初夜編 深い眠りから覚めたなら05
魔獣が、馬の頭頂部に墜落した。灰色と黒の斑模様をした人間よりも大きな体。四肢は長いが、四肢を支える蹄は狭い。狭い面積では、頭上からの衝撃を抑えることは出来ない。
馬の体が前倒しになる。
馭者は、思わず手綱から手を離した。馬と人間を繋ぐ接点は失われた。
馬が背後に立っている人間を蹴り飛ばすよう、彼の体は見えない馬と魔獣の力で放り出される。放物線を描く彼の体は、巨木にぶつかり、木と枝と一緒に崩れ落ちた。
オリヴァは突然の事で、すぐに反応できなかった。だが、途端と周囲に立ち込める悪臭が彼を正気に戻す。正気に戻ると、脳内でパラパラとページがめくられるように思い出されることがある。
(この臭い……)
彼は、この臭いに覚えがあった。
物が腐り、酸味のある腐卵臭。そして、目につく痛み。
イヴハップ王の旅立ちの儀で出会ったあの中年男性が放っていた異臭だ。
(何故、この場所で……)
オリヴァは、今でもあの光景を思い出す。夢にまで出るぐらいだ。
(あいつが居なければ。あいつがいなければ。あいつがいなければあいつがいなければ)
オリヴァの目の前にいるのは、黒い毛むくじゃらの魔獣。だが、彼の脳内を占めるのは、あの中年男性の事だ。彼は、オリヴァ没落のきっかけである。あの騒動がなければ、オリヴァは筆頭侍従のまま、キルクに仕えていた。このような僻地に派遣されることもない。おまけに、好きでもない女と唇を交わすこともなかった。
ベルとのあの事件を思い出すだけで、生理的にえづいてしまう。
(俺は、戻らなくてはならない。この村で初夜権の存在を確認し、コルネールに報告しなければならない。その為にも、このバケモノを糞田舎民共に叩きつけなければならない)
オリヴァは、息を落とす。喉元をぐるぐると走る熱い想いが音を立ててヒューヒューと冷めていく。冷めていた思いは、やがて小さな石となり、胃の中でストンと落ちていく。そうなる頃には、カッカしていた彼の脳内も涼やかになっている。
(まずは、あれがエイドのいうバケモノかどうか確認しなければならないな)
オリヴァの目が細くなる。最初の一歩に迷いはなかった。
「大丈夫ですか?」
オリヴァは、馭者に声を掛ける。巨木の下に倒れていた馭者は、打ちどころが悪かったのだろう。彼の顔はひどいものだ。顔面はこげ茶色をベースにし、顔の中心から鼻血がサラサラと彩りを加えている。米神も切っているようで、血液の珠が顎のラインをつたい、大地へ還っていく。
傍から見ても、彼は血を流しすぎていた。馭者は、地面に腰を落としたままである。手は血を拭うばかりで、体を支え、立つ気配はない。
「馭者さん」
オリヴァの二度目の声に、馭者はようやく反応した。
「おぅ。生きちょるばい」
彼はそう強がると、地面に色のついた唾を吐き捨てた。
(最悪だ)
オリヴァはそう思った。彼は、馬の体を避けるように馭者の元へ駆け寄る。
そして、すれ違いざま、チラリと馬を見た。
馬も完全に息絶えている。細長い顔が、地面に突っ込んでいた。
鼻頭から口元は熟しすぎた赤い果肉のように水々しくはじけている。頭上からの墜落のせいで、耳と耳の間は凹み、濃い灰色の毛は濡れそぼっている。
おまけに、頭に響いた衝撃を外へ逃がそうとした結果だろう。馬は涙を流し、球体がてんでばらばらな場所で何かを認めている。
そんな異様な光景の中、魔獣は馬の鬣にしがみついたままピクリとも動かない。
オリヴァは魔獣と馭者を交互に見つめる。魔獣から沸き立つような臭いに逃げるように、すぐに馭者の元に向かった。
「馭者さん」
「悪かばいね。油断しちょった」
馭者は、自虐めいた笑いを浮かべる。オリヴァは、何も言わず、黙って彼に肩を差し出した。馭者は、もう一度笑うと、オリヴァの肩にもたれかかる。
自分の体にかかる負担に、オリヴァは息を漏らす。だが、その吐息は自分のものではないといった繕った表情を浮かべる。
「とりあえず、今は安全な場所へ」
馭者は、何も言わない。足を引きずるようにして走り出した。
(最悪だ)
オリヴァは再びそう思った。
彼が、今そう思った理由は2つある。
まず1つ目。
それは、戦力なりあえる馭者がこうして怪我をしている事だ。
後述するが、馭者は、魔獣討伐に際し、戦力になると思しき人材だった。その人物が、人の肩を借り、逃げなければならない状況にある。とてもではないが、戦力として望めない。
その状況が最悪なのだ。
次に2つ目。
馭者が、オリヴァを追いかけてきたタイミングがあまりにも悪いことだ。
オリヴァは、馭者がからあえて離れたのは、彼から魔獣についての情報を引き出すためだ。オリヴァは、馭者は良心が痛みやすい男だと認識している。そのように認識したきっかけは、オリヴァの“妾の子”発言時の反応だ。
