うつけ
織田三郎信長様の十六・七・八までは、甚だ醜きお姿にございました。単衣の袖をお外しになり、半袴を履いていらっしゃる。腰には火打袋をはじめとした色々なものをぶら下げて、揺らし歩くはみっともなし。その御髪は紅の糸や萌黄色の糸で巻立てて、茶筅のようにされておりました。
町をお通りになる時は、人目をはばかることなく栗・柿・瓜に齧り付きなされ、また立ち歩きながら餅をお召しになる。そして、人に寄りかかり、また人の肩に吊り下がって御自身で歩くことがありません。真に醜きお姿にございます。
「長三郎! あなた、また材木を買ってきたのね!? あれだけもう買わないでって言ったのに!」
「ごめんなさい姉ちゃん! で、でもこれは買ったんじゃないよ。材木屋の主人がもう要らないって言うから――」
「長三郎!!」
安祥城での戦いから二年と少し、時は天文二十一年(一五五二)になっている。
あれからも今川による侵攻は行われ、尾張と三河の国境にまで及んでいた。今川が尾張になだれ込んで来ないのは、公方足利義藤が御内書を発給して織田と今川の和平を呼びかけているからだ。そのために今川は弱った織田に対して積極的な攻勢がとれず、足踏み状態となる。それでも尾張国内には、今川へと走る者たちが増えてきていた。信長様の父である織田信秀も、病を押して対応にあたっている。そのため、政務を信長様や勘十郎信勝といった息子たちに任せていった。
信長様は、政務を執りつつ、日々の稽古を続けている。しかも、これまでの馬・水練・弓に加えて、橋本一巴という火縄銃の使い手を招いて鉄砲の稽古を始めた。そして平田三位という兵法者を側におくようになり、さらには兵法の一環として鷹狩りにも励むようになっている。
毎日を政務と稽古、そして模擬戦にと日々を費やしている。前と違うのは、信秀に代わって尾張国内に文書を発給し始めたことで、熱田や津島といった豊かな地域から資金が信長様に流れるようになった。信長様はそれで弓や鉄砲の数を増やし、長さを改良した槍を配下に配り始める。
毎日を時間に追われるようにする信長様は、着替えや仕度、食事の時間をすら惜しむようになっていった。そのため服装や行儀をかなぐり捨ててしまったのだ。そんな姿を、皆がうつけと呼んで馬鹿にしている。
そうした信長様の小間使いとして、俺は一緒にあちこちを走り回っている。一緒でないのは寝るときか政務の時間くらいだ。信長様が政務をしている時間は、帰蝶様に呼び出されて夫の行状報告、または平手政秀のじじいへの報告と嫌味を聞かされている。
報告がない時は休憩時間だ。その休憩時間を使って、俺はこつこつと千歯扱きの作成をしていた。
初代千歯扱きは、使ったらばらばらに壊れてしまった。思った以上に頑丈に作らないといけないらしく、材料費をけちったせいだ。
二代目は一から頑丈に作り直したけれど、失敗に終わった。歯の隙間が大きくてすり抜けてしまう。麦でも少し大きくて、頑丈に作ってしまったから歯を動かせられなくて失敗した。
姉には最初こそ応援されたが、二代目の失敗では千歯扱きに冷たい目を向けるようになる。姉弟の稼ぎからそれなりの額を使って、木材や竹を揃えたのだから当然だろう。帰蝶様に告げ口されて、報告の時にやんわりたしなめられたし、この人だけには言われたくないと思う信長様にも呆れられた。
もう千歯扱きのために材木を買わないと約束させられたので、二代目を少しずつ改善していたのだ。だが、素人仕事のためにどんどんおかしくなっていった。そんなときに、どうにかして手に入らないかと材木を見ていたら、端材をくれた。薪の足しにもなるだろうにと言うと、息子が信長様に槍をただで貸してもらえたからだという。どうやら、普段は材木屋を営みつつ、戦時には武士となるらしい。
とにかく、喜んで帰ると姉に見つかってしまった。
「いい? この……せんばこきって言うのはもう作らないで」
「これが出来たら、脱穀がすごく楽になるんだって! 姉ちゃんだって大変さは知ってるだろ? この千歯扱きなら、扱箸でやるよりも早く終わるんだ」
俺の必死の説得に、姉はため息をつく。
「そんなこといって、私たちには田んぼも畑もないのよ。一体どこで使うの? 脱穀させてくれと持っていって笑われるつもり?」
「いや……それは……」
正直そこまで考えていなかった。便利な物を、すごい物を作れば、勝手に広まっていくと思っていた。それこそ火縄銃みたいにだ。しかし、農業はある意味神事でもあるのだ。神事や行事などは、これまで通りのやり方を踏襲するのが一番だと考えられている。それを変更するのは、切羽詰まって変更せざるを得ない時か、強権的な力が使われるかだ。
