国持ち
天文二十一年三月三日、長く病に悩まされ、数々の祈祷や治療の甲斐もなく、織田備後入道信秀が遷化した。
葬儀は信秀が建立していた万松寺で行われる。この万松寺の東堂を桃巌と名付けて銭の施しをし、尾張中の僧侶や各地を参学する僧たちが三百人も集まって弔いがされようとしていた。
準備が整い、もうまさに葬儀が行われようとしているのに、信長様はなかなか万松寺に向かおうとしない。既に家老の林秀貞と平手政秀は、万松寺で待機しているはずだ。
「万松寺に行かなければ、ご葬儀に遅れてしまいますよ」
俺が声をかけても、信長様は矢を弓につがえて狙いを定めている。的に集中しているが、視線を送ってきたので聞こえてはいるようだ。
「お行きにならないのですか?」
今度は視線も送ってこずに、矢を射る。矢の行方をみると、見事に命中していた。これで満足だろうと思って視線を戻すと、信長様は新たな矢をつがえている。
「信長様、お父上のご葬儀なんですよ」
音が鳴るほどに弓が引き絞られる。そして、時をおかずに矢が放たれた。今度はどこに命中したのかを追わない。
「どうなさるおつもりなんですか?」
また質問に答えず、信長様は矢をつがえた。
俺は信長様に聞こえるように、盛大に溜息をこぼす。もしこのまま葬儀に行かなければ、俺まで家老たちに怒られる。兄貴分として定着した池田勝三郎恒興にもなじられてしまうだろう。
せめて行く行かないかをはっきりしてくれたら覚悟も決まるというのに、それをしてくれない。そして、安祥城での合戦のように、わかりやすく態度で示してもいないとあってはお手上げだった。
「信長様、聞いていらっしゃるんでしょ? 信長様!」
「長三郎」
特に大きな声ではないのに、怒鳴られたときのように体が硬直してしまう。信長様が弓を下ろし、顔をこっちに向ける。
「騒々しいぞ」
ただ一言。
それだけで、再び弓を引き絞る。
「親父が死んだ。これからどうなる?」
自問自答ではなく、俺に下問しているのだとわかった。どうなると聞かれても、急には考えられない。だから、近くに落ちてる棒を拾い、円を尾張に見立てた簡単な地図を描く。おそらく一番の関心は今川がどう動くのかということだ。
桶狭間の合戦までまだ時間はあるはずだ。わからないことが多すぎるが、考えるしかない。
「……まず、公方様による今川との和睦は整うことなく消えるでしょう」
織田信秀は提案にのるしかなかったが、今川義元はそうではない。大っぴらに将軍からの提案を蹴ることも出来ず、対応に苦慮していたはずだ。これ幸いとなかったことにされてしまうだろう。
「今川の攻め方は非常に単純です」
「ほう、どうやるのだ?」
関心があるというのに、こちらに顔を向けない。俺はかまわずに説明を続ける。
「侵攻の拠点を確保してから、大軍をもって攻め上がる」
円の右斜め下に三つほど印をつけ、そこに同じ方向から矢印を書く。
大軍で攻め上がって陣地を確保するのではない。事前に調略を仕掛け、寝返らせておく。それでもって攻め込んで、周囲を今川に染め上げる。それの繰り返しだ。じわじわと締め上げてくる。
「すでに尾三の国境周辺は今川の手が伸びているはずです。時が来れば、攻めてくるでしょう。幾つかの城を落とし、引き上げていく。その上でまた新たな拠点を確保していきます」
矢印を円に食い込ませ、その分だけ円を小さくさせる。そして、新たに印を付け加える。
「では一気に攻めてこないというのだな?」
「はい。駿府からでは、尾張は遠すぎるのです。また、これ以上手を伸ばすには、背後を固めてからでないと無理です」
有名な今川・武田・北条の三国同盟。これが成立しない限り、今川は大手を振って尾張に出陣できない。そして、駿河・遠江・三河の三国を横断してくるには、万全を期してくるはずだ。
「それに対するにはどうすればよいか?」
さすがにそこまでは考えつかない。
俺は黙って頭を振る。すると、ちょうど矢を打ち尽くして信長様が手を伸ばしてくるので、急いで代わりの箙を持っていく。
「考えろ。今川は賽を振っても帰ってはくれんぞ」
簡単に言ってくれるよ。
俺は心の中で毒づくが、黙ってうなずく。そして、もう一度尾張の円を描く。
「武田か北条が今川に攻め込まない限り、際限なく侵攻は続きます。こちらは疲弊し、いつかは力尽きてしまう」
「使者を遣わすなら武田だな。まだ近い」
武田は動いてくれないだろう。しかし、今後を見据えて接触しておくのは良いことだ。
「交流はもっておくべきです。成功するかはともかく、やって損はありません。武田が動かない場合は……」
信長様とともに兵法を学び、鷹狩りをすぐ間近で見ていても思い浮かぶものではない。
「守れないのであれば、攻めるしかない」
信長様が棒を取り上げて、中心から外周へ矢印を伸ばす。
「鼠が倉に入るのは止められん。だから、増える前に潰してしまう」
