初夜編 深い眠りから覚めたなら12
彼女は、大いなる意思の吐息を感じ取れない事に困惑した。絶えず、自分の隣にいて、当たり前のように存在していたものが無くなる。人は、当たり前を失うと、そのありがたさを知るという。けれども、彼女の場合は、大いなる意思の吐息を感じれなくなった事で、大きな不安を覚えた。つまり、彼女は寄る辺がなかった。彼に「寄る辺がない」と言っても、彼女も無いのだ。
互いに、寄る辺が無い。その中で、彼女はオリヴァに大いなる意思の片鱗を見た。
自分の知らない事を知っている。同じ立場から、降り注ぐように、知識を与える。無知に知を与えるのは大いなる意思の優しさ。彼女は、そう“知らされて”いた。
彼女の知らない聖剣書の一説。彼の言葉を聴き、彼女は大いなる意思の吐息を感じた。そうして、彼女は頬肉を喰らった男が大いなる意思に見えた。
突如として現われた寄る辺に、彼女は身も心も委ねた。そのような時が訪れれば、“そうすべき”であると教えられたからだ。
以上。これらは全て彼女の思い込みである。
無知は、己を深く傷つけるのだ。
女の顔がオリヴァの顔に引き寄せられた。吐息と吐息が重なり合う距離。そのような距離。自然と女は息を殺す。その時であった。
オリヴァは、女の鼻頭に、自分の頭を叩きつけた。
ゴンと硬いものと硬いものがぶつかる音。オリヴァの頭は、女の顔に少しだけ埋もれる。
鼻骨がぐにゃぐにゃとぐちゃぐちゃと音を立てて軟体動物のように変化する。
骨の下では鼻に通る血管が弾かれるように断裂した。
オリヴァは、一度のみならず、二度三度と女の顔に頭突きを入れた。タラリと鼻から零れる血液は、彼が頭突きをする度にブシュッブシュッと勢い良く噴出する。
「ンギィィィィィ」
女は、声にならない声をあげ、オリヴァを突き放した。
土と血と垢で汚れた手で鼻を抑える。女の目には涙が浮かんでいる。痛みと悔しさだ。一瞬でも、彼を、自分の大切なものに重ねた事を彼女は心の奥底から公開する。
(コイツはコイツはコイツはコイツはああああああああああああああああああ)
瑞々しい緋色の目がオリヴァを睨む。フンと鼻息に混じり、鼻血が指の隙間から零れる。女は感情豊かに目で訴えるも、体は正直だった。脚と腰は、オリヴァから距離をとろうと図っている。せわしなく小刻みに体が震えている。オリヴァは、彼女の挙動に注視していた。そして、彼は確信していた。彼女は、きっと本能に基づく行動を取るはずであると。
事実、彼の予感は正解である。彼がそう思うや否や、女の足がジリッと音を立てて、一歩後ろへ下がる。呼び水でないかとオリヴァは脚さばきを注視する。もう一歩、彼女は下がった。下がるたび、地面には赤いしみが付着する。女の腰が下がる。力を込めるための垂直の下がり方ではなく、すぐにこの場から逃げ出せるよう、重心を下げる動き方であった。
(今に、賭ける)
オリヴァはカードを切った。女のまいた疑似餌かもしれないという不安をオリヴァは、振り払った。もたれれかけていた大樹から体を起こし、跳び出した。
痛む足を引きずり、彼は、女の元へ跳ぶ。一歩 二歩と二人の距離が縮まると、女は逃げるように後ずさる。彼に背を向けて走れば、彼女は彼を振り切ることが出来る。それなのに、彼女は、オリヴァから背を向けて逃げ出せなかった。一つは、彼に背を向けた時、背中に走った痛みのせいだ。
もう一つは。そう紡ぐ前、オリヴァは腕と指を真っ直ぐに伸ばした。何かを掴むようなはっきりとした意思があった。女は、オリヴァを見ていた。けれども、視線は彼ではなく、彼の人差し指を見ている。キラキラと輝く光。どのような場所でも自分の存在を知らせるかのように輝く星のようだ。
