初夜編 夢魅る少女じゃいられない06
どれだけの言葉を重ねようが、出口を遮るようにして立つ男には無意味である。彼女の言動は、全て虚勢。彼が手にしている松明は、彼女の上っ面をなでるようにチロチロと蠢いている。
「フフッ」
彼は、口元を歪める。それは、始めてみた男の笑顔だった。
男は、扉から離れると、壁に打ち付けられている薪に一本ずつに火を灯していく。一つ。一つ。と火が灯されると、部屋の中が落ち着いた光に包まれていく。彼は、ベルから視線を外し、背中まで見せていた。彼女も、逃げようと思えば、逃げ出すことも出来たであろう。けれども、彼女は彼と視線を合わせて以降、一歩たりともその場から動くことは出来なかった。松明の光がベルの影を押さえつけている。彼女の足には、屋内に張り詰めている緊張感が雁字搦めにまとわり着いている。逃げるどころか、踊ることすら叶わない。そんな彼女の状況を、彼は皮膚で感じ取ることが出来た。
「トランさん。大人でしょう。挨拶はできませんか?」
最後の松明に火をつけ、彼は肩越しに振り返る。細くしなやかな体つき。色白で人当たりがよく少し頼りげのない垂れ下がった目元。声色はとても穏やかだった。余裕のある。と言っても良い。余裕を醸しつつも、声色の背後には、明確な意思を湛えている。それは、明確な敵意。余裕ゆえ、彼は隠すこともしなかった。
「こわぁい。こわぁい。トラン。そんな怖い人に挨拶なんてできないよ。えーん。えーん」
ベルは目元をわざとらしく拭い、細めた眼で彼の表情を盗み見る。
「ふぇぇぇぇん。怖いから。挨拶します。こんばんは。《《エイド先生》》」
ベルは下腹部に手を合わせ、腰から90度。綺麗なお辞儀をして挨拶をする。彼と眼を合わせると、またわざとらしく、目尻を押さえ、「えーん」と鼻にかかった声を付け加えた。
エイドの糸のように細い目が開いた。これだけ、室内を明るく照らせども、彼の瞳には光はない。明確な拒絶の意思を示している。それならば。と、お返しに、彼女はもう一度、コケティッシュな仕草を送るのであった。
「コワイ。だなんて、心外ですよ。私よりも、自警団員に凄み脅した女の人の方が十分に怖くないですか?」
「あるぇー? なんのことですかぁ?」
「とぼけなくても大丈夫ですよ。貴方が、団員を恫喝してお菓子を要求した話は知っていますよ」
彼の視線が、ベルの顔ではなく、ショートパンツの上に乗った肉に注がれていた。彼女は慌てて前かがみになり、腹の肉を隠す。
「トリトン村のお菓子を喜ばれたようですね」
「えぇ。死ぬほどまずかったですよ。食文化への冒涜。料理への汚辱。食材に対する侮辱行為。ありとあらゆる言葉を使っても、過言ではない。というレベルのまずさでした」
「その割には、身についてますね」
ベルは心の中で悲鳴をあげた。喉を震わせ、強がって見せるも、腕に触れる柔らかく生暖かい感触。自分の罪の深さに、もう一度、心の中で絶叫が響き渡るのだ。
「それは、作り手に対する敬意です。クソとして終わらせるのではなく、私の血となり、肉となり、使われるほうが、良くありませんか?」
「脇腹の脂肪。トランさん気をつけてくださいね。その肉が、前に出てきたら、肥満のサインですよ」
「ご心配なく。私よりも、コンラッド様の肉布団を心配されたほうがよいですよ。医者ならね」
(っつーか、これは脂肪じゃない。肉の壁だから)
ベルの応えに、嘲笑が返って来る。エイドはベルから視線を外し、首を動かしながら、指先と松明を重ね、口の中で数を数える。灯し忘れが無い事を確かめ、ゆったりとした足取りで再び扉の前に立つ。二人は正面を向き合い、再び会話することとなる。
「逃げ出しても良かったのですよ」
朗らかな口調だった。微笑を浮かべ、敵意も見せる。その一方で、今の状況をどこか楽しんでいるようにも見えた。
「逃げるだなんて。まるで、私が悪い事をしているみたいじゃないですか」
