初夜編 深い眠りから覚めたなら34
チチチと小鳥の鳴き声が聞こえる。ソレが目覚めにまだ早いと抗議する様に、ゴロンと寝返りを打つ。すると、再びチチチとコトリの鳴き声が近くで聞こえる。その後、頬にチクリと刺す傷みが走った。
「痛っ」
叫びと共に顔に手をやる。取りはソレの反応が楽しかったのだろう。ピピピと面白そうに鳴くと、肩から大空へ羽ばたいていった。
ソレは口を尖らせ、上体を起こす。そこはとても広い平らな場所だった。周囲は空を遮るように高い木々が生い茂っている。だが、ソレがいる場所だけは木が一本たりとも生えていない。天から覗けば、虫食いの穴にも見えるだろう。
ソレは、寝ぼけ眼をこすり、大きなあくびをする。周囲を見渡すとソレの近くに、人の大きさぐらいの黒く焼け焦げたような跡があった。膝立ちになり、四つんばいの格好で痕跡に寄る。手を翳すとか細い温かさを感じる。指で触ると、黒と灰色に汚れた。
何の跡だろうと思った瞬間、脳内に強烈な砂嵐が吹き溢れる。頭の中をかき回す音にソレは強烈な吐き気に襲われる。嘔気に急かされるよう周囲にゲロを吐き散らした。ゲェゲェと吐く度、胸のつっかえが取れていく。収まったと思いきや、強烈な波が再びソレを襲う。焦げ跡に、透明な液体がピシャリとふりかかる。朝の清清しい風はツンと饐えた臭いに汚されてしまった。
どれぐらい吐いただろう。吐き出されるものは吐き出した。固形物も吐き出した。今、ソレが吐き出しているのは唾液と紫色をした汁。喉を酷使したせいで、上半身の内側は火傷のような痛みが走る。
ソレは荒い息を漏らしながら、白い腕で口元を拭う。
「うっ」
周囲を見ると、酷い状況になっている。地面には爪跡が刻まれ、灰色の毛玉とU字になった白い歯型が落ちていた。
(ナニ……これ。わかんない……。あぁ。しんどい)
砂嵐の勢いが収まり、吐き気や頭痛も軽くなる。ソレはペッペッと粘り気のある唾液を吐き出すと、地面に突っ伏した。身体が吐しゃ物に埋もれる。ツンと鼻に不快な臭いが刺さった。
ソレは自分の目の高さに手を上げた。土や汚物にまみれ、汚い手をしている。けれども、素肌は、血管が透けて見える程白い。ソレは自分の顔にかかる髪を掴んだ。サラサラと流れるような黒髪。
(綺麗な色)
空ろな緋色の目がぼんやりと宙を見つめる。五本の指を持つ手。腰までかかる長い髪。盛り上がる二つの乳房。長さの異なる腕と脚。ソレは今まで知っていも“知らない”ものであった。
すると、目尻からホロリと液体が零れ落ちる。痛みも何も感じないのに、ホロホロと涙が零れ落ちる。ソレはゴシゴシと何度も目をこするも、涙は止まらなかった。
(何? 何なの? これ)
腕に付着した透明な液体。恐る恐る舐めてみると、舌がビリリと痺れるしょっぱい味がする。
ソレがもう一度、腕を舐めると遠くから、カラカラと車輪が回る音が聞こえた。車輪の音に混ざるよう、パカラパカラと蹄の音も聞こえた。
ソレは慌てて、飛び起きた。キョロキョロと辺りを見渡し、背の高い草むらの中に隠れこんだ。
(何故、私は隠れるの?)
車輪の音が近づくと、ソレの心臓がバクンバクンと音をたてる。体内にある血液が溢れる痛み。
(ナニを私は恐れる。何故、ココまで張り詰めているの)
心臓の音が最高潮に達し、車輪と蹄の音が一番大きくなる。心臓の鼓動が一際大きく脈を持った。
突然、馬と車輪の音が止まる。馬は、寝ていた耳を起こし、嫌がるように首を振った。
「どげんしたとね?」
馭者は、馬を宥めるように声をかける。馬は再び顔を横へ振ると、コトウの広場を凝視した。
「何かおるとね?」
馭者の問いかけに馬は鼻を鳴らす。相棒の視線にあわせ、コトウの広場を見つめる。黒く焼け焦げた跡。飛び散る吐しゃ物。すえたにおいに、顔を渋り、大きく溜息をついた。
「よか。どっかのアホタレが夜中に飲んだんやろ。親方に言っちょくきん、よかやろうね。行くばい」
彼は溜息をつき、馬の背を叩く。馬は、身体をくねらせ、仕方なく、荷台を再びひき始めた。
車輪の音と蹄の音が小さくなる。周囲に響く音が木々のざわめきに鳴ったころ、ソレは草むらからひょっこりと顔を出した。
(消えてしまった)
ソレは首を左右に振るともう一度草むらの中に身を潜める。
(私はなんだ。この身体はなんだ?)
自分に向かい問いかけると、脳内に砂嵐が戻ってきた。
(あぁ。わからない。わからない。私は何だ。私は何なのだ。二ツ足なのか。四ツ脚なのか。わからない。わからないわからない)
ソレを頭を抱え、イヤイヤと首を横に振る。
(もうイヤだ。考えたくない。もうイヤだ)
再び彼女の目尻からホロホロと涙が零れ落ちる。そして、悟った。自分はこの場所にいるべきではない。と。彼女は胸を押さえ、静かに森の奥深くへ消えていった。




