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信長の軍師 賽の目は天下不如意なり  作者: 無位無冠
第三章 桶狭間の坂道
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決戦前

 那古野城内を重苦しい空気が支配している。

 沓掛城の離反に続き、水野氏が抑えていた大高城まで今川方へと降ったことで、尾張と三河の国境は大きく動揺した。いつ、土豪たちの離反の知らせが飛び込んできてもおかしくはない。


 それがわかっているから、評定に集められた面々は一言も発することなく、沈痛な表情を浮かべていた。


佐渡(林秀貞)


 静まり返った広間に、信長様の高い声が響く。


 信長様に呼ばれて、すっと背筋を伸ばす林秀貞。


「米はどうなっておる?」


「収穫が終わって間もないので、まだ勘定がおわっておりませぬ。されど、例年よりもいささか穫れておらぬようで……」


 林秀貞が弱りきった声で答えると、信長様は村井吉兵衛貞勝に顔を向ける。


 村井貞勝は、信長様の視線を受けないようにすっと頭を下げて口を開く。


「林様の仰るとおりです。また、米の値段が少しずつ上がっておることから、各地で炎旱(えんかん)のために米に被害が出ているものと……」


 報告を聞いた信長様は、皆を見渡すように首を巡らす。俺と視線が合ったとき、わずかにうなずいたように見えた。


「鳴海に向けて出陣する」


 俺の周囲、馬廻衆から雄叫びが上がる。尾張統一から二年余、手柄を上げる機会が久しぶりに巡ってきたのだ。

 家老衆の中でも、丹羽五郎左衛門尉長秀、柴田権六勝家、佐久間大学盛重、佐久間半羽介信盛が馬廻衆に呼応するように拳を固めている。


 状況をひっくり返すためには、それしかないからだ。


「手は岩倉と同じだ。囲って、鳴海城を干し上げるぞ」


 信長様の言に、佐久間信盛が立ち上がる。


「守りの戦なれば、拙者の出番ですな。この半羽介、お下知あり次第、いつでも出陣できるように準備しておりました」


「よかろう。だが、まずは鳴海を強襲するのが肝要だ。半羽介の出番はその次よ」


「では、某が先方を……」


 佐久間盛重、柴田勝家の声が重なった。にらみ合い、一歩も引かぬ様子を見せる二人。


「下がれ、二人共。速さが第一。ここはわしが馬廻を直率してっ」


「お待ちを」


 しわがれた声が、信長様の声を遮る。


「殿は那古野に居られるべきかと。馬廻衆をお借りして、この儂が出ましょうぞ」


 一門衆筆頭の場に座る声の主、織田玄蕃允(げんばのじょう)秀敏(ひでとし)は、刀を支えにして立ち上がり、信長様の前へと歩みだす。ひどくゆっくりした足取りに、転ばないかと心配になってしまう。信長様すら、少し腰を浮かせかけてしまっていた。


「大叔父上。ご無理をなさらず……ここは那古野の留守居を……」


「いや、儂でなくてはいかんのだ……三郎よ、主はまだ那古野に居らねばならん」


 上総介を名乗る信長様を三郎と呼ぶ織田秀敏。信長様の祖父、織田信貞の弟で、織田一族の重鎮中の重鎮だ。重鎮過ぎて、もはや評定に来ることすらありえない老齢の人物である。かつて、信長様が織田家の当主となったころは、亡き織田孫三郎信光とともに信長様を支えていた人物だ。

 そんな織田秀敏がいる理由は、織田家の内紛によって一門衆の数が減ったことと、なにより本来筆頭の立場にある織田三郎五郎信広が美濃への対応のために、今度は岩倉城に入っているためだった。


「国境の戦い、岩倉での囲みと同じと思ってはならん。必ず、敵にも味方にも蠢動する輩が出る。それを抑えるには、やはり当主しかおらん」


 織田秀敏が、信長様の前に腰を下ろして胡座をかく。


「三郎が出れば、那古野で三河・美濃・伊勢に対応するのは儂の役目となろう。だが、もはやそれは務まるまい。そなたの代わりができるのは今や三郎五郎のみ。だが、動けるものが少ない今の織田家に三郎五郎は美濃から外せまい」


 確かに、この老人に巨大化した那古野を治めて、美濃を警戒しつつ前線に人と金を送り出すことが出来るのかと思うと不安になる。もちろん、実務をこなすのは林秀貞や村井貞勝だろうが、織田秀敏を飛び越えて判断することは織田家の威信に関わることになる。それに、いくら織田秀敏が構わなくても、織田家そのものへの中傷となりかねないし、実務を取る二人にも良くない風当たりがあるだろう。