「……鼠を減らしても、大風がやってくることに変わりありません。残念ながら、城は大風に吹かれては崩れます。柱を太くする必要があります」
「では、尾張の話だ」
俺は信長様の矢印を消し、簡単な家の図を描いて中に那古野の那の字を書く。続いてその右に末盛、上に清須、さらにその上に岩倉と描く。
「主導権争いが起きます。押さえつけられていた守護代家はもちろん……弾正忠家でも争いが……」
「勘十郎だな」
織田信長の直弟、織田勘十郎信勝。織田信行の名で知られ、兄である信長様に暗殺されてしまう。
「はい。後継者を明確に定めぬままに亡くなられたため、収まりつかぬ者に担ぎ上げられることでしょう」
信長様が最有力候補ではあるけれど、正式に家督を譲られたわけではない。
「いつもそうだ。親父のつけがわしに回ってくる」
信長様が不機嫌な声を漏らす。
これでようやく、葬儀に行かないわけがわかった。帰蝶様との結婚のときと同じだ。父親の負債を自分が払わなければならないことに怒りを覚えている。
苦境に陥る前の政略結婚なら、信長様はすんなり受け入れただろう。家督を正式に譲られた上で、それでも抵抗されるのなら納得もした。反抗期だと思っていたが、もっと複雑な父に対しての感情だ。
「長三郎。お前は、父と約束したと言っていたな。それが叶えられないとわかった時、どう思ったのだ?」
俺はどう思った? そんなの、ただ悲しかったとしか――。いや、違う、怒ったのだ。どうして約束を守ってくれない、せっかく何をしようか考えて楽しみにしていたのにと。姉が見ていないところで、父のために作っていた草履を地面に叩きつけた。それから、悲しさが襲ってきた。
俺は、目をつむって空を仰ぐ。
「…………怒りを…………父のために作った草履を投げて……それから、悲しみが」
「投げたか。ならば、わしもそうするとしよう」
「信長様?」
不穏なものを感じて問いかけるが、信長様は絵図をじっと見ていた。
「尾張を手に入れなくてはならん。それも、親父より強固にだ。そのためには面従腹背の輩を、打倒する必要がある」
「いっそサイコロで決めますか? そうすれば血が流れずに済む」
冗談のつもりで言うと、ぐっと信長様が顔を近づけてきた。一瞬怒られると思ったけれど、真顔なので息を呑む。
「お前が賽子を振るというのか」
「お、お望みとあれば」
「賽子を出せ」
いつも通りサイコロを取り出す。すると、信長様も手に賽子を持っていた。
「そ、その賽子は?」
「熱田にて祈祷された木から作った」
「まさかご自分で作ったのですか!」
自慢げに笑みを浮かべているということは、本当に自分で作ったのだ。一つしかないということは、おそらく作るのに失敗してしまったのだろう。
「わしのは一つだけ。出た目の多寡で勝負だ」
「では椀はいりませんね」
俺はサイコロを二つ仕舞って、一つだけを手に持つ。
信長様と向かい合い、同時に真上に投げる。
二つともほぼ同じ高さまで上がり、ぶつかることなく真っ直ぐ落ちてきた。そして、地面に落ち、転がっていく。
俺は転がって行ったサイコロを取らずに見下ろす。
「出目は……三になります」
少し離れて立っている信長様が手招きする。俺はサイコロを拾ってから、信長様のもとまで行く。
見下ろすと、信長様の賽子は立っていた。小石に当たり、絶妙の傾き具合だ。しかも、四・五・六が見えている。
「どう読み解く」
「……物事は決まっていない、ということでしょうか?」
「そんなことは当たり前だ。これは、どの目だ」
「どの目であっても信長様の勝ちです」
信長様が賽子を拾い上げる。
「ようやく勝ったか」
感慨深げにつぶやく信長様に、思わず吹き出してしまう。
まさか、これまでそんなことを気にしているなんて思っても見なかった。
信長様が睨んでくるので、慌てて口を塞ぐ。
「この勝負は貸しにしておいてやる。いずれ、何かで払ってもらうからな」
「そんな! 事前に決めていないのはずるいですよ」
「負けたやつがうるさいぞ。次からは気をつけることだ」
信長様が歩き出す。俺は、結局射ることのなかった弓と矢を持って後に続いた。
「親父の葬儀に出る。これからさらに忙しくなるぞ」
「では、急いで着替えを」
「時が惜しい。このままだ」
「ちょっと、俺が怒られてしまいますよ!」
織田三郎信長様は、林・平手の家老たちをお供に万松寺にやってまいりました。長柄の大刀と脇差しをお持ちで、御髪はいつものように茶筅に巻立てられています。そして、袴もお召にならず仏前へお出でになったと思ったら、抹香をくわっとお掴みあって仏前へ投げ掛けられたのです。集まりし人々が唖然とする中、そのままお帰りになられてしまいました。
御舎弟の勘十郎信勝様は、折り目高い肩衣と袴をお召になって、作法もしっかりされていたというのに、呆れ返るほかに術がありませんでした。誰もが大うつけと噂をしております。
されど、筑紫からの旅僧の一人が言った言葉が印象的でございました。曰く、あれこそ国を持つ人よ、と。