村木砦 壱
天文二十三年(一五五四)一月、沈黙を保っていた今川がついに動き出した。正月の油断を突くようにして岡崎城に詰めていた駿河の軍勢を北上させ、重原城を攻め落としたのだ。
重原城は、織田信長に味方する知多郡の水野藤四郎信元の居城である緒川城から東にある。そして、水野氏の拠点の一つ刈谷城には重原城が、そして緒川城にはすぐ北の村木に砦を築いて、今川による攻略が始まった。
那古屋城は水野信元からの急使に、蜂の巣を叩いたような騒ぎとなっている。主な家臣たちに参集が命じられ、各地から続々とやって来ていた。
そして、同僚たちが準備に駆け回る中、俺は信長様に呼び出されていた。
「今川が動いたぞ」
「はい。今川は水野様の緒川城を時間をかけて弱らせるつもりです。時間をおけば、大軍をもってとどめを刺しに来ます」
安祥城での戦いと同じだ。安祥城が岡崎城との戦いに疲弊し、油断したところで一気に攻め上がってきた。しかも、今回は状況が安祥城よりも悪い。何せ味方である那古野城との間に、裏切った鳴海城があるのだ。援軍を派遣しようにも、鳴海城の東にある沓掛城などへ山間の遠回りを強いられることになる。
当然、沓掛城は鳴海城主の山口左馬助教継から今川につくように勧誘されているはずだ。緒川城への援軍が通れない可能性がある。もしかしたら村木に築かれている砦に攻めかかったら、後ろから襲って来るかもしれない。
「まさか、こうもあっさりと侵攻を許すとは思いませんでした。水野様の油断か、今川が上手なのか」
「どちらにしても、藤四郎を後詰してやらねばならん」
「そう仰せられても、非常に難しいと言わざるを得ません。鳴海城がある限り……」
村木に砦が作られる前、いや重原城が攻めかかられた段階で救援要請されていたら別の戦い方があった。そうすれば、動きが封じられる前に攻めることができたはずだ。
絵図を前にすると、道が閉ざされてしまっているのがよくわかる。
「ここは、無理にでも鳴海城を攻めるしかないでしょう。以前のように山口親子を鳴海城に押し込め、陣城を構えます。陣城は鳴海城の南にある大高城に任せ、その上で水野様とともに村木の砦を落とすというのは如何でしょう?」
「それは奴らも予想しているだろうな。時間がかかれば、三河や駿府からさらに軍勢が送られてくる」
「連戦になる可能性はあります。しかし……それ以外に方法が……」
「いや……道はある」
信長様が地図の一点、熱田を指差した。
そして、熱田から指を動かしていく。陸地ではなく、海の上を滑らせていき、知多半島まで。
「まさか、熱田から海を渡ると?」
「これで今川には気づかれずに緒川城まで行ける。奇襲だ」
確かに海を渡れるのなら鳴海城の問題は考えなくても良い。あとは、素早く砦を落としてしまうだけだ。一見良い考えに思える。
しかし、これには問題があった。
「いくら奇襲となっても、海を渡れる人数は多くありません。うまくいかなければ、砦が落とせないばかりか、少数で敵中に孤立することになります」
「お前が言う鳴海城回りでも同じことだ。賭けに変わりはない」
「それは……そうですが……。いえ、やはり海を渡るのは危険が大きすぎます」
退路があるのなら反対はしない。しかし、これはもしもの時の退路が不安定すぎる。
俺の反対を受けて、信長様が面白くないという顔をする。
「わしが決めたことだ。お前は従っていれば良い」
「危険すぎます。せめてお集まりになる方々と相談してお決め下さい!」
「いらん。それとも、また賽を振るか?」
「それは……」
俺の中で、平手政秀の賭け事は身を滅ぼすという言葉が思い出される。このまま重要なことを、賭け事で決めていて良いのだろうか。
旧臣たちも、大人しくしているがいつまでも黙っている保証はない。林秀貞が味方であるうちに、どうにかしておきたかった。
「なんだ、賽を振らんのか? だったら黙っていよ」
「かしこまり、ました」
勝負しようと取り出した賽子を弄んでいる信長様。怒ってはおらず、どこか拍子抜けした顔だ。
俺は、どうしようか考えながら、そっと信長様の前から退いた。
「緒川城の水野藤四郎から、村木に築かれた砦へ後巻として出陣するように要請がきた」
広間に重臣たちが集められた。俺は前田孫四郎利家らとともにいつでも動けるように広間の外に控えている。
一族としては、筆頭に叔父の織田孫三郎信光。そして兄弟である織田勘十郎信勝、織田三郎五郎信広、織田喜蔵秀俊の三人。信勝は、信光に強制的に連れてこられていた。
以前見かけたのは、織田信秀の葬儀以来だ。生真面目そうな顔をしていて、じっと目を閉じている。
そして、家臣たちも主な重臣が揃っている。筆頭家老である林秀貞、佐久間半羽介信盛、柴田権六勝家、佐久間大学助盛重。そして、村井吉兵衛貞勝に丹羽五郎左衛門尉長秀が続く。
「ただちに兵を整えよ。緒川城を救援するぞ」
「兄上、お待ち下さい。どのようにして緒川城を助けると? 鳴海城は未だ敵の手にあり、周囲も危険な状態です。ここは、静観したほうが良いと思います」
