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聖剣物語  作者: はち
初夜編
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初夜編 聖女リーゼロッテの回顧録(深い眠りから覚めたなら25)

「聖女さん。アンタはコイツの事を好きなのは一向にかまわへん」


 カタルカはジェフを顎で指し示す。闇夜のせいか、彼の表情はうかがうことは出来ない。


「せやけんどな、()()()()()()()()()()()()()()()()んばい。うちの奥さんが言いよった。『生きとし生けるものは全て誠実であるべき』っち。それが、聖女としての言葉やったらなぁ、誠実を説く人間が、誰かに肩入れをして恋をする。そいつのお陰で今日と言う日を迎えられた。そういう言葉は言っちゃならないんじゃないんかい? おまけに、村を捨てて逃げるなんちことは、聖女としては違うんとかいじゃ」

「そ、それは……」

「それとな、あんた、言っちょる事、自分の事ばかりやん。自分の事ばかり言うちょって。あんたのいう『誠実』っち何の事かいっちょんわからんばい」


 リーゼロッテは唇を噛み締めた。強く強く噛み締めた唇の薄皮がふやけてめくれていく。生まれたての朱は、無慈悲な歯に攻め立てられ雛のような赤を生み出す。

 誠実とは何か。それは、修道院時代から教えられている。誠実とは、忠実、真実、忠信、信頼。これらを包括した言葉である。いついかなる時も、澱みなく言えるよう、教育されていたはずだが、おかしなことに、リーゼロッテの口からは、誠実が紡げない。


「若いからやな。あんた、好きっていう事を知ってるかい」


 カタルカは言葉を続ける。


「好きっちゅーのはな、()()()()()()()()()()()()()()()を好きっちゅーんや」


 リーゼロッテは目を瞬かせる。「好意」や「愛」。聖剣書に幾度となく出てくる言葉だが、カタルカが言うような定義をしたものは誰一人としていない。

 彼女の心がズキズキと痛む。同時に、しぼんでいた好奇心が鎌首をもたげ始める。彼の言葉は、彼女の知らない世界が含まれている。未知を求める好奇心が、カタルカの言葉を待つ。


「人間も、動物も出来事も、良い面と悪い面がある。あんたも知っちょるやろ。普通であれば、良い面も悪い面も見渡すことが出来る。せやけんどな、好きな状態であると、悪い事 イヤナ事が全て良い事に塗りつぶされている。良い事ばかりが溢れていると見える世界。景色。それが、好きっていう状態や。好きだから失敗しても良い。好きだから仕方がない。そういう言葉はそっから出てくるんや。せやけんどな。そんな好きに振り回される他の人の身にもなってみてみぃ。好きやっていう餌をぶら下げている人間の身にもなってみぃ。」


 カタルカは自分の心臓を親指で2度叩く。


「お前さんはジェフの事は好きやったんやと思う。せやけどな。その好きがどういう好きなのか、きちんと理解できてるか?」


 リーゼロッテは何も答えられない。カタルカの説教は、修道院で聞いてきたどの説教よりも分かりやすく、彼女の胸を十分にえぐる。好きである事。悪い事に目をつぶれる強さ。一方で悪い事すら見つけられない危うさ。「好き」を理解するには、強さと危うさを理解しなければならない。その点において、リーゼロッテは「好き」を理解していなかった。

 では、御堂で語られたジェフの「好き」あれはどのような意味があったのであろうか。


「ジェフ」


 彼女は、彼の名前を呼ぶ。これは、最後の答え合わせである。

 聖女は、恋を見間違えた。

 聖女は、好意を履き違えた。

 聖女は、選択を誤った。

 すべてが「不正解」の行動で、最後に残された回答は好きの「予想」である。

 そして、彼女は、選んだ。

 カタルカの言葉は強く正しい。リーゼロッテは、恋を見間違い、好意を履き違え、選択を誤った。周囲から違うといわれても、胸からこみ上げる衝動のような感情は己自身のもの。否定したくなかった。衝動的な選択だが、彼女は彼の「好き」という言葉を信じている。


「ジェフ!」


 彼女は、彼の手に縋りついた。手に残された過去を拾い集めるかのように。


(ジェフ。私は貴方を信じている。貴方が御堂の中で語ったあの言葉を。私の事を好きと言ってくれたこと。私の身を案じ、早くこの村から逃げようと囁いてくれたあの言葉を。あれは、他の誰でもない。私だけに囁いてくれた言葉。その言葉を支えに今日まで来れた。だから、ジェフ。お願い。もう一度。もう一度だけで良い。私がカタルカさんに言ったように、貴方ももう一度だけ……)


 男に絡んだ指は汚物を払うように解かれる。縋る手は、寄る辺をなくし、はらはらと落ちていく。腕にかすかに残った温かみも、脳裏に焼きついて離れない甘美なひと時も、まるで落書きを消すかのように拭っていった。追いすがろうとする羽虫を、男は不愉快そうに払う。羽をなくした虫は、地面に落ちるしかなかった。

 ジャリジャリと砂を踏みしめる音が小さくなる。ジェフの背中も遠くなる。


「俺の勝ちだな」


 かがり火がパチパチと空気を燃やす。黒く頼りがいのない炎は短い尾をはためかせゆらゆらと揺らめく。発言者の顔は見えなかった。ただ、火の切れ間から見える男の横顔は、宗教画に出てくる不敬者の顔に良く似ていた。その横顔は恋焦がれていた男を写したかのようである。