「あの星はね。示星。どこにいても、どんな場所でも、私たちの頭上にあるお星様。私たちの中心にあって、私たちの物語を見つめているお星様なのよ」
女の脳裏に、見知った顔が浮かぶ。自分の髪を撫で、優しく夜空に輝く星の中で、一等、キラキラとまばゆい光を輝く頭上の星を指差した。あれは示星。そう教えてくれた女性の横顔。示星の輝きとオリヴァの人差し指の輝きはとても良く似ていた。
彼女がオリヴァに背を向けられなかったのは、彼の光に背を向ければ、彼女が教えてくれた示星に背をむけてしまうような気がしたからだ。
そのような優しい追憶も、鈍い痛みと共に幕を閉じる。
「ろっほんへ」
女は目を見開き、体をくの字に曲げる。口を開き、今にも泣き出しそうな目で虚空を見つめた。途端、彼女の顔には汗が浮かび上がる。
オリヴァの人差し指が、女の下腹部にずっぽりと埋め込まれていく。ズブズブと泥沼に嵌っていくよう、彼の一部が女と一体化していった。
子宮をズンズンと掴まれるような不快感。内部からの侵入を許したこともないのに、外部からの侵入など初めてだ。彼は、このまま子宮まで掴むのではないかと思うと気が気ではない。そう思うと、ゾワゾワと毛虫が這い上がるような悪寒が走る。
回復修正不能で致命的事態が眼前に迫っている。
(やめて)
彼女は、初めてオリヴァを拒絶した。女という生き物の本能が、目の前の生き物を嫌悪する。次世代の可能性が潰える。“赤るい”未来がグチャグチャに踏み潰されている。
自然と、女は顔をのぞける。天に声にならない言葉を唱えた。それは、金魚が空気を求める姿に良く似ている。女は、自分の首に震える手を這わせる。鬱蒼と茂る木がザワザワと動く。枝葉が揺れた後、騒がしい音にまぎれて、鳥がどこかへ飛びだって行く。僅かに差し込む光が万華鏡のようにユラユラと艶かしくクルクルと形を代える。すべてが、彼女の言葉への返事であった。恐怖に彩られていた緋色の目が再び胃意思を取り戻す。
(弱気になるな。弱気になるな。私。だって、今日は6日目。きっと。大いなる意思が私を助けてくれる。苦しい時は、あの方はいつだって私たちの傍にいる。そう教えてくれた。だから、怖がるな。私)
女の手に力が篭る。こみ上げる恐怖を彼女は、自分の手で押し殺す。目尻から涙を流さないのは、彼女なりの、反抗の証だ。
オリヴァは、女の視線が自分ではなく、虚空を見つめていることを確認すると、すぐさま、下腹部から指を引き抜いた。
女の肩を掴むと、血がぷっくりと盛り上がる傷口目掛けて膝を叩き込んだ。
「ヴェヴェエエエエエエー」
のけぞっていた彼女の体が再び「く」の字に曲がる。
「ゴヴゥエエェェ」
胃袋から生臭い空気が零れる。
オリヴァは、無抵抗な彼女の腹を何度も何度も蹴り続ける。女は、ゲェゲェと空気を唾液を零していく。それでも、胃の中のものは決して零さぬようこらえている。
(これは、大いなる意思の六日目の証。絶対に。絶対にいいい――)
女は、目をつぶり、オリヴァの攻撃に耐える。
だが、ただ蹴られているだけの女ではない。彼に抗うよう、顔めがけ、でたらめに拳を叩きこむ。にゴリ ゴリッと削る感触があった。だが、決定打ではない。彼女が叩けば、オリヴァは腹を蹴る。鈍痛と吐気、不快感を振り払うよう、彼女は大きく拳を振りかぶった。
すると、薄い皮膚越しに彼の顔の骨が砕けた感触があった。その証拠に、オリヴァはうめき声を上げる。サンドバッグのようにたたきつけられていた膝蹴りがピタリと止まる。
女は、恐る恐る目を開く。すると、そこには彼女と同じよう、鼻が歪にオレ、顔の中央からボタボタと鮮血を噴出する男がいた。