信勝が異議を唱える。しかし、賛同するものはいない。それに信勝は戸惑った様子を見せた。
まあ、当然だろう。ここで緒川城を見捨てては、形成は一気に今川側へと傾く。そうすれば、待っているのは城主や土豪たちが今川についてしまう。
「黙っておれ、勘十郎。緒川城を助けねばならんのだ」
長老信光の叱責に、信勝が顔をうつむかせた。膝の上でこぶしを握りしめている。
「絵図を出せ」
俺と利家が走っていき、広間の中央に絵図を広げる。
「総力を集めて鳴海城を抜くしかないでしょうな」
「いや、砦を構え待ち受けていよう。時間がかかる。どうせ時間がかかるなら、沓掛城を経由して損害を少なくすべきだ」
「いっそのこと鳴海城を攻め落とすのはどうだ? そうすれば、後顧の憂いなく緒川城に行ける。その間くらい、持ちこたえられよう」
「鳴海を攻め落とす時間はあるまい。我らが動いたとなれば、今川が大軍で動き出すぞ」
みなが口々に意見を述べる。そこに、信長様が口を開いた。
「鳴海にも、沓掛にも行かん」
「では殿、如何されるのでしょうか?」
「長三郎、示せ」
そこを反対した俺にやらせるのか。
嫌な顔をしそうになるのをなんとか堪える。俺は絵図の前に跪き、熱田を指差す。
「熱田より舟を使います。これで、今川に悟られることなく緒川城に行くことができます」
「舟とは……少数しか渡れませんな。危険ではないでしょうか?」
「賛成できません。やはり、鳴海を……」
「もう良い。熱田から舟を使うのは決まっていることだ。問答は許さん」
さすがに一族重臣たちが戸惑っている。落ち着いているのは、村井貞勝や丹羽長秀といった面子だけだ。
こういう風に蔑ろにしているから、反発を受けるのだろう。
そこに、信光が立ち上がって絵図の前に来る。俺は慌てて、信光に場所を譲った。
「殿、舟を使うだけでは足りません。助攻として鳴海城は攻めておくべきです」
「……であるか」
「まず、鳴海城方面へ攻め入ります。これには――」
「三郎五郎、鳴海攻めの大将となれ。大学と権六をつける」
「承知しました。お任せ下さい」
信広、佐久間盛重、柴田勝家が頭を下げる。
そして信長様は信勝にも顔を向けた。
「勘十郎も初陣がまだであろう。これを機会に出陣せよ」
「私が……ですか?」
「そうだ。権六、勘十郎の側について守役として務めを果たせ」
「かしこまりました。勘十郎様に見事な初陣を飾ってご覧に入れます」
自分が出陣するとは思っていなかった信勝が、戸惑いを見せている。
「孫三郎と秀貞、半羽介はわしとともに緒川城に行くぞ。吉兵衛は早急に熱田に舟を集めさせろ」
「すぐに熱田へ向かいます」
「喜蔵は那古野に詰めよ。留守を守ってもらう」
「かしこまりました。しかし……こうも手薄になっては清須の動きが心配ではありませんか?」
清州城の大和守家とは和睦が済んでいるが、油断できる相手ではない。留守を狙う可能性は十分にある。
「ここは秀貞か半羽介に、喜蔵とともに残ってもらうのは?」
「その必要はない。……岳父殿に援軍を願う。みなはその間に準備をすすめるように」
美濃の斎藤山城守利政に援軍を頼む。これまでなかったほどのざわめきが起こった。
「お待ち下さい! それはいくらなんでも」
「下がれ孫三郎。鳴海城に攻め入るよう言ったのはそなただ。兵が足らないのであれば、借りるしかあるまい」
信長様が立ち上がる。有無を言わさない態度に、もう押し黙るしかなかった。
去年の会談によって、斎藤利政とは誼を通じている。信長様としては信頼関係が構築できているのだろう。それは、正室である帰蝶様の存在が大きいのかもしれない。
だが、家臣たちにとっては違う。信長様と帰蝶様との結婚は、あくまで和睦したという意識しかないし、正式な同盟関係は去年からだ。
信長様としては、使えるものは何でも使うつもりだ。兵を集めている間に美濃へ使いを出し、援軍が到着するまでに信広を先に出陣させる。
鳴海に敵の目を引き付けたところで、熱田から舟に乗って緒川城を目指す。
あとは援軍である斎藤勢を信用できるかだ。
「よいな。出陣の準備を始めよ」
信長様の最終的な命令に、広間にいる全員が平伏した。信長様が広間から出ていくのに、前田利家たちが続く。
そうしてから、三々五々と出陣の相談をしながら信光たちが出ていった。
広間には、俺と林秀貞だけが残される。
「申し訳ありません。説得できませんでした」
「うむ……まだ孫三郎様のご意見を受け入れるだけ良かったと思うしかあるまい」
「これまでよりもずっと頑なになっているご様子です」
沈鬱な表情を浮かべる林秀貞。俺もうなだれるしかない。
「何か方法を考えなければならん。儂も考えるが、長三郎も頼んだぞ。まずは、我らも出陣の用意をしようではないか」
「承知しました」
信長様が自分の考えを翻させるのは容易ではない。今までは賽子勝負に委ねて、なんとか勝利してきた。
しかし、それも変えていくにも、なにも方法が思い浮かんでこなかった。




