初夜編 深い眠りから覚めたなら30
アヌイは、身を低くし、リーゼロッテから離れる。アヌイはリーゼロッテとの間にある溝を越えようとはしなかった。
例え、姉妹のような関係であったとしても、リーゼロッテは人間で、アヌイはロバだ。違う生き物は、お互いの言葉でのみ生活することが求められる。言葉が通じれば、互いの差異に絶望し、羨望し、感情をぶつけてしまい、破滅的な結末を迎えるからだ。
「私たちはようやく言葉が交わせたのよ。この奇跡をどうしてアヌイは喜ばないの?」
「私だって喜びたい。リーゼロッテと、いっぱいいっぱい話したい。でも、ダメなんだ。人間と動物は同じ言葉を話せない。どうして話しちゃいけないのかって、聖剣書にも書いてあるでしょ。私たちは住む世界が違う。って。だから、私達の言葉は通じ合っちゃだめなのよ」
リーゼロッテはアヌイの言葉に何も言い返せなかった。ただただ、悲しそうに、四肢を床に付け、しっかりと立つ動物を見つめる。
「どうして、どうしてそんな事を言うの?」
リーゼロッテの目尻からツゥと黒い涙が滴り落ちる。アヌイは驚き、後ろへ後ずさる。ロバの目の前では信じられない光景が始まった。
「あなたも、どうして私を受け入れてくれないの?」
リーゼロッテの乳房には、黒いシミがある。ホクロというにはツヤがない。布にこびりついた汚れのようなシミだった。リーゼロッテの感情が高ぶると、シミは色を濃くし、植物の葉脈の如き線をシミから這わせていく。
葉脈は何を運ぶのだろう。リーゼロッテが「何故」と呟けば、ヘソの周りにトグロをまいた葉脈が不規則に動く。
リーゼロッテが「アヌイ」と名前を呼べば、首に根を張る葉脈が痙攣するように震える。
「アヌイ。アナタもジェフと同じように私を捨てるのね」
「違う。私は、ただ――」
リーゼロッテの眉間に深い皺が寄る。口の端から、よだれが垂れる。腕で拭うと、腕は、唾液を飲み込み、シュルシュルと灰色の柔らかい毛が発芽した。彼女はもう一度、反対の腕で口元を拭う。すると、先ほどと同じよう、再び毛が発芽した。
「り、リーゼロ――」
アヌイは主人の名前を最後まで言えなかった。彼女の身体が白い線を描く。あっと思えば、硬く丸いものが、アヌイの横っ腹を抉った。予想だにしない主人の行動に、アヌイはなすすべもない。ロバの身体は、ゴトンゴトンと後転を繰り返し、食器棚に叩きつけられた。ガタンと激しい音を立て、食器棚が前後に震える。衝撃で観音開きの食器棚はパカッと音を立てると、アヌイの頭上に食器の雨を降らせた。
耳を覆いたくなるような食器が粉砕する音。歯を食いしばりたくなるような外側からの衝撃。皿やコップが身体に打ちつけられる分には我慢が出来る。だが、頭に食器が当たると、目の前にはキラキラと火花を散らす星が見えた。
食器棚にもたれかかり、うつろな表情を浮かべると相方を見て、彼女は自分がしでかしたことに気づく。
「あっ。あっ。アヌイイイイイ」
リーゼロッテは相方の名前を呼び、慌ててアヌイの下へ駆けつける。食器の破片を踏みしめても、厭わず、アヌイの名前を繰り返す。アヌイの後ろ脚の毛は、リーゼロッテが零す血で汚れていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。アヌイ。わ、私、こ、こんなこと」
リーゼロッテはアヌイの頭を撫で、身体に突き刺さる破片を「我慢して」と言葉を添えて引っこ抜く。アヌイが主人の行動を予想していなかったよう、彼女も自分の行動を理解し得なかった。彼女は、生まれてこのかた、暴力を振るった経験は1度のみである。人間の身体に、自分の拳が埋もれていく感触が気持ち悪く、二度と暴力を振るわないと決めていた。故に、彼女の選択肢の中に、誰かに手を上げる。ということはない。
自ら、理解できない行動。相方のアヌイを蹴った。という事実。踵越しに伝わったブヨブヨと不気味でおどろおどろしい感触。彼女は鼻頭を赤くし、泣きはじめた。
「なんで……。なんでなの?」
リーゼロッテの柔らかい毛は時間と共に、誰も寄せ付けない針の毛に変わる。
「どうして、私はこうなってしまうの?」
リーゼロッテが流した涙の後に、濃い赤い線が走る。
「私は、誰も傷つけたくない」
リーゼロッテの言葉に、顔中に走る葉脈がヒルのように蠢く。
「私は、誰にも傷つけられたくない。それなのになんでアヌイを。アヌイをおおおおおおおおお」
滂沱の涙の下、彼女の目の下に濃い紫の隈取が現われ始めた。
隈取を隠すよう、顔を手で多い、顔を横に振る。嗚咽を漏らす主人をアヌイは痛みの中ただ、見つめていた。
部屋の中に、沈痛な感情が満たされる。そのまま月が沈み、太陽の光と共に、彼女の痛々しい感情が消えてなくなればよい。とアヌイは思った。けれども、変わりゆく主人の姿が、アヌイの願いを噛み砕く。リーゼロッテは覆っていた手を除け、ゆるゆると悔恨するかのように呟いた。
