初夜編 深い眠りから覚めたなら22
聖女リーゼロッテは、トリトン村の人々を欺いている。
聖女とは。
一般的な生活のイメージを言えば、陽の登りと共に起床し、1日の始まりを感謝する。身を清め、午前中は聖剣書の勉学に励み、午後は、奉仕活動に精を出す。日が沈めば、質素な夕餉を口にし、もう一度、身を清めて1日の終わりを感謝しながら床に着く。
清く正しい聖女の生活を村人は期待している。彼女は、可能な限りそのような生活をした。
講話会でも、村人が喜びそうな“勧善懲悪”の逸話を述べ、「生きとし生けるものは全て誠実であるべき」だと教える。
そして、リーゼロッテは、自らは聖女として、そのように生活をしていると胸を張って断言した。
(誠実であれ。どの口が言うのかしらね)
リーゼロッテは、トリトン村最後の講話会を思い出す。村人達の真剣な視線を思い出すと、ズキンと針で刺す痛みが走った。
今日、聖女リーゼロッテはトリトン村を後にする。大切な人 ジェフと共に。
リーゼロッテは、溜息をつき、窓に指を這わせて、空を見上げる。
村はすっかり寝静まっている。病的に青白い月が息を吐き、白い靄が月を隠す。耳を澄ませば、ホーホーと、夜の鳥が鳴いていた。
(冷たい。きっと、外は寒いよね)
窓越しに針と突き刺さる寒さを感じる。彼女は、「羽織るもの」と口にしながら、部屋の中を探す。時折、チラチラと机の上に置いた青百合のメダルが視界に入る。メダルは存在だけで、彼女に警告を発する。だが、メダルを無視し、羽織りを物置の奥から引っ張り出した。ストールを身に纏い、小走りで、姿見の前に立ち、自分の姿を確認する。女性らしい自分の姿を確信したが、彼女の予想は裏切られる。
(なんてひどい顔)
鏡に映る自分の顔は酷いものだった。強張った表情。皮膚は、月と同じぐらい青白く、目の下には、血色の悪い青黒い痣が見えている。
それもそうだろう。
ジェフとの会話以降、リーゼロッテは殆ど寝れていない。
実は、ジェフとの交わした会話は夢であり、眠れば、現実に引き戻される。という思い込み。ジェフとの会話は虚構。なかった事と突きつけられる恐怖。ジェフをぬくもりを失う怖気。考えれば考えるほどに、眠ることは出来ない。いつしか、彼女は、睡眠を拒絶した。
床に就いても、うつらうつらと、舟をこぎ、長い夜を越えて朝を待つ。疲れが取れず、ダルい・重い。という身体の悲鳴は日に日に大きくなる。
だが、「ジェフの出来事は夢ではなかった」という喜びが疲労より勝っていた。
リーゼロッテは瞼の下に指を這わせる。マジマジと自分の顔を見つめ、引きつった笑いで自分を鼓舞する。
(あぁ。顔は酷いけど、痩せたよね。私)
事実、彼女は、村に訪れた時と比べ、頬の膨らみを失っていた。むしろ、頬はこけたという表現が適している。
彼女はあの出来事以降、食事を取っていない。
聖職者の食糧は、信者・住民の寄付や寄進を主とする。リーゼロッテも同じだ。
幸いな事に、毎日、彼女の家に野菜を届ける老婆がいる。
「苦労しているでしょう」
独り身のリーゼロッテの苦労をねぎらい、土で汚れた手で収穫したばかりの野菜を渡す。老婆は、目を細め、柔らかなリーゼロッテの手をさする。彼女の温かな眼差し、ぬくもりは、幼い孫を見つめるようだ。そして、聖女バルバラ達がリーゼロッテに注いだ眼差しにも似ている。
好意で渡された野菜。
食欲はないが、無碍には出来ないと思い、彼女は夕餉に野菜を口にする。
「苦労しているでしょう」
「いつも素敵な講話をありがとう」
「貴女の言うとおり、私たちは誠実に生きるべきなのよね」
「貴女と出会えてよかった」
「貴女はしっかり者です」
「聖女様。いつまでもこの村にいてください。この村を支えてください」
