初夜編 深い眠りから覚めたなら11
「貴方は愛をご存知ですか?」
女は、オリヴァの首根っこを掴む。ズルズルと引きずりながら説教を始めた。
「愛とは、慈しみあう心。相手を慕う感情と言われていますが、大いなる意思は、愛とは、慈しみ、人間の救いの為に、自らを与えることだと述べています」
オリヴァの体を巨木に叩きつける。幸い、先ほどのように、彼の腰部丈の高さに枝はない。彼が呻くのは、老木特有の余裕のない木の硬さのせいだ。
「貴方は、誰かを慕う気持ちを持っていますか? 誰かに自分の身を捧げたいと思ったことはありますか?」
大木にもたれる格好で、オリヴァは女を見つめる。首を縦にも横にも振らない。
「そうでしょうね。もしも、貴方が誰かを思う気持ちがあれば、カタルカさんはあのような結末はありえませんでした。そのせいでしょうか。私には貴方は愛を知っても、愛を識らない人に見えるのです。いいえ。愛とか、人の優しさなど一切に目をつぶっているような気がします」
女は、形の上ではとても悲しそうな表情を浮かべている。だが、彼女の言葉には重みがなかった。予め、オリヴァの反応は「そうなのだろう」と想定し、平易な言葉を述べているようにしか過ぎない。
聖職者が行う、身振り手振り。言葉の終わりに使われる「大いなる意思に感謝を」という言葉。どれ一つとっても、彼女は薄い。
聖職者とは、俗世にまみれ、欲も情も知り、言葉を紡ぐので発言に重みを得られる。とオリヴァは考える。一方、彼女は欲だけがはっきりし、情は見えない。いや、彼女が有する欲ですら、「大いなる意思の思し召し」と口にする。彼女は、俗世を知らないのだ。
(故に、軽い)
響く心がないオリヴァは、女の説法に飽き飽きとしていた。
「貴方は語りませんね」
オリヴァは彼女の問には応えたかった。だが、答えたくても頬の肉がえぐれている人間がまともに話せるはずがない。
女は、わざとらしくため息をついた。
「そうですよね。はい。私は決めました。次の6日目まで、私は貴方を生かします。貴方に愛を教えます。貴方の肉が削がれていく中で、私が貴方に"救いたい。教えたい。伝えたい”という気持ちがどれだけ崇高なもので、大いなる意思の愛が、貴方の魂の汚れを落としてくれるのか。知ってもらいたいのです」
(よく言うぜ。このバケモノが)
オリヴァは女の救済論を鼻で笑いたい気分であった。
(俺を救いたい? アホを言え。俺はオマエを殺したいんだ)
だが、思うだけでは何も進まない。オリヴァが女を殺したいと願うならば、相応の行為が必要となる。
彼は表情を変えず、女の言葉に耳を傾けるふりをした。
(軽々しく大いなる意思を認めた。と言ってもアレは気を抜くタイプではない)
オリヴァの表情をどうとらえたのであろう。女の身振り手振りは大きくなっていく。彼女は自分の説法にのめり込み始めた。オリヴァを中心に木の周りをグルグル回り始める。
一瞬、オリヴァは自己陶酔に入った彼女を急襲しようと考えが浮かんだ。だが、距離が問題である。彼が渾身の力で飛び掛ったとしても、彼女には届かない。
一方、女には脚力がある。オリヴァの急襲に気づけば、あっという間に彼の懐に飛び込むことができる。おまけにカタルカを殺害する際に見せた瞬発力。彼を屠った腕力。誰が見ても、彼女は圧倒的優位な場所に立っている。不用意に急襲することは得策ではない。だから、急襲案は取り下げとなる。
武力が求められないのならば、計略を選ぶしか無い。
(だが、所詮は女。そそられるものがあればホイホイとやってくる。あいつにとってそそられるものがあれば)
そのような思案を重ねる中、オリヴァは一つの事を思いついた。
(悪くはない。これならば、あれはそそられるだろう。だが、俺の知識は浅い)
オリヴァの頭の中でパチンパチンと珠をはじくような音を立てながら成功率を計算する。彼の中で、その案は成功率は高く算出されなかった。一方、試す価値は高めにはじき出された。
(若い女の説法は初歩的。田舎の焼付の知識なら、俺のほうがまだ知っている面もある)
心の中でオリヴァの顔がいやらしく歪む。
(こんな目に合わされているんだ。コイツで殴りかかるのが一番ダメージがでかいはずだろう)
オリヴァの顔がズキズキと音を立てて痛む。ズキズキと立つ音の裏側には彼女に対する恨みつらみが副音声で流れる。痛みと妬みが彼の心をもり立てていく。
(そうだ俺はここで終わるわけにはいかない。キルク様に。あの方の下へ戻る為。筆頭侍従に戻るためにも、俺はこの村で実績を上げなければならない)
オリヴァは自分の心を鼓舞する。彼の目的は、目の前の魔獣を殺すことではない。筆頭侍従に戻ることだ。ただし、その為には、ベルと共に、トリトン村の初夜権の実態を知ることが必要である。魔獣殺しは、経緯の一つにしか過ぎない。