「私、見てしまったの?」
教戒師の面持ちで、アヌイは答える。
「私は、見てしまってからおかしくなって。私の中にもう一人の私がいて――」
「何を? あ、あんた何を見たの?」
「コトウさんの、本当の話。それを、もう一人の私が、コトウさんと一緒に見せてくれたの」
「わ、わかんない。あんたの言ってること、わかんないよ」
「わからなくていい。でも、でも、私は。私は私は私は私は私は私は私は私は私は。ワタシハワタシハワタシハワタシハワタシハ 知ってしまった」
アヌイはリーゼロッテの顔を見つめる。彼女の表情はのっぺらぼうのように平らだった。口の中でモゴモゴと「ワタシは」と繰り返すと、ピタッと口を閉じる。まばたきを忘れた瞼が、ゆっくりと閉じる、そして、目を開くと、彼女は噛み締めるように「コトウ」「トルダート」「マルト」と名前を呟く。自分で呟いた名前が、頭の中。心の中。細胞すべてに染み入る。冷や水をぶっ掛けられた如き甲高い傷みが彼女を襲う。頭を抱え、左右に振り始めた。激しい頭痛をこらえるかのように頭を床につけ、再び絶叫する。
「ち、違ううう。違う違うの。それは私の記憶じゃない。それは、私の。私のあっ。あああああああああああああ」
リーゼロッテの声が低く下がっていく。獣の唸り声に近かった。丸い爪はいつしか鉤状となり、頭皮を突き刺し、血が滲み出している。
「違うの! それは違うの!」
彼女は叫ぶ。彼女は記憶という一冊の布がグチャグチャと溶け出した茶色のクレヨンで塗りつぶされる様を見つめていた。
聖女であった記憶。ジェフと過ごした日々。アヌイと過ごせた人生。クレヨンでなかったことにされ、すっぽりと仄暗い穴になっていく。大きく広がる穴。広がる穴を防ぐように、リーゼロッテの知らない記憶が縫いこまれていく。トリトン村で受けた迫害。よそ者でありながら人気者であるトルダート。同じ榛色の目をしても誰も救わなかったマルト。傷みに喘ぎ苦しむ母の姿。次から次へと、獣の記憶が飛び込んでくる。
「ち、違うううううああああああああああああああああああああああああ。それは違う。私のじゃない。私は、私の記憶はっ。いやああああああああああああああああ」
リーゼロッテは叫ぶ。自分が自分でないモノに変わりいくことを認識し、自分を保つように叫ぶ。立ち上がり、開きっぱなしの食器棚にガンガンと頭を打ち付ける。
傷みで、消え行く記憶を引き止めるように自分を傷つける。薄い額の皮はパックリと割れ、眉間を通り、鼻頭を伝い、床に落ちた。だが、記憶はどんどんと喰われていく。
「やめて。やめてえええええええ。これ以上見せないで。認識からせないで。私は、私はリーゼロッテ。聖女よ。人間なのよ。私はそんなんじゃなああああああい。そんな、そんなバケモンじゃないの。だから、やめて。やめてよおおおおおおおお」
「り、リーゼロッテどうしたのよ。リーゼロッテ!」
アヌイは立ち上がり、自分に気づくよう、ギャンギャンと吠え立てる。だが、リーゼロッテは気づかない。主人は、まだ食器棚に頭を打ち付けている。食器棚で足り名あければ、炊事場の角に頭を打ち付けるだろう。壁に身体をぶつけるだろう。それは、自分が死ぬまで続く行動だとアヌイは気づいた。どうにかして止めなければならない。だが、彼女を傷つけずに、止める方法は見つからない。
(やめてよリーゼロッテ)
「あっ。あっ。わ、わっ。お、俺はあああ。俺はあああああ」
リーゼロッテの声が低くなる。青年のような声を漏らし、破片が散らばる床を飛び跳ねた。
(やめてよ。リーゼロッテ。どうしたのよ。リーゼロッテ。何故、あんたはここまで自分を傷つけるの? 何があんたをそうさせているの?)
「全てを壊す。私たちは、許さない。この世すべてのものを。驕り昂ぶった人間が。人間を。ち、あ。やああああ」
声は高くなったり低くなったりを繰り返す。主人の足裏には鋭い破片がびっしりと突き刺さっている。中には、足の裏に入り込み肉にめり込んだものすらあった。すさまじい傷みだろう。そのような傷みをもってしても、彼女は止まらない。
(リーゼロッテ。やめてよリーゼロッテ。もうそれ以上。自分を傷つけるのはやめて)
アヌイは立ち上がり、リーゼロッテの細い足首に噛み付いた。睾丸を噛み砕くと断言した歯は白い足首を痛めるには十分すぎる力を持っていた。ギリギリと骨を砕く力に、リーゼロッテは甲高い声を上げて、動きを止める。主人は顔を覆うように手を上げ、足元で自分の足に食らいつくロバを見た。
「あ、アヌイ……」
アヌイは主人の足首から口を離す。赤い線はプツリと切れる。暴れまわっていた女は、力なくその場にへたり込み、アヌイと友の名前をもう一度呼んだ。
友は、涙で濡れた主人の頬を舌で舐め取る。涙には、絶望、憤怒が凝縮されとてもしょっぱい味がした。




