申し出
小さな川を堰き止めて、干し上がった川から魚を捕る川狩りは、鬱屈した日々を送っていた斯波岩竜丸には格好の気晴らしであった。
退屈であったのは、守護代織田大和守信友の家老である坂井大膳に、城の外に出ることを控えるように言われたからだ。
岩竜丸は陪臣ごときが出過ぎたことをと思ったが、父の斯波義統にもうじき元服なのだから大人しくしておくように言われてはどうしようもない。それでも、外に出たい気持ちは日に日に募っていく。
だから、時折清州城を訪れるようになった織田孫三郎信光が持ってくる土産と披露される戦話のみが、退屈を紛らわせてくれていた。
そんなある日、岩竜丸は父義統から川狩りに行くように告げられた。織田信光を交えて、気晴らしの酒宴を催すからだという。その時に、初めて自分だけでなく父親も退屈な日々を過ごしていたのだと知る。
とはいえ、父親からのお墨付きをもらったので、若い家臣たちを引き連れて川狩りに赴くことにした。特に織田信友や坂井大膳にばれないようにひっそりと城を抜け出るのも岩竜丸にとってこの上なく面白かった。
たくさんの魚を捕獲し、意気揚々と清須近くまでに帰ってきたところで、ただ一騎で駆けている武者と遭遇する。
鎧兜を身に着けて、今まさに戦場へと赴こうとしているような出で立ち。
騎馬武者の名前は河尻与兵衛尉秀隆。大和守家の家老の一人、河尻左馬丞与一とは同族の人物であった。
「岩竜丸様がご無事であること、危難の事態ではありまするが、祝着申し上げます」
大広間において、いつも信長様が座している場所に岩竜丸が表情を固くして座っている。そんな岩竜丸に信長様が頭を下げると、俺たち弾正忠家家臣は一斉に平伏した。
斯波岩竜丸を救出できたことは、思ってもいなかった幸運である。女官の一人でも逃れていれば幸いと考えていたのに、まさか尾張守護の跡取りが引っかかるなんて予想外過ぎた。
探索に向かった者たちからの報告に、信長様は何度も確認をして、ついには自分で馬を駆ってまで迎えに行ったのだ。
誰もが死んだものと思っていた尾張守護の後継者。偶然が重なって、逆転の手札が転がり込んできた。
「三郎! すぐに父上の仇討ちをするのだ!」
「はっ! この織田三郎信長に万事お任せくだされ。必ずや亡き武衛様の無念を散じ、岩竜丸様を盛り立てて参りましょう」
「うむ、頼むぞ。全て三郎に任す故、一刻も早く逆臣共を平らげるのだ」
「かしこまりました。しかし、岩竜丸様はお疲れでありましょう。すでに部屋を整えておりますので、そちらでお休みください。その間、討伐の用意を進めておきます」
岩竜丸の一言で言質を得た。斯波義統が死んだ今、これで全ての大義名分が整う。だから、これ以上首を突っ込まれる前に奥に引っ込んでいてもらうつもりだ。
岩竜丸は何か言いたそうな顔をするが、付き添っている家臣たちから促されて立ち上がった。
「わかった。まずは休んでいよう。だが、必要とあればいつでも呼ぶのを許す」
「ありがたき御諚」
信長様がもう一度平伏すると、斯波岩竜丸は侍女の案内で下がっていく。
足音が遠のいたところで、信長様がいつもの席に戻っていった。
「吉兵衛!」
「はっ、すでに各所への書状を書かせ始めております。のちほど署判をお願い致します」
「よし。所之介!」
「籠城に使う物資の手配は滞りなく。矢の数が不安ですが、どうにかなりましょう」
次々に、戦の準備状況が報告されていく。一番の問題が兵数なのだが、それも岩竜丸の存在によって解消されるはずだ。
守護斯波義統を殺害したのは織田信友や坂井大膳であり、弾正忠家の企みではないということを岩竜丸の存在が保証してくれる。村井貞勝が用意させている書状には、岩竜丸の命で兵を集める旨が記載されているだろう。
「殿、問題は清須がいつこちらに迫ってくるかです。領地に篭っている者たちが集まる前に那古野を攻められては、我らは敗れるしかありません」
滝川左近一益の進言に、信長様が腕を組んで考える仕草をする。
なるほど。滝川一益の言う通り、その可能性はある。兵が集まれば野戦を、集まりきらなければ籠城戦と思っていたが、集まる前に攻められることもあり得た。その場合、兵たちは勘十郎信勝などのところに集まってしまうだろう。
「左近の申すとおりだ。与兵衛、どうなのだ?」
広間に集まっていた面々が、一斉に部屋の隅にいた河尻秀隆を見る。織田信秀の存命時には信長様に仕えていた人物で、その後信長様に愛想を尽かしたということにして親族を頼って大和守家に潜入していた。
今回、斯波義統殺害は急なことだったので対処できなかったけれど、岩竜丸を大和守家に発見されることなく那古野城に連れて来ることに成功した。
「那古野に兵が集まっていないのは知られております。されど、のんびりと構えてはいません。坂井大膳を大将に出陣の準備は整いつつありました。こちらの兵が集まる前に来るかどうか、判断が難しいところです」
