戦の前 弐
天文二十一年八月十五日、守護代の織田大和守信友による攻撃で松葉城と深田城が陥落した。それも、深田城の城主であり弾正忠家の織田右衛門尉信次が囚われの身になってしまう。
信長様は知らせを受けると弾正忠家の長として、近隣の一族と家臣たちに参集を命じた。そして、翌払暁に出陣し、集結地として指定した庄内川に到着する。
「手勢、思ったよりも多く集まりましたね」
「吉兵衛と所之助が調練のために手配していたからな」
俺には知らされていなかったけれど、いつもの模擬戦と称して人数を集めていたのか。
「今のままでは動きが遅い。いずれは招集する手間を無くさなければならん」
「彼らを那古野に集めるとなれば、食わせるのに銭がかかってしまいます……」
尾張が豊かとは言え、まだ全てを手中にしているわけではない。織田信秀の遺領を受け継いだ信長様の直轄地からの収入も、まだもう少し先の話だ。だがその収入があったとしても、恒常的に那古野勢を食わせていくには厳しいものがあるだろう。
何か儲けになる物があればいいのだけど、すぐに稼げる方法なんて思いつかない。千歯扱きだって脱穀の手間が楽になるだけで、収穫が増えるわけではない。空いた人手で他のことをやらせる必要があるし、それを税収に繋げるのも一苦労だろう。
江戸時代にあった商品作物を作らせるにしても、この時代に需要や購買力があるのか未知数だ。作って売れなければ下手したら餓死させることにもなる。
父が死ぬ前に考えていた、米の収穫をあげる方法を色々と試していくしかなさそうだ。それをやるにしても今のままではできるはずがないし、何年何十年も時間がかかるだろう。
八方塞がりでは、もう戦に勝って領地を増やしていくほうが早いと思ってしまう。
「この戦で清須を屈服させ、もう挑んでこれないようにやつらの領地を闕所にしてやる」
「ご一族が集まれば、それも叶います」
どうやら信長様も、戦に勝つことで税収やらの問題を解決させることにしたようだ。
そこに前田犬千代が駆け込んでくる。
「殿! 守山からお味方が到着しました!」
「来たか!」
信長様が床几から立ち上がり、足早に陣幕から出ていってしまう。
やっぱり来るかどうか心配だったんだろう。
こんなこと口に出したら絶対怒られるから言わない。俺は犬千代と競うようにして信長様の後に続いた。
外に出ると、ちょうど壮年の男がやって来るところだった。
「孫三郎、よくぞ来てくれた」
「一族の危機です。必要ないでしょうが、儂の方からも他の者共に早馬を出しておきました」
信長様が相手の肩を叩いて、労をねぎらう。そこまで歓待するなんて初めて見た。
俺がちらりと犬千代を見ると、そっとささやいてくれる。
「守山城主の孫三郎信光様だ。ご先代の直弟で、いまや弾正忠家のご意見番となっておられるらしい」
名前だけは聞いていた。
信長様の那古野城と、今や政敵となりつつある織田勘十郎信勝の末盛城の両城に睨みをきかせている。それぞれの領地の境目相論などで両者が争うのを防いでいた。
「右衛門は清須に囚われているのでしょうか?」
「まだ深田から動いていない。清須に連れられる前に助け出す」
「ではまずは深田を取り戻すことからですな」
信長様自らの案内で陣幕に戻ってくる。俺と犬千代は慌てて道を開けた。
信光に続いて、織田三郎五郎信広、織田喜蔵秀俊の異母兄弟たちもやって来た。それからは続々と弾正忠家縁の者たちが駆けつけてくる。急な動員のために連れてくる兵こそ少ないけれど、弾正忠家家臣たちや土豪たちがやって来ているのだ。
信長様は上機嫌で彼らを迎えていた。しかし、次第に機嫌が悪くなっていく。待てども、なかなかやって来ない者たちがいるからだ。鷹揚に構えていた親族たちも苛立ちを隠せなくなっていった。
日がすっかり昇った頃にようやくやって来たのは、織田信勝の家老、柴田権六勝家だった。すでに参集している者たちの視線に晒されて、剛毅で名を馳せた柴田勝家も見るからに居心地が悪そうであった。
「権六、勘十郎はどうした? わしはあやつにも出陣を命じたはずだ。それに、ここに来るのも遅かった。叔父が囚われているというのに、勘十郎は随分とのんびりしたものだな」
「はっ……それが、勘十郎様は……病のために参陣できません。ご一族のために出陣なさろうとされたのですが……。なにぶん、桃巌様が病にてお亡くなりになったばかり。大事をとって、名代を仕りました。遅参はそれ故でございます」
聞くのも苦しい言い訳であった。信勝が病なんて話はまったく聞いていない。それは信長様も、信光たちも同様のはずだ。特に信光なんて青筋を立てている。信勝は信長様だけでなく、叔父である信光の言葉にも耳を貸さなかったのだ。一族の長老として、面目を潰されたに等しい。
