初夜編 深い眠りから覚めたなら08
「愚か者……だと」
彼女の一言に、オリヴァは慌てて彼女の髪の中から手を引っこ抜く。彼の指は赤く濡れそぼっている。
彼女は、彼の指に付着しているのが何かようやく理解できた。背部がズキンズキンと太い釘を打たれたかのような痛みが走る。赤い痛みが点滅する。オリヴァの言葉が、彼女の脳内で反芻された。
―大いなる意思は、所詮聖職者共の飯のタネ―
彼女は激怒した。自分の愛する"大いなる意思”の事を目の前の男は侮辱した。自分の愛する者を否定された。
彼女はくるりとオリヴァと相まみえる。彼女の動きに合わせ。黒い髪が裾の長いスカートのようにふんわり やわらかく膨らんだ。
白い肌 緋色の瞳。そして、乳房と乳房の間に不自然に染められた黒いシミ。
「フォオオおおおおおおお」
魔獣は叫んだ。両手を地面につけ、爬虫類のように、腹を地面に近づける。
「オオオロカモノオオオオオオオオオオオオ」
太いだみ声だ。聖歌を歌う清らかな声はどこかへ消えていた
「うるさい。耳障りな声だ」
オリヴァの心底軽蔑する声に、彼女は、薄紅色の歯をむき出しにする。
鼻息は荒く、白い顔を左右に動かす。その度に、ポキリ ポキリと首から骨の軋む音がした。
「私がこの村に来て6日目? いい加減、この村の慣習に飽きてきたな」
オリヴァは、腰に下げている剣の柄に触れない。太ももに、血で汚れた指をこすりつける。
魔獣が体勢を低くするように、彼も腰を落とす。
「TOおおおウウううぞ」
低くこもった声。話すスピードのバランスは失われている。不自然な抑揚。言葉のアクセントもてんでバラバラ。彼の眉間に皺が寄る。彼は、彼女のこの語り方がひどく不快だ。
長時間、このような喋り方を聞かされ続ければ、彼の神経はすり減らされる。それは、不快という剃刀が、彼の神経を削ぐような所業である。
彼は、はっきりと、不快感を顕にした。
「言いたいことはさっさと言え」
オリヴァの言葉に、魔獣は目を針のように細めて応えた。
「オマエの ナアアアマアアアエハアアアア」
魔獣の声に、再びあの声が混じる。
ケダモノ セイケンノカゴ
(またかよ)
不自然に繰り返される旅立ちの儀の声。中年男の声が、オリヴァの耳元にへばりつく。魔獣の声と中年の声。
ケダモノ セイケンノカゴ
獣の聖剣の事である。とオリヴァは考えているが、何故、その言葉が今繰り返されるのか、理解ができない。
彼の額からツゥと冷たい水の珠が落ちる。手で拭うと、水の珠をたくさん潰していたようで、ぐっしょりと濡れている。短く切りそろえられた髪も汗で濡れている。
(落ち着け。今はあのクソったれの事は関係ない。世迷言に騙されるな)
オリヴァは心を落ち着けるべく、息を落とす。
「名前を言うバカがどこにいる」
オリヴァは平静を取り戻すように応えた。自分にまだ余裕があると言わんばかりに、左の口角だけを上げ、鼻息をもらう。もう一度、彼は魔獣を低俗な生き物として見下した。
「フケいいいいいいいいいいいいいい」
魔獣は首を上下左右に激しく振り、一歩後ずさりをする。硬い足の爪先をとアキレス腱がピーンと一本筋のように伸びる。
彼女の重心は、徐々に爪先から肩へ移動する。それ以上重心を動かせば、前のめりになり、倒れる。その寸前、彼女の体は文字通り弾丸のように走り出た。
蹴り上げた衝撃で、カタルカの頭はありえない角度に曲がってしまった。
低い上体はすぐに上がる。上体が上がりきった。その瞬間、彼女の体はトップスピードに乗っている。その証拠に、長い髪は地面と平行に揺らめいている。歯を食いしばり、顎を引き、緋色の瞳が一人の男を見据える。細い瞳の中に映る男は、相変わらず人を小馬鹿にした笑顔を浮かべていた。
「こうもわかりやすいと助かる」
彼は、顔から突っ込む魔獣にもう一度強がりな冷笑を浴びせた。
冷笑を合図に、魔獣は飛び上がる。太陽を背に隠し、大きく反る体。揺れる乳房を気にすることはない。細い腕を引き、絶叫と共にオリヴァに殴りかかろうとしていた。
一方、オリヴァはそれでも動かない。自分を殴ろうとする魔獣を黒い瞳が捉えてもだ。
オリヴァも魔獣も、ゆっくりと流れるときの中で、互いの動きを探る。
殴る か 流すか
殴る か 受け止めるか
はたまた別の行動か。
見えないカード。魔獣だけが手の内を見せている。このまま、彼が動かなければ、魔獣渾身の握りこぶしが彼の頬を打ち付ける。そのようなわかりきった未来を、人の悪い彼がなにの理由もなく受け入れるだろうか。いや、受け入れない。
オリヴァの耳に、拳が空気を切る音が届く。
音を合図に、オリヴァはカードを一つめくった。
ザンッ
砂利が浮いた。空気を割く音がした。
オリヴァは、体をねじり、足の甲が狙いを定める。殴るかかる腕と反対のがら空きな横顔。オリヴァの足の甲は、ブレることなく、魔獣の横顔を蹴り上げた。