「えっ。トランさんは悪い事をしているでしょう?」
そう言うと、彼は睨み絵を指差す。眼に深々と刺さっている細い枝。火の熱で、画材が溶け、ぐちゃぐちゃとマーブル色の涙を流している。
(ブスがバケモノになっちゃったー)
ベルは眉間に皺を寄せる。まさに、イジメラレっ子のスカシ屁。舌打ちを漏らしたくなる衝動を抑え、あくまでも知らぬフリを通す。
「私、知りませーん。あの絵、そもそも何の絵だったんですか?」
「……。あなたの絵ですよ」
短い一言だった。ベルは口を噤み、喉を上下させる。睨み絵の背景を悟った彼女には、エイドの一言に何も反論できない。初夜権で散った女の絵。人は違えど、広義では同じと言ってよい。マルト・ヘーグの時代から始まった初夜権。彼の子孫であるコンラッドが継承しているのだ。彼の片腕であるエイドが知らぬ存ぜぬ。のわけがない。ベルがコンラッドの下で組み敷かれた事実も、当然、承知している。故に、あのような発言が出来たのだ。
「コンラッド様から聞いたのです」
「何をですか?」
「褥の折、トリトン村の歴史を知りたがっている者がいる。泣きじゃくり、喚く女がいるのに、探るかのようにトリトン村の歴史を探る者がいる。おかしな女だと」
エイドはベルに近づく。後一歩でぶつかるほどの距離まで詰めると、今度は彼女の優位を歩き出す。
「ソイツに、エサを撒いた。食いつくような仕掛けをした。必ず引っかかるだろう。そして、引っかかれば――」
執務室には、分厚い絨毯が敷き詰められている。足音は響かないはずなのに、彼女の耳にははっきりと彼の足音を耳にしていた。
「ソレは、王都の人間だ」
エイドの超えにコンラッドの声が重なる。
(やりすぎた!)
重なり合う声に、ベルの心臓がキューと張り詰めた糸のように鳴く。掌からジワジワとつめたい汗が吹き零れる。太ももで拭おうとすれば、目ざといエイドは彼女の行為の意味を問い詰めるに違いなし。それも、エイドへのエサとなってしまう。握りこぶしも作れない。彼女が今できることは、指一本、動かさないことなのだ。
「トランさん」
「はいぃ?」
ベルは眼球だけ動かしエイドを見る。
「貴女、本当は王都の人間なんでしょう?」
「えぇ。私は王都の人間ですよ。由緒正しき剣の卸問屋の娘。私の素性を知りたければ調べれば――」
「トランさん」
エイドは語気鋭く、彼女の言葉を遮った。
「わかりやすくいいましょうか? あなたは、王宮から初夜権について調べるよう、言われた王都の人間ではないですか?」
「違います。それだけは断言できます。仮に、そうだとすれば、エイド先生は私をどうするつもりですか?」
「その時は……。その時ですよ」
微かだが、エイドの口元が歪んだ。何か楽しいことを思いついたような表情である。その表情が猟奇的だと感じたのは、彼の目の下、どす黒く現われているクマのせいだろう。
(まさか)
不健康そうな青白い肌。初めて出会った時と比べていささかやつれたようにも思える輪郭。黒い目のしたのクマ。
(コイツ、コンラッドの言う事を信じて、結婚式の日から一睡もしないで執務室で見張ってたとか言うの?)
ベルの脳内で、神経質そうな表情で、執務室に足を運ぶ彼の姿が浮かび上がる。きっと彼のことだ。自分が満足いくまで、昼夜関係なく、何度も何度も。人に何言われようと、この場所に足を運んだことだろう。そう考えると、彼の不健康そうな表情も合点がいく。何回も何回も足しげく通った果て、ようやく、彼はベルを見つけた。待ちに待った待望の時だろう。
(鼻息荒く私を押し倒さなかっただけ、花丸をくれてやろうか)
ベルの喉が上下する。
(あぁ。やばい。私は、ここの男を甘く見ていた)
頭の中でグルグルと渦巻く逃亡手段。約束の時間まで猶予は無い。
(逃げ出せ。きっと、チャンスはあるはず。その隙を逃してはだめ)