「要はわからんということだな」
「どうしたものであろう。せっかく岩竜丸様を迎えて光明が見えたと言うのに……」
「もはや詮無きことだ。とにかく、戦の準備を進めようではないか」
次々に不安を口にする。打てる手は、無いように思えた。でも、ここで運を天に任せる訳にはいかない。思いついたことがあるのだから、言うべきだろう。
大広間に入れない俺が意見を述べるのは出過ぎた行為だ。だけど、ここで諦めるのは信長様に啖呵を切った手前できない。
俺はすっくと立ち上がった。両隣の池田勝三郎恒興と前田孫四郎利家から座るように袖を引っ張られるが、振り払って歩を進める。
そして、重臣たちの前を通り抜け、信長様の前で平伏した。
「殿……申し上げたき儀がございます。お許しありましょうか?」
「許す。申してみよ」
「ありがたき幸せ。では、兵を集めるのはこの那古野ではなく、熱田になさいませ」
「熱田にだと?」
信長様が目を見張り、周囲が熱田に集める意味を考える。でも、考えるほどそんなに難しいことではない。
「敵を那古野に引きつけ、熱田に集結させた兵で奴らの後方から攻めるのです。殿は熱田にお移りし、那古野は信頼できる方にお任せください」
「長三郎、突然なにを言い出すのだ! この那古野をおとりに使うというのか!」
筆頭家老の林秀貞が口を挟んでくる。
「はい。大魚を得るには、相応しい餌が必要である。殿からお教え頂いたことです。那古野は弾正忠家の要の一つ。敵も、まさかそれをおとりに使うとは思いますまい。餌たる資格は十分にあります」
「……よかろう。長三郎の進言をとる」
信長様の決定に大広間全体がざわつく。信長様が、意見を拾い上げた。困惑する周囲を他所に、俺は頭を深く下げた。
「那古野城の主将は、秀貞。お前に任せる」
「は? はは! お任せあれ。必ずや、この那古野城を守り通してみせます!」
「他に必要な将はおるか?」
「……では、左近を鉄砲衆ごとお貸しください。それと、ここにいませんが半羽介も残していただきたい。奴は守りの戦に長けておりますので」
意見を聞かれたことに林秀貞は一瞬戸惑うが、すぐに名前を挙げた。二人共信頼できる熟練した戦巧者だ。
「わかった、半羽介には急ぎ那古野に来させる。それと左近、此度は秀貞の指揮に従え。」
「かしこまりました。我が鉄砲で、奴らを返り討ちにしてやりましょう」
「それと長三郎」
「はっ!」
「お前の策だ。熱田に付き従うことは許さん。ここで戦い、武篇を示して証明してみせよ」
出過ぎた真似をした責任を取れということだ。それもそうか。籠城という分の悪い戦いを他人に強いさせるだけでは、信頼を得られない。
俺は額を板床に擦り付けるくらい頭を下げる。
「承知仕りました! この道祖長三郎、殿のご期待に報いて見せます」
信長様の顔は窺い知れない。けれど、萱津での戦いのように不安視されていないはずだ。
俺は頭を上げると、信長様がわずかにうなずいてみせる。話があるのだろう。俺は目を伏せて見せ、そして元の場所に戻った。
林秀貞が周囲を見渡し、もう意見がないことを確認して口を開く。
「では、これで評定を終える。殿、何かお言葉を」
「皆の者! ここで大和守家を滅ぼし、弾正忠家の威を示すのだ!!」
信長様が立ち上がり拳を振り上げる。俺たちも立ち上がって鬨の声を上げた。
その後、俺は密かに、落城の際には帰蝶様を逃がすように命じられる。最初から逃がすべきではないかと思ったが、主家の家族がいることは兵たちの士気の維持にも繋がるから、それもできないようだ。
そして、信長様は旗頭となる岩竜丸や家臣たちを引き連れて、夜陰に乗じて熱田へ移っていった。
熱田に移って五日後、信長様は熱田に弾正忠家の総力を結集させて、那古野城を取り囲む坂井大膳の軍勢を蹴散らす。坂井大膳は取り逃がしたものの、陰謀に加担した大和守家の家老たちは尽く討ち取った。
その勢いをそのままに、岩竜丸を大将にして清州城を攻略する。織田信友は完全に油断しきっており、抵抗もままならず切腹して果ててしまう。
あっけない幕切れであったが、これで弾正忠家は尾張の下四郡を勢力下に収めることになる。尾張国の半分を制したのだ。
後世の織田信長からしたら微々たる領土にすぎない。けれども、飛躍する一歩を踏み出した。
道祖長三郎がいつから織田信長に献策を行っていたのかというのは、諸説ある。その中で有力視されている一つが、この清須攻略だ。
『道祖実記』には兵五千で迫りくる織田信友を、横からの奇襲攻撃を提案している。そして、自ら道案内を買ってでて、見事織田信友の側面に誘導したと書かれている。しかし、『信長録』には近習の進言で那古野に籠城したとあり、戦いの様相はまったく違っているのだ。
真相はどうあれ、道祖長通が何らかの手柄を挙げたことは確かなことだと考えられている。それは、天文二十三年五月付で道祖長三郎宛に知行宛行状が発給されていることによった。