オリヴァの心に光が灯る。目的と手段を彼は忘れていた。彼がなすべきことはなにか。偉大なる目標を忘れていた彼に、僅かな時間であるが、落ち着き考えさせるには良い時間でもある。
覚悟は決まった。筆頭侍従に戻るため、彼は一歩を踏み出した。
「はいは、ひほりへつふらへはい」
突然、オリヴァの口が動いた。光が灯った瞳を上げ、彼は聖剣書の言葉と紡ぎだす。頬の肉が抉れた口を動かし、聖剣書の言葉をたどたどしい口調で話していた。彼の言葉を耳にし、彼女の足が止まる。その表情は憂色を湛えた。
「貴方。喋れるの?」
突然のことに、女の顔は混乱し、泣き出しそうな声を上げた。オリヴァの顔、 空 地面、様々なところに視線を動かす。落ち着きを失ったのは彼女の方であった。何も喋らなかった男が、聖剣書の言葉を紡ぐ。
聖剣書の言葉は、聖職者と一部の者しか知らない。彼女にとって、聖剣書の言葉を知っていることは、数少ない特権だ。だから、オリヴァの言葉に動揺した。彼女が、彼の素性を知っていれば、反応も異なっていただろう。
彼女は、オリヴァを餌、不敬者としか認識していない。そのような人物が聖剣書の言葉を知っている。そう思った途端、彼女の中で彼は得体の知れないものとなった。
そうして、彼女はオリヴァの瞳の奥で揺らめいていたものは恐ろしいものである事に気づいた。
「大いはるひしはひっは。わはひをおほへふのはひへのはひまひ」
風が右から左へ流れていく。この言葉は、女の知らない言葉だ。女はガマンできなかった。《《習っていない》》言葉は、彼女の好奇心を掻き立てる。彼女は、一歩 二歩と足を進め、オリヴァとの距離を縮める。そして、彼女は腰を下ろして、膝を付き、オリヴァの顔を覗き込む。
「教えて! それは何の話なの? 私は、その言葉を聴いていない」
彼女は必死の形相であった。知識を求める敬虔なる者の姿であったといっても良い。彼女は両手を胸に当て、黒髪を振り回し、オリヴァに続きを 続きを飛沫を飛ばしながら、彼に教えを希う。だが、途端に彼の口は閉ざされた。もったいぶるように彼女に視線を送るだけだ。
「何故黙るの? あの方の言葉は、愛の塊。あの方の言葉を知らぬ者に言葉を届けるのも、私たちの重荷。だから、お願い。私にその言葉を教えてよ」
「フへいほほほほとはへほよひのは?」
「貴方は、あの方の言葉を知っている。それならば、不敬者なんかじゃないはず」
「ひひひゃ。わはひはふへいほほへよひ」
オリヴァの心の中は安堵した。彼が考えた策。それは、彼女が語る聖剣書のもう少し先の章の話をオリヴァが語ることだ。彼女が乗れば、また先の話をして、問答をすれば良い。そうして、彼女の心を解していく。
もしも、知らなければ。聖職者でもない者が聖剣書の言葉を知っているということで彼女はオリヴァに食いついてくる。それは興味、関心だ。その興味関心をもって、彼女の心を解し、無防備に距離を縮めさせるのだ。
結果として、彼女の状態は後者だ。オリヴァの言葉に、女は食いついた。彼女の顔は目と鼻の先にある。安堵した途端、心はバクバクと動き出す。次は、安堵した彼女に次の一手を叩き込むこと。要の手がピクピクと出番を待ち構えている。
最良の手は、さとられずに決められること。そうでなくても、不意打ちを与え動揺させれば、オリヴァのものだ。
けれども、彼の予想はここで大きく崩れるのであった。
「……貴方はもしかして大いなる意思ですか?」
彼女の発言は予想外のものであった。彼は目を瞬かせることしか出来ない。しばらくの後、表情は変えなかったが、彼は心の中でゲラゲラと腹を抱えて笑っていた。吹き出しそうな気持ちを抑え、平静を装い口を開く。
「なひぇそうおもふ?」
「だって、私は貴方の知らない言葉を知っているから。教えてくれるからです。大いなる意思は無知なるものに導く言葉を与える。貴方の言葉は私の知らない言葉。だから、私は貴方を大いなる意思じゃないかと思うのです」
真っ直ぐな緋色の眼差し。彼女はとてつもない事を言っているが、至極当たり前のようにオリヴァに語りかける。オリヴァは彼女の問いにもちろん答えはしなかった。そのかわり、きれいな手で女の頭を優しくなでた。何日も洗われず、櫛で漉いた形跡も見受けられない。不潔極まりない頭を、オリヴァは何も言わずこちらへ引き寄せる。
女の白い肌に、朱が灯る。血液がグルグルと駆け回っていく。彼女の体は、回れば巡るほど、体が熱くなっていく。ドキドキと高鳴る心臓に女は静かに目を閉じた。
(私は、この方にとてもひどいことをした。そんな私にこのような事をしてくださるなんて。慈愛に満ちていなければこのようなことはない。そうよ。きっとこの人は大いなる意思なのだ)