「聖女様。この村は土の聖剣に愛された村です。大いなる意思の恩寵と、聖剣の加護を願ってください」
「聖女様。私たちを裏切らないで下さい」
「聖女様。私たちは貴女を信じています」
誰もいない部屋の中、村人の声が響く。気づけば、彼女は胃の内容物をボロボロと吐き出していた。
食べかけ野菜は、いつしか村人の顔になっている。吐しゃ物は、自分の心が見えた。
純粋に、そして純情に邪心なく、村人達は「誠実な聖女」を信じている。だが、彼女は「誠実」を紡ぐ口で「不誠実」な事を計画している。切り刻まれた野菜は、村人の信仰心を刻んだ証。不誠実な事を行おうとする聖女は、村人の労力を虚言で掠め取った。
リーゼロッテは「あぁ……」と食事を終えるたび、情けない声を上げる。頭の中では、野菜は村人ではない。と理解しても、身体は、食事を拒む。ボトリ ボトリと音を立て、固形物とふやけた残骸が床に落ちる。
もう、いつしか、彼女は食事を積極的に摂取することをやめた。食事をとれないでいても、野菜や食料はきちんと受け取った。いつしか、野菜箱の中からツンと鼻につく腐敗臭がする。日に日に痩せこけていく頬。月に一回の経血も止まらない。
変わってしまった自分の身体。丸みを失った顔。
(大丈夫。大丈夫。少し体調が悪いだけ)
と思い込ませ、不安を、思い人の姿で塗りつぶす。
(痩せた私を見て、褒めて欲しい)
彼女は肉の無い顔を歪んで捉えた。
「ジェフ」
思い人の名前を口にする。縋るように、姿見に映る自分の姿を見つめる。だが、何も変わらない。彼女はもう一度ガックリと肩を落とした。
(あぁ。こんなんじゃジェフにふさわしい女になれないわ)
黒髪を一つに結び、滅多と履かないパンツに足を通す。トップスは持っている聖職者の服で一番新しい物だ。ボロ布に近い紅いストール。靴は、宿屋で貰った馬糞を踏んだあの靴。服を変えても、羽織をまとっても、彼女には、致命的に華が無い。
(私、すごく浮いてる)
トリトン村の若い女性、とりわけリーゼロッテと年の近い女性は、紅や白粉などをつけて、顔を装い、美しく飾っている。あの美しく飾ることを“化粧”という。彼女は、この村に来て、始めて知った。
(私もあぁなれれば)
リーゼロッテはそう思うも、化粧には道具が必要だ。勿論、彼女は一切合財持ち合わせていない。
(どうしよう)
彼女は悲しそうにトボトボと窓辺により、空を見上げる。すると、星が一つキラリと瞬いた。光の煌めきは、彼女に知恵を与える。口紅がなくとも朱を灯す方法をだ。
リーゼロッテは親指を口の中に突っ込む。口の中は、ねっとりと温かい。人肌のぬくもりの中、柔らかい親指の母指球に犬歯を立る。目を瞑り、そのままガチンと鋭い音をと共に、指の肉を喰らった。
焼けるような痛みが腕から脳内に響く。聖女の顔が歪む。ドロドロと粘っこい溶岩のような熱が口の中いっぱいに広がっていく。口から荒い呼吸が漏れる。口の端から、血と唾液が混ざったものが垂れ始めた。慌てて、前かがみになり、服が汚れぬよう、反対の手で皿を作り唾液を受け止める。部屋の中では、彼女の息だけが響いていた。
どれだけ、同じ体勢でいただろう。皿に溜まった唾液を床に落とし、机に汚れをこすり付ける。リーゼロッテは、ゆっくりと親指を抜いた。親指からは、血液が漏れている。血を月の光に当てると、アヌイの瞳と同じ美しい朱色に変化した。
彼女は、食いちぎった指を唇に這わせる。すると、一撫でしただけで、彼女の唇に紅がついていく。
彼女は、自分が変化するさまを窓越しに見つめる。青白い肌に映える紅。人の生き血が通ったような顔になった事を安堵した。
(よかったぁ。これで、ジェフに見せれる顔になったわ)