彼は、鼻を押さえることも、拭うことはしない。
女は、彼の顔を見る。自分と同じよう、血走った目には、相手に対する情は何も無かった。
オリヴァは、女がしたように、自らの拳を腹部に叩き込んだ。
彼の拳が柔らかい腹部にのめりこむ。
胃袋は、確かに持ち上げられた。
何度も攪拌された胃袋は限界だった。女の顔がおたふくのようにぷっくりと膨れ上がる。
オリヴァが手を離すと、女は自然と膝を着き、頭を伏せた。
「ボベバアアアアアアアアアア」
逆さづりにされた胃袋は、内容物を全て吐き出した。カタルカの血も、少し摘んだ馬の鬣も、オリヴァの頬肉も。一部は消化されかけており、何がなんだかわからなかったが、吐き出されたものは、人間の一部で、馬の一部であった。
地面に液体が広がっていく。長くすだれのような髪を赤く染めていることに気づいていない。もちろん、オリヴァの足元を汚していることだって気づいてはいない。
彼女ははき続けた。ありとあらゆるものを吐いた。
吐いて 吐いて 吐いて。
いつしか、彼女の体制は四つんばいになっていた。
「オヴェ、オッオッヲヲッ。オヴェアアアゲエアッ」
女は、痙攣するように吐き続いている。
オリヴァは、女の背に片足を乗せ、四つんばいになっている魔獣の頭を汚れた足で躊躇なく踏みつけた。
足裏ごしに、ベシャッと嫌な音がする。吐しゃ物の中にダイブした音だけではない。
魔獣の体は、別の意味で小刻みに震える。
オリヴァは何度も魔獣の頭を踏み、馭者が手綱を引くよう、魔獣の長い髪を掴み上げる。
ネチャァといやらしい音の後、魔獣の顔がご開帳となった。魔獣が鼻息を鳴らすたび、血に混じった何かが地面にピチャッと落ちていく。そのような様をオリヴァは音だけ聞いていた。
「ユユユユユユユユユユユ」
奇怪な声を上げ、女はイヤイヤと首を横に振る。
「コヒュウウウウウウウコヒュウウウウウウウウ」
魔獣は、自分に何かを言い聞かせ、力を込める。ピーンと張った黒髪は、力と力の拮抗に抗えず、ブチブチと音を立てて千切れていった。風に流される髪を見送ることも無く、魔獣は四肢を奮い立たせる。
互いに満身創痍。条件は同じ。だが、力比べなら魔獣に分がある。そして、自分の有利を魔獣は認識している。だが、状況は拮抗しているのは、何故かと問えば、魔獣の応えは自分の弱さ。痛みに負けている弱さと決断した。
魔獣が力を込めると、四肢は地面に埋もれていく。叫び声を上げ、オリヴァから逃れるべく、首を右へ左へ、体をクネクネと動かす。
その甲斐あってか、一瞬、オリヴァの力が弱まった。魔獣はこれは好機と体を捻る。
その時、彼女の目の前を桃色の鞘が飛んでいった。
尻尾を喰らう蛇が描かれた鞘である。
(ユユユユユ?)
見たことのない鞘に彼女の視線は泳ぐ。カタンと音を立てて、鞘が落ちていった。そして、次の瞬間、足首から下の感覚が嫌な音を立てて消えていった。
魔獣の下半身がバチャンと音を立てて沈む。だらしない体勢に魔獣はおかしいおかしいと思うも、体は言う事を聞かない。
(ママママママママママ?)
混乱する魔獣にオリヴァは容赦しない。再び髪を掴む力が強くなる。
「おほはしふひへほ」
オリヴァは抜き身の剣をちらりと見やる。
「うほへはよへひにひはふほ」
その言葉を言い終えぬうちに、彼は、魔獣の腰部目掛けて剣を突き刺した。
剣先の鋭い痛みに、魔獣は暴れだす。
一方、その痛みとは別に、剣先からは淡い光が零れている。
ピンク色の鞘
自分の尻尾を喰らう蛇。
これは医者に与えられた紋章である。医者のみが有する紋章が刻まれた鞘。
それは、命の剣の証拠であった。




