、帰蝶様は表情を変えずに何かを言おうとする。


 しかし、それより先に信長様が口を挟んだ。


「通をわしの側女にあげる。そして、男子が生まれたら帰蝶の養子にすると決めた」


 最初、信長様が何を言っているのかわからなかった。理解できず、呆けっとした表情をうかべていただろう。理解が追い付いてくると、わけの分からない感情があふれてくる。


 姉を信長様の側女にする。つまりは妾、愛人ということだ。しかも、生まれた子供は帰蝶様の養子となってしまう。


 俺は、姉を見る。嫌そうにも、嬉しそうでもない。ただ目を閉じてじっとしていた。


「姉ちゃん……」


「何、長三郎?」


 いつもの姉の声。表情だけでなく、声からも気持ちを推し量れない。


「姉ちゃんは……それで、いいの? 信長様の、側女になっても……」


 自分でも声が震えてしまっているのがわかる。俺は怖いのだ、姉の気持ちを知ることが。


「姉ちゃんはね、ずっと帰蝶様のお役に立ちたいと思っていたわ。長三郎が信長様のお役に立ちたいと思うのと一緒でね。だから、お二人から話を聞いた時に、すぐに承諾したの。私が……帰蝶様の代わりにお子を産むって……」


「側室でもないんだよ。子供だって、男の子なら帰蝶様の養子になって、姉ちゃんは育てられない」


「そうね。子供は……寂しいだろうけれど、大丈夫よ。だって、傍にはいられるんだもの。長三郎は、姉ちゃんの心配をしていないで、自分の心配をしなさい。姉ちゃんは大丈夫なんだから」


「心配するなって、そんなこと出来るわけ無いだろ! 姉ちゃんは大切な家族なんだから!」


 もう俺か長三郎の想いなのかもわからなくなっているけれど、この時代に来てからこれだけは絶対に変わっていない。想いが強すぎるから、姉が傷つくことを恐れて、姉のことをなにも決められなかった。


 姉が優しく微笑んで、俺の手を取る。


「ありがとう、長三郎。でも、だから姉ちゃんの決めたことを大切にして頂戴。そして、あなたが家長なのだから……長三郎が決めて」


 おっとう、俺はどうしたら良いんだよ。姉ちゃんの行く末を決めるなんて……。


 もうどうしていいかわからなくて、部屋を飛び出していきたいくらいだ。


「お前は一家の長だ。これから、お前自身が決定することは幾度もあるだろう。その肩に、家族や家臣たちの将来がかかっている」


 信長様が諭すように言葉を紡ぐ。


「今回のことは、長三郎が反対するなら無理強いはせん。罰も与えん。自らの選択で、決めてみよ。熱田に兵を集めることを進言したようにな」


「信長様……」


 信長様がうなずき、帰蝶様も俺が反対なら仕方がないとばかりにしている。姉は、まだ強く俺の両手を握っていた。


「信長様……一つだけ、お約束ください。姉ちゃんを、姉を大切にすると。側女であっても、決して無碍にはしないと。大事にするって……」


 愛してくれとまでは言わない。でもせめて、自分と同じように、姉を大事に思って欲しい。


「誓おう」


 こんな時、言葉が少ない信長様は頼もしいと思ってしまう。この人なら、絶対に約束を破らないと思わせてくれる。


 俺は、姉の手を解いて、信長様と帰蝶様に平伏した。


「お二方のお望みどおり、この道祖長三郎の姉通を、主君織田三郎信長様の側女へとあげさせていただきます。どうか、姉をよろしくお願いいたします」


 こうして、道祖家は新たな出発を果たすことになった。









 道祖長通が一次史料にその姿を見せるのは、天文二十三年五月四日付の織田信長判物写による。実物は現存せず、写しだけが残っている。端に小さく「織田信長公自筆也」と書かれていることから、正文(しょうもん)は織田信長の自筆であったのだろう。

 二人の関係が深かったことをあらわす、貴重な手がかりと考えられている。


 そして、一説には、長通は自身の姉を信長の側室に入れていたとするのがある。以後の長通の出世は、この姉によるところが大きかったと。だが、戦国時代の女性が史料に出てくる事は少なく、長通の姉の話はずっと後世の編纂物に取り上げられているくらいだ。道祖長通について信頼性の高い『道祖実記』や『信長録』にも、その姿を見出すことはできない。

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