リーゼロッテは笑った。これが、彼女が始めてした化粧である。
誰にも気づかれぬよう、彼女は、息を殺し裏口のドアから出る。すると、ドアの前には自分の相棒が手綱を咥えて待っていた。
「アヌイ……」
リーゼロッテは囁くように名前を呼んだ。アヌイは首を縦に振ると、彼女に近づき、早く用意しろと言いたげに、鼻頭でつつく。
「散歩行くんじゃないのよ」
リーゼロッテは、アヌイと同じ視線まで腰を落とす。言い含めるようにロバの頭を撫でてみた。普段であれば、悲しげに背を向けるのだが、アヌイは厳しい表情を浮かべ、彼女の側から離れようとはしない。
「アヌイ」
リーゼロッテは、困った声でアヌイの名前を呼ぶ。月夜の下、緋色の目は妖しく、聖女を見つめる。
聖女はロバを説得しようと試みたが、言葉は出なかった。ジェフと共にこの村を去るといっても、アヌイは決して納得しない。
アヌイを無視し、ジェフの下へ行っても、アヌイは追いかけてくる。その結果は想像がつく。リーゼロッテは唇をかむ。なんとかして、アヌイを説得させたい。けれども、良い理由が思いつかない。苛立ちと共に、彼女は半ば荒々しくアヌイの頭を撫でる。
「分かってよ。アヌイ」
アヌイは何も言わない。それどころか、アヌイは怒りの表情を浮かべている。
「どうしたのよ。そんな表情して。大丈夫。もどって……」
リーゼロッテは次の言葉が出てこなかった。ここで、アヌイを置いていった場合、このロバはどうなるだろうか。リーゼロッテははっと息を飲む。
アヌイを置いて、村を離れた際、誰がアヌイの世話をするだろうか。聖女の置き土産として、快く世話をする者はまずいない。そうであれば、このロバに残された結末は残酷なものであろう。
アヌイの厳しい表情は、リーゼロッテの行動を予期したものであろう。アヌイの怒りの真意に彼女はようやく触れた。
(私は、なんていうことを……)
一人、残されたアヌイ。寄る辺を失い、月に向かってリーゼロッテの名前を呼ぶ。考えれば考えるほど、心はギュウギュウに絞られ、顔がクシャクシャに歪む。
今にも泣き出しそうな顔で、リーゼロッテはアヌイに抱きついた。
「ごめなさい。ごめんね。アヌイ」
リーゼロッテは、自分の身勝手な理由で村を捨てる。その責めはリーゼロッテに帰す事は許容できるが、アヌイに及ぶことは許されなかった。
「あなたを置いていかない。あなたは、私と一緒よ」
リーゼロッテの人生の大半は、アヌイと共にある。聖職者としての人生はアヌイと一緒に始まった。たとえ、聖職者を辞めるとしても、アヌイと共にない生活は想像できない。
アヌイを抱きしめるたびに、リーゼロッテは日常を感じる。お香の人工的な匂いとは異なる、生き物特有の篭った香り。凍えるような修道院内とは異なり、太陽の光を一杯に浴びた温かさ。フワフワと零した涙を受け止める柔らかい毛立ち。
アヌイは、リーゼロッテの不安や悲しみを全て受け止めた。アヌイが持っている香り、感触 温度。それら全ては、リーゼロッテの日常だ。
「アヌイ。一緒に来てくれるよね」
ロバは、ロバらしく鳴いてみせた。
「もう、ここには戻ってこれないよ」
アヌイはもちろんと頷いた。
「貴方は死ぬまで私と一緒になるのよ。それでもいいの?」
アヌイは何を今更と、リーゼロッテに突進する。じゃれあう痛みに、彼女は笑った。
「良し。泣き言言っても、絶対に聞かないんだからね」
リーゼロッテはいつのように、アヌイの口に轡を噛ませ、手綱を引く。アヌイはそうでなくちゃ。と言いたげな表情でリーゼロッテを見上げた。
「行こう! アヌイ」
その一言は、外出する時の決め台詞。。アヌイはその場で回ると、駆け出した主人と一緒に、夜の中の村に飛び出して行った。