「くそー。本当にやりやがったんか。ジェフ」

「おぅよ。はよ建築代払わんかいスカポンタン」

「おっしゃおっしゃ。さすがジェフ様やー。この人たらし」

「うるせぇなぁ。勝てばいいんだよ。勝てば」

「とりあえず、酒場に行って計算しようやないかい。今回は、戻ってくる金はでけぇなぁ」


 笑ったり悔しがったり。男達の顔は様々だ。リーゼロッテはジェフとカタルカ以外の夜警の男達の姿をただただ呆然と見つめている。


(ジェフは何に勝ったのだろう)


 男達の騒がしい声にカタルカは大きく溜息をつく。


「これが答えばい」

「こたえ?」


 反復し、困ったような表情を浮かべる女に、彼は大きく頷いた。


「ジェフはお前の事が好きでも何でもなかったんばい」

「……」


 カタルカの端的な一言に、彼女は沈黙した。反論は出来ない。どこか、夜の散歩に行くような姿。誰かを待つように時間を潰す横顔。彼女と出会っても、彼は喜びよりも困惑の色が強かった。リーゼロッテがカタルカ達と言い合っている時、彼は助け舟一つ出さない。この時間が過ぎるのを待つように虚空を見つめていた。

 カタルカの言うように、好きが、悪い面に目を瞑り没入出来ることであるならば。リーゼロッテのジェフへの執着。見苦しい言い訳。といった欲望の片鱗を、彼は目を瞑れなかった。故に、彼は彼女の事が好きではなかった。そういう帰結になるのだろう。そういう道筋を描けば、彼女の喉元に引っかかっていた最後の違和感がストンと落ちる。

 最後の課題「予想」はものの見事に不正解だったのだ。


「カタルカさん」


 リーゼロッテは消えそうな声で言葉を紡ぐ。


「彼は、私に好きだと言ってくれました。それならば。あの時の彼と今の彼にとって、私とは、一体、何なのですか?」


 カタルカは最後に大きな溜息をついた。


「聖女さん。アンタは幼すぎる。ここまで言ったんだ。あとは自分で考えるんばい」


 カタルカはそれだけ言うと、かがり火を高く掲げ、夜警に戻る。

 表門前には、若いみすぼらしい女性とロバが1匹残されていた。

 乾期の夜は寒い。ハァと息を吐く。白い息が宙に舞う。そして、彼女の顔にいやらしくまとわりつくと、夜風の中へ消えていった。聖女である意味を忘れるな。と言いたげに。

 もう一度、彼女は息を吐いた。すると今度は早々に空気の中へ混ざっていく。彼女は行きの行方を目で追う。彼女の吐息が混じった空気は、風に乗り、闇夜に消えたジェフの下へ届くかもしれない。けれども、ジェフの吐息が混ざった空気を今宵、彼女が吸う事は叶わないだろう。


(ジェフ。私はもう一度だけ。貴方の吐息を近くで感じたい)

 

 カタルカが同情する結末を迎えても、彼女は未だにジェフの事を好いている。修道院時代、知りえなかった異性を思う気持ち。キラキラ輝き、汚点一つない美しい日常。狂ってしまいそうなほど心が傷む日々。そして、人が去る苦しみ。これらは全て、ジェフが与えたものである。自分の知らぬものを与えた彼に対する気持ちは、今、この瞬間でも全く揺らがない。故に、はらはらと流す涙もないのだ。


「アアアアア」


 アヌイは低い声でリーゼロッテを呼ぶ。アヌイの声に引き戻されるようにして、聖女は腰を落とし、アヌイの頭を何度も撫でる。


「アヌイ。ごめんね。重たい荷物を持たせて」


 アヌイは首を横に振った。


「アヌイ、蹴られたところ痛くない? 大丈夫?」


 彼女は男に蹴られた横腹を優しくなでた。アヌイは平気といわんばかりに元気よく鳴いてみせる。そして、精神的な痛みに耐え忍んでいる主人の頬をベロリと舐めた。一瞬、頬から湯気が立つ。心配そうに主人の顔を覗き込むと、そこには、強張っていた主人ではなく、優しげな主人の姿があった。


「ねぇ、アヌイ」


 リーゼロッテはアヌイを座らせ、顔を自分の横に引き寄せる。そして、人差し指で、夜空の中で一番キラキラ輝く星を指し示した。


「アヌイ。見てご覧。あれはね。示星。どこにいても、どんな場所でも、私たちの頭上にあるお星様。私たちの中心にあって、私たちの物語を見つめているお星様なのよ」


 リーゼロッテはアヌイの毛を優しく撫でる。


「だからねアヌイ。どんな事があっても。どんなに辛くても。あの示星は今日の事を覚えている。誰がどんなに捻じ曲げても、示星だけは覚えているわ。私がいなくなって。貴方もいなくなっても。あの示星は、きっと私たちの事を覚えてくれる。遠い先、物語になって読まれるかもしれない。その時、私を愚かだって言う人がいるかもしれない。でもね。私とアヌイは仲良しなんだね。って言ってくれる人もいるかもしれないわ。だから……アヌイ……」


 リーゼロッテはアヌイに抱きついた。ロバの首元に湿り気を帯びる。ロバは鳴くこともせず、アホヅラも見せず。彼女が指差した示星を見つめていた。

 出来るならば。未来に残される物語は優しい物語であることを願いながら。

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