初代と二代目のときは、金を払って少し稲を分けてもらって試した。しかし、普及させるにはこれを使って貰わなければならない。持っていっても姉の言う通り笑われるのが落ちだろう。
「今のあんたはそれを作るんじゃなくて、しっかり信長様に奉公することが大事よ。頑張っていれば、もしかしたら取り立てて貰えるかもしれない。そうすれば、領地だって夢ではないわ。それを作るのは、それからだって遅くはないの」
「……そうだね、姉ちゃん」
姉の言うことは最もだ。俺は後ろに避難させていた材木を姉の前に出す。うなだれる俺に、姉がため息をつく。
「もう。そんなに落ち込まないの。じゃあ、それを作るのだけは許してあげる。でも、次に作ったら本当に許さないからね」
「わかった、約束する」
姉は話は終わりと笑顔になる。そこに、城の下女が顔を見せる。
「長三郎いる?」
「いるよ。何?」
「やっぱりまた変なのを作ってる。お通も大変ね」
姉が苦笑いを浮かべる。今怒られたばかりの俺は、バツが悪くてそっぽを向いた。
「変なのじゃない。それで、何の用だよ?」
「ご家老の平手様がお呼びになっているわ。たぶん、早く行ったほうが良いと思う」
姉ちゃんに怒られるし、今度は平手のじじいか。今日は厄日に違いない。
俺は姉と下女に見送られ、嫌々ながら走って平手政秀のもとに向かった。
平手政秀は静かに俺が来るのを待っていた。驚いたのは、平手政秀だけではなく林秀貞という、二人の家老が揃っていることだ。
俺は板張りに正座し、平伏する。
「長三郎、参りました」
「……若殿がなんと言われているか、知っておろうな」
「はい。憚りながら……織田の大うつけ、またはうつけ者、と呼ばれております」
聞かなくても二人とも知っていることだ。
「ずっとそばにいるお前が、若殿をお止めしないのはどういうことだ」
「お止めしても聞きませぬ。林様も平手様もご存知でありましょう」
俺の抗弁に政秀は頭が痛そうにし、秀貞は髭を触って何かを考えている。
「殿は公方様の仲裁を受けて今川と和睦を進めていらっしゃる。それに対して、若殿が今川を煽っておられるのだ」
「お二人の仲が悪くなれば、家督争いにもなりかねない。事実、勘十郎様が台頭し始めている。なのに若殿はあんなお姿を衆目にさらしておられて……」
信長様のお姿にはちゃんと理由がある。人に寄りかかっているのは、疲れていらっしゃるからだ。休めばいいのに無理をして、ご自分を鍛えている。それも全ては今川の脅威に対抗するため。しかし、そうした行いが信長様の株を下げていた。
「ご病気の殿をお慰めするためにも、若殿には改めて頂かなくてはならんのだ。このまま弾正忠家が侮られては、家督争いに他家の介入も起こる。そうなってからでは遅い」
「……お二人とも、ちゃんとお話しになられたのでしょうか?」
黙っていられず、思わず口が出てしまった。頭を下げたので見えないが、差し出がましい俺を睨みつけていることだろう。
「ふん。無論、若殿とは話した。あのようなみっともないお姿はお止めするように何度もな。だが、いくら言ってもお聞きにならぬ」
おそらく二人は、ただみっともないから止めるように言っただけだ。それでは信長様がやめるわけがない。俺が今日姉に言われたように、今は何が必要なのか、何をすべきなのかをちゃんと説かなければならないのだ。
頭ごなしに説教して、余計に反発を招いてしまっている。
これが普通の武士ならまだ良かったが、上に立つことになる跡取りでは不安になるのもわかる。しかし、その跡取りを補佐する人たちが、この調子では主従間でも面倒になる。おそらく、うまく折り合うか、引きずり降ろされて表にでなかっただけで、織田信長のような人物は他にもいただろう。
「みっともないから止めろでは、お聞きになることはありません。信長様は、ご自身が必要と思われることをしておられます。その必要と思われている心をお変えにならない限り、どんなにお話になってもお聞きになられないでしょう……」
「我らは必要なことを申しておる。今必要なのは、ご嫡男としてふさわしく行動なされることだ」
「……今川に対抗するためには、こうするしかないとお考えなのです。末盛の殿がお考えの和睦が、何故必要なのか、それが信長様のお考えよりも優先されるべき理由を、お説き下さい」
俺が言いたいことは伝わっただろうか。伝わったとしても、おそらく二人には説き伏せることは無理だろう。今の若い信長様を説得するには、たぶん考え方が違いすぎる。
そこに、廊下をどすどすと踏み鳴らす音が近づいてくる。
「長三郎! どこにおる、行くぞ!」
信長様が政務を終えて、馬か鉄砲の稽古に行くつもりなのだろう。
俺は平伏したまま、もう一度深く頭を下げて、二人の前から退いた。
急いで信長様のもとに駆けつけ、城を後にする。夕刻になって城に戻ると、織田信秀の訃報が届けられていた。