「これが最後の奉公だ。鳴海の囲み、総大将は儂に任せよ」


「大叔父上……」


 信長様が手で目元を覆う。頑固な老人に頭を悩ませているように見えるけれど、声が震えていたことから、涙をこらえているのだろう。

 小姓衆や馬廻衆も、織田家長老の覚悟に心打たれた者たちが顔を拭う。


 やがて顔を上げた信長様が、織田秀敏を見つめる。


「玄蕃よ、鳴海城攻めの大将は任せた」


「大任、仰せつかまった」


 織田秀敏が平伏すると、信長様はきっと鋭い眼光を家老衆へと向ける。


「五郎左!」


 丹羽長秀が弾かれたように膝を進める。


「はっ!」


「馬廻衆をまとめて鳴海城に攻め上がれ。水野家と合力(ごうりき)し、鳴海・大高の両城周辺の米はできるだけ奪え」


「かしこまりました!」


 丹羽長秀が深く頭を下げる。


「半羽介! 大学! 両名は大叔父上、玄蕃とともに出陣せよ」


「承知しました!」


「お任せを!」


 佐久間盛重・佐久間信盛の二人も丹羽長秀の横まで前に出て、頭を下げた。


 信長様は続いて、村井貞勝に視線をおくる。


「馬廻衆程度の戦ならば滞りなく。しかし、玄蕃様が率いる軍勢には些か時間を頂戴したく」


「どれほどだ?」


「那古野普請の遅れは許されますか?」


「許す」


「佐久間様たちの軍勢集結に間に合わせます」


「よし。委細は吉兵衛に任せた。権六はわしと留守居だ。今川の動き次第で、援軍として出す」


 柴田勝家は眉間にしわを寄せて不服そうにするが、黙って平伏した。


四左衛門((梁田政綱))には、これ以上の離反者を許すなと厳命しておけ」


 梁田政綱と塙九郎左衛門尉直政、彼らがどのようにして土豪たちを抑えているのか不明であるが、正直、この苦境を保ち続けていることには敬服するしかない。聞いてみたくはあるが、おそらく意地の悪い冷笑を向けられるだけだろう。


「ついに戦だな、長三郎」


「ああ……」


「なんだ? ここにきて怖気づいたのか?」


 挑発的な言葉を発する佐々成政。俺はちらりとだけ視線を向けると、まだ指示を出し続けている信長様に視線を戻した。


 怖いかと聞かれれば、怖いとしか言えない。ただでさえ、自分が存在することで、どんな歪みが出ているかわからないのだ。そのうえ、歴史を再現するために、異分子が介入を続けてしまっている現状で、本当に今川義元は桶狭間に来るのか。


 今更な恐怖ではある。しかし、どうしても頭によぎってしまう。


「もしもの時、お前の妻子は任せろ」


「なに?」


 内蔵助は何を勘違いしているんだ?


「だから、安心して震えて死んでしまえ」


「おい、内蔵助」


「怖じけている奴から死ぬぞ。そんな奴を、戦場で助ける余裕はない。だから、戦が終わった後に家族を助けてやる」


 どうやら、佐々成政なりに俺へ活を入れているようだ。今更、俺が戦を怖がっているなんて勘違いに思わず笑ってしまいそうになる。


「元気づけようなんて、似合わないことはやめろ。心配するな、内蔵助を上回る手柄を上げて、娘に会いに行く予定だ」


 佐々成政がなにか言いたそうな顔をするが、俺は黙って下知を飛ばす信長様を示して黙らせた。


 怖さは払拭されてはいない。しかし、悩んでいるのも馬鹿らしくなってしまう。


 信長様の命令を実行するため、各自が動き出す。俺は出陣の準備に動き出す皆を尻目に、その場に座り続ける。怪訝な目で見てきた佐々成政に、俺は握りこぶしを差し出す。


「勝負だ、内蔵助」


「負けんぞ。お前や藤吉郎((羽柴秀吉))、そして又左衛門((前田利家))にもな」


 佐々成政もこぶしを示し、俺のこぶしとぶつけ合う。そして、佐々成政はさっさと身を翻して、みなと一緒に走り去った。


 広間に残ったのは、信長様と俺だけになる。俺は立ち上がり、遠慮なく信長様の前まで歩いていく。そして、腰を下ろして平伏する。


「しばらく、お傍を離れます」


「よく言う。最近はいない時のほうが多いではないか」


「それも……そうですね。小姓衆にも知らない顔が増えていますし……」


「童子のように動き回る体。今川を退けたら、那古野に居て働け。こき使ってやる」


 信長様は言ったことは実行される方だ。休む暇もなく、俺は働かされるだろう。

 しかし、自分の顔には、自然と笑みが浮かんでいるのがわかる。


「承知しました。でも、城下の屋敷には帰らせてくださいよ」


「ああ、それは許してやろう」


 信長様も目元が笑っている。しかし、すぐに笑みを引っ込めて眼差しを鋭くさせた。


「此度の戦で、織田家の余力は尽きる」


 俺は黙ってうなずく。


 那古野普請だけでかなりの負担がかかっている。そのうえに二年続いての日照りだ。


「人足は安く雇えるでしょう。安堵状でもそれなりの銭は賄えるかと」


「問題は米だ。乱取りするにも、物がなければどうにもならん。買えば高くつくな」


「今川方の被害がどれほどかに依りましょうが、米が不足すれば今川とて戦に出なければなりません」


 足りなければどこかから補うしかない。今川義元は、領内の米不足を他国に攻め入って穴埋めするしかないのだ。他国に攻め入り、そこの米で軍勢を食わせれば、自領の米を消費することなく、余裕が生まれる。収穫の少ない地方の常套手段である。


「運は我らにあります」


「であるか」


 短く答えた信長様が立ち上がり、俺の前に立った。慌てて立ち上がろうとする俺を制し、肩に手をおいた。


「大叔父上を任せた。戦が終われば楽隠居ができるように、手を尽くしてくれ」


「かしこまりました」


 織田信光が影に日向に信長を支えていたのに比べ、織田秀敏は裏から信長様を支えていた。織田氏の中で目立つ働きではなかったかもしれないが、信長様はあの老人の支えに助けられたと感じている。


「頼んだぞ、長三郎」


 信長様の信頼に応えるため、俺は戦準備のために駆け出した。


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