「もう良い。まだ来ていない者たちがおるが、これ以上は待てぬわ。陣立てを決める」
信長様が参集した者たちを見渡す。とりあえずは弾正忠家の一族は揃ったのだ。問題なのはまだ来ていない家臣たちがいること。それが、よりにもよって信長様直属の家臣たちだ。内心で怒り狂っているはずだが、ここで怒りを発露せずに溜め込んでいる。
戦が終わった後に、何があるか考えるのも怖かった。
「物見によれば清須から坂井大膳を大将にしてこちらに向かってきている。遅参のために先手を取られてしまった。軍勢を三つに分ける」
遅参の一言で、柴田勝家に視線が集まる。信勝の名代のため、席次としては弾正忠家の面々のすぐ後にいるためによけいに目立っていた。
「味方を分けるは危険ではありませんか? ここはまず清須の敵勢に当たられた方が……」
「いや、右衛門ら人質を救出しなければならん。清須に移されては手が出せんからな」
信広が軍勢の集中を主張するも、信光が信長様を支持する。
「孫三郎の言うとおりだ。従え、三郎五郎」
「承知しました」
信光からも言われたためか、あっさり信広は引き下がった。
「松葉城は喜蔵、深田城は三郎五郎に任せる。佐久間の者共を分けて連れて行け」
「お任せあれ」
「必ずや右衛門殿を助けてみせましょう」
異母兄弟の二人にそれぞれ一手を任せ、大身である佐久間氏をそれぞれ率いさせる。重要な役どころに二人はそれぞれ意気込みを見せた。
「残りはわしとともに清須に向かい、坂井大膳を打ち破って大和に報いをくれてやるぞ!」
信長様の檄に、皆が鬨の声を上げる。俺も犬千代と一緒になって拳を振り上げた。
信長様が率いる弾正忠家の連合軍は、大和守方の到着前に庄内川を渡河した。
那古野勢は信光軍と一体となって進軍し、少し遅れて柴田勝家の率いる信勝軍が続く。勝家は先陣を希望したが、遅参した身なのであっさりと却下された。屈辱で身を震わせながら頭を下げていた。
そして、渡河からまもなく大和守軍と対峙する。
今回信長様は僅かな手勢のみで後方に下がることになっていた。先陣は織田信光と丹羽五郎左衛門尉長秀が務め、次に信勝軍、一番後方に信長様という全体で▽の形に配置されている。
「犬千代は初陣であったな」
「はっ! おっしゃる通りです。鳴海の戦では荒子に戻っていたため、お供できませんでした」
しっかり槍を持つ犬千代を、信長様が馬上から見下ろす。そして、おもむろに口を開いた。
「五郎左のところへ行くのを許す。手柄を立てて来い」
「し、しかし……それでは……」
信長様の許しを受けて、明らかに前へ行きたそうなのに小姓としての役割から悩む犬千代。そのうえ、ちらちらと俺を見てきても困る。
その視線に気がついた信長様が、俺にも顔を向けた。
「長三郎も戦は三度目だったか。……お前も前に出てみるか?」
「俺も……ですか?」
「そうだ。手柄をあげるつもりはあるのか?」
もう何年もそばにいるのだからわかる。信長様は必要があるとと思えば、躊躇なく命令をする。今回、聞かれているのは、信長様自身が悩んでるからだ。俺に手柄を上げさせたいが、まだ早いか無理だと考えているのだと思う。
犬千代を見ると、友達を遊びに誘いに来ている子供のような顔だ。
安祥城では死の不安に震えていたが、戦場での死を幾度も見てきて慣らされていた。しかし、前に出て戦うとなると、どうしても死んだ父のことが思い出される。
「行って来い長三郎。お前も殿の御側付きとしてそろそろ首級を上げてくるんだ」
池田勝三郎恒興まで俺の肩を叩いて、前に行くように勧めてきた。
「首級……」
「そうだ。姉にも何か買うてやれるんだぞ」
未だ残る死の恐怖と人を殺すことへの抵抗、そして姉を楽にしてやりたいという気持ち。
すべて混ぜ合わさって、考えがつかない。
そんな俺に、様子を見ていた信長様が声をかけてくる。
「名を成してやるのではなかったか?」
「それは……」
「父との約束を果たすのは長三郎次第だ。行くのか、行かんのか。早く決めよ」
安祥城で信長様に語った父との約束。偉そうに話しておきながら、置き去りになっていた父の言葉。
このまま信長様の近くで、下っ端でいいと思っていた。死ぬ可能性が低く、姉ともいられる現状のままで。
しかし、父は名を成そうと言っていた。それをもう、無視することは出来ない。
「行きます。手柄を……上げてやります!」
「よく言ったぞ長三郎! さっそく行くぞ! では殿、せっかくお与えくださった機会、必ずや首級をあげてみせます」
犬千代が気炎を上げ、飛び出すように走っていく。俺も一礼して、犬千代に続いた。
もう敵のすぐ近くにまで来ている。俺たちは急いで前方の味方に合流した。