初夜編 深い眠りから覚めたなら31
ふと、リーゼロッテの中で暴れていたかモノが動きを止める。時が止まり、呼吸を忘れてしまいそうなほど、静謐なひと時である。
「リーゼロッテ、どうした?」
「わからない。でも私、壊れ始めている」
そう言い、自分の黒いシミに指を這わせる。いつしか、リーゼロッテの歯はアヌイと同じ歯に変わっている。彼女が壊れるというように、人間という器にヒビが入り新たな動物へ脱皮しているようであった。
「アヌイ……。私、どうなるの?」
「どうなるって……」
「私、人間でいたいよぉ。これからもずっと、ずーっとアヌイと一緒に生きて。聖女として大いなる意思の言葉を伝えて、いつの日か、聖女バルバラや聖女セシリア達がいる修道院に戻って後輩を育てたい。そうなりたいだけなの。なのに、私……。もう、それすら望んじゃいけないの?」
リーゼロッテは透明な涙を流し始めた。自分の頬にふれ、肌の凹凸ではない、血管の如き葉脈を感じる。人間にはないものを持っている己に絶望し、また涙を流す。困り顔のアヌイに胸を痛め、ハラハラと涙を零す。
「私、どこで道を間違えたの?」
アヌイはリーゼロッテの涙をもう一度舌で掬った。
「あんたはたくさん道を間違えているさ。生まれなおさなきゃいけないぐらいに、間違っている。でもさ。間違ってもあんたは、道を作ったんだよ。トリトン村まで来て。大いなる意思の言葉を伝えて。教えて。ほらごらんよ。出来てるじゃん。リーゼロッテの作った道がさ。あんたが作った道ならば、私はその道を一緒に歩く。私はあんたのお姉ちゃんだから、お姉ちゃんは妹を泣かす奴をいつもどおり、蹴倒していくだけさ」
アヌイは笑って見せた。リーゼロッテはアヌイの表情を見つめる。傷つき、倒れても、立ち上がり寄り添うロバの姿。そこにある言葉を思い出す。
光なき場所に光を。
光なき者に光を。
(光とは、大いなる意思の威光。だけど、本当の意味は違う。どんなに打ち付けられても、傷つけられても、何度でも立ち上がり、寄り添うこと。寄り添う言葉。すなわち。愛)
リーゼロッテはコトウの過去を見た。彼は優しい青年であったが、村人からの愛を知らなかった。人々は愛を知っていても、自分を守るため、他人を愛することを放棄した。故に、コトウは答えた。コトウの一件を経ても、誰もその事実に気づかない。そうして月日がたち、いつしか、この村は愛を知らぬ場所へと変貌を遂げた。
(大いなる意思は、それを伝えるために、私をココへ使わした。トリトン村の人々に、愛を教えるため。愛を伝えるために。でも、本当に愛を知るべき人間は、この私だったのね。私もまた、光を知らない者だった)
リーゼロッテは手を伸ばし、アヌイの頭に触れる。いらぬ傷を負ったロバ。同じ毛の色を持ち、違う生き物。
アヌイと過ごした日々は、リーゼロッテにとって当たり前の日常だ。アヌイがいない生活は考えられない。自然の摂理として、アヌイはリーゼロッテより早く死ぬ。そういう運命だ。と思い込んでいたが、自然の摂理とは時としてシナリオを大きく変える。人間は、ロバを愚鈍の象徴としてみているが、決してロバは愚鈍ではない。その証拠がアヌイだ。
(アヌイ。ごめんなさい。でも、アナタなら強く生きられる。私がした過ちなんか蹴散らしちゃうほど、きっとたくましく生きられるわ)
「アヌイ」
「何?」
聖女はロバに笑顔を向ける。そして、ロバに向ける笑顔はこれが最後になることを悟った。
「アヌイ。愛してくれてありがとう! 私に愛の意味を教えてくれてありがとう。今までずーっと私の傍にいてくれてありがとう。私の乳首談義に付き合ってくれたり。男の尻の筋講座にも付き合ってくれたり。すごく、すごく嬉しかった。どれも、これも、アヌイがいたから出来たことで。私、アヌイじゃなきゃ、きっとこんな思いもなかった。つまらない聖女だったわ」
リーゼロッテは立ち上がり、瞼を強く閉じ、涙を払った。
「アヌイ。本当にありがとう」
再び、リーゼロッテの中で獣が暴れだす。彼女は胸を押さえ込み、前屈みになりながら、テーブルの上においている剣を手にした。
(皮肉なものね。この剣を使うだなんて)
彼女は小走りに窓辺に向かう。
(大いなる意思よ)
窓を背にし、彼女は手早く鞘を取り、剣先を黒いシミに突き立てる。アヌイは足を引きづりながらリーゼロッテに近づく。彼女が何をするのか、ロバには理解が出来た。それを止めるため、もう一度、リーゼロッテの足首に噛み付いた。だが、既に女の柔肌は失い、魚鱗のような硬さでアヌイの攻撃を跳ね返す。痛覚を無くした足首。傷みゆえ、行動を止めることはなかった。
(アナタからの使命、ここで終わらせます)
剣先は、シミを突き破り心臓へ達する。彼女の頭は後ろのめりに倒れ、窓ガラスを突き破り外へ穂織り出される。ガラスの鋭い棘が彼女の首に食い込み、赤い花を咲かせる。ひび割れた窓ガラスに、赤い布がかかる。アヌイから、リーゼロッテはどのような表情をしているのか、伺うことも出来なくなった。
寒い夜風が聖女の頬を撫でる。
彼女と同じよう病的なまでに青白い満月が彼女を見下ろす。聖女は首を左右に振り、月をもっと見ようと身体を捻る。そうすればそうするほど、ガラスは彼女の血管を切り裂き、また鮮血を噴出させる。
リーゼロッテは胸を刺す傷みも、首をもがれる傷みも感じなかった。
ただ、冷たい夜風が心地よく、フワフワと夢を見ている気持ちになっていた。
(アヌイ。ごらん。綺麗なお月様だよ。あぁ、なんて――)
聖女リーゼロッテは静かに目を閉じた。