下から蹴り上げる衝撃。魔獣の顔は左から右へ。だるま崩しのように歪む。
スピードとパワーをまとった体が打ち破られる。その衝撃は以下ほどのものだろうか。また、彼も同じである。力の塊である魔獣を片足一本で蹴ったのだ。彼の体内にも電撃のような衝撃が恥じる。足から脳天に響く音は、自分の一部が破壊されたことを認識させる。
―指か? 甲か。イってしまったものは仕方がない―
魔獣の体は軌道が変わる。握り拳は力なく、手のひらに戻る。そして、殴ることもできず、無残に墜落した。
顎から落下し、うつ伏せのまま痛みに悶える魔獣。彼は、そんな事お構いなしだ。足を引きずり、痛みをこらえ、魔獣の無防備な横っ腹にかかとからケリを入れた。
「ぐぇっ」
ヒキガエルのような鳴き声と共に、魔獣の体が仰向けになる。
魔獣の顔は無様なものだ。左頬は青白く変色し、頬骨が隆起している。口元には新たな血がにじみ、丸みを帯びた顎は、肉がえぐれている。
オリヴァは爪先で、魔獣の腹部の上で8の字を描く。苦痛の表情を浮かべる魔獣。赤く汚れた口から溢れるのは、言葉にもなれなかった音。音に紛れて、また不穏な声が彼の耳に届く。
―ケダモノハ ケダモノハ ソコニイル―
再びあの声が聞こえた。沸き立つ苛立ち。感情を隠すようにして、オリヴァは勢いよく、彼女に馬乗りになる。
「ブゴッ」
魔獣の口から血なまぐさい息が押し出される。喘ぎながら、苦悶の表情を浮かべる魔獣。苦しんでいる。そう思った時、彼の耳からあの声が消えた。魔獣は、フゴフゴと言葉を口の中で咀嚼している。苦しみながらも、頭上から注がれる視線を真正面から受け止める。
その真っ直ぐな心意気にオリヴァの心は更に苛立つ。
―バケモノならば、バケモノらしく狂えばいいものの―
「色々と聞きたいが、さっさと死ね」
オリヴァは気持ちを押し殺し言った。言葉と共に、オリヴァの手が上がる。血に濡れていない手であった。鋭くピカピカと光る指。
魔獣は、恐怖を怯えた。指の輝きがとても眩しかった。あの光は、自分の命をかすめ取るものだと思ったからだ。恐怖から目をそむけるように、手の背後に見える男の顔を見つめる。オリヴァの顔を見つめると、魔獣の中に大部分を占めていた恐怖が引いていく。手の輝きは怖いが、男は全く怖くないのだ。彼の瞳には光が無いからだ。
何故、光が無いのか。魔獣は、自分に光があると信じているが、彼にはない。
彼女が、自分に光がある思う理由。
大いなる意思は、6日目に彼女に食事を与えた。前回は雷の音を恐れ、自警団の強襲のせいで食事にありつけなかった。しかし、大いなる意思は、彼女にあの日も、その前の6日めも、必ず食事の機会を与えている。大いなる意思は、生きている者との約束を守っている。例え、目に見えなくとも、大いなる意思は自分のすぐ近くにいると思えた。
魔獣は一人ではない。一人でいると思い込み、光を亡くした眼の前の男より、"マシ”である。そう思うと、まったくもってこの男が怖くなくなった。
魔獣の口元がオリヴァと同じように、見下して笑った。
オリヴァの手が魔獣の喉めがけてまっすぐ落ちる。
自分の命を屠ろうとする手を魔獣は片手で掴む。
そして、反対の手で、オリヴァの顎めがけ掌底をぶつけた。
「ぐっ――」
魔獣からの反撃。顎から伝わる力に、オリヴァの体が魔獣の体から浮く。
オリヴァの体が反る。魔獣が墜落までの時間を長く感じたように、彼も体をしならせて、時間の流れをゆっくりと感じた。言うことの聞かない体。困惑するオリヴァを横目に、魔獣は、彼の体からスルリと抜け出す。
再び自由を手に入れた魔獣。弓なりの体に、間髪入れず、彼の首に手刀を叩き込んだ。
「カッ――」
首をかばうことはできず、オリヴァは不格好に側頭部から大地へ落ちる。土砂が舞い、派手な音が立つ。
魔獣は四つん這いのまま、彼の格好を鼻で笑った。
自由の効かない足。司令塔の脳みそは激しく揺さぶられたことでスムーズな命令ができない。弛緩ぎみの体。オリヴァは腕を伸ばし、せめて体を立たせようと土を掴む。だが、掴むのは、草でも大地でもない。爪に砂をねじり込むだけなのだ。
芋虫のように這いずり回るオリヴァ。魔獣は四つん這いから二本足で立ち上がる。
薄ら笑いを浮かべ、彼女はオリヴァの元へ寄る。
そして、彼の短い黒髪を雑草を引き抜くように持ち上げる。
自分の顔の高さまで顔を引き上げる。三日月の形をした緋色の瞳がオリヴァを捉えた。
「大いなる意思よ。前回の食事をまた与えて下さりありがとうございます」
艶かしく、ドブ川のような吐息がオリヴァの顔にかかる。白く低い鼻頭が、オリヴァのライトオレンジ色の鼻頭に重なる。その行為が何を意味するのか。教えるように彼の脳裏にある人物が映る。
魔獣は体臭がドブ川のように臭い。
浮かんだ人物は、性格がドブ川のようにひねくれた女性であった。