オリヴァが自身を妾の子と言った時、馭者は目を左下にそらした。その仕草は、記過去の出来事を思い出してしまい、自分に自信がなくなり落ち込んでいる時に見受けられる。
これは、オリヴァの推測だ。馭者は、成長過程で「人の過去に気安く触れるな」と仕込まれただろう。きっかけは、彼が気軽に他人の過去に触れたことで、誰かを傷つけ、自分も傷ついた経験に基づくものと想像する。
馭者は、オリヴァが"妾の子”と言った時、彼は、過去の自分の失敗を思い出した。過去を思い出したことで、急に自分に自信を無くし、"告白を強要した”という罪悪感が生まれてしまった。だから、彼はオリヴァから目をそらした。
そうした行動から、オリヴァは1つの推論を立てる。
”この男の良心はたやすく痛みやすい”
そうして、オリヴァは、彼の痛みやすい良心を利用しようと考えた。
オリヴァは、過去の暴露とは異なった事で彼の良心を傷ませるにはどうすればよいかと考えた。
その手段が、"ロサリオが死ぬかもしれない現実”の創出である。
魔獣は、人を殺す獣。
ロサリオは、魔獣に対抗するため、魔獣の情報を欲しがった。
しかし、馭者は伝えなかった。
ろくな情報をつかめずに、死地へ赴く一人の男。
さて、そのような光景を良心が痛みやすい馭者が見れば、どう思うだろうか。
―ロサリオが死んでしまえば、自分の責任―
(このように考えるのは吝かではない)
良心が痛みやすい、自分の受ける痛みに弱い彼が、そのような結果を受け入れるはずがない。だから、オリヴァは、馭者から離れたのだ。
しかし、彼の予想は大きくハズレた。馭者が口を開いたのは、森の奥深くに入った頃。魔獣の仕事場に到着した頃である。
真面目な表情を浮かべつつ、オリヴァは馭者に失望している。
(使えない人間だ)
「あの毛むくじゃらが魔獣で間違いありませんか?」
わかりきった答えを確かめるようなものである。彼の心情を知ってか知らずか、馭者は乾いた笑い声をあげる。
「そうばい。あいつは、この周辺でよく見かけられてな、殺された奴はみーんな、草むらん中で見つかちょる」
オリヴァはこぼしたい吐息を押し殺した。
彼が欲しかった情報は、時期に遅れてようやく今やってきた。
(それにしても、これが魔獣でいいのか)
オリヴァは、魔獣に近寄る。黒い線と思われていたのは、魔獣の毛だった。毛の隙間から、薄橙色が見えている。魔獣の細長い毛は体のラインを隠している。
オリヴァは再び眉間に皺が寄る。得体の知れない魔獣に恐れおののくのではなく、魔獣から放たれる臭気に不快だった。
「魔獣、ひどい臭いですね」
「そうなんばい。アレが近くにおったらすぐわかる。臭いがきつかけん」
そういうと、馭者の口が閉じる。歯を食いしばるような表情が見えた。血の他に透明な珠が額に浮かび上がる。
オリヴァは立ち止まり、後ろを振り返る。先程の強烈な臭いは届かない。見慣れぬ土地であるため、どれだけ歩いたかわからない。自分の額にも浮かぶ汗を拭い、左右を見渡す。念の為、空も仰いだ。
特段、変化は見受けられない。
ただ、馭者が浮かない顔をしているだけだ。
「少し休みましょう」
オリヴァの提案に、馭者は異論はなかった。
近くの樹の下に、馭者を座らせる。馭者は、すぐに木にもたれかかる。彼の服のあちこちが破れ、血がシミのように付着している。オリヴァの服にも、赤く小さなシミが肩や胴、足と様々な場所に点在している。
馭者は、後頭部を幹に当て、オリヴァを頭のてっぺんから爪先まで見つめた。
「ロサリオ」
「はい」
「もう一つ言う。あれは、魔獣やけんが、コトウの物語のような魔獣とは違うんよ」
「……具体的には?」
「魔獣やし、人は襲う。ちゃんとした魔獣やったら、俺達は自警団の誇りにかけて、きちんとあいつを殺す」
オリヴァの眉間に軽く皺が寄った。彼は、馭者の言うことが理解できない。
オリヴァの中で積み重なっている魔獣のイメージは、自分の知っている動物とは大きくかけ離れ、人を殺すために殺気立った生き物。それこそ、コトウの物語に出てくる2つの顔を持ったヒヒは魔獣そのものだ。
「せやけんが、俺達はアレを殺しきらん。どげんしても殺せん。殺してしもうたら、バチがあたる」
「待って下さい。それはおかしい。馭者さん。貴方の話はおかしいです。魔獣は人を殺す獣。魔獣を殺さなければ我々は死にます。なのに、殺せないなんて――」
「そうばい。せやけん、エイド先生はあんたに魔獣退治を頼んだんばい。俺達ができひん事、お前さんならできるっち思って試練として頼んだんよ。けどな。それわかっちょっても。俺は、俺達のツケをお前さんに頼むんばむげねーでむげねーで」
馭者の目頭から涙がこぼれ落ちた。馭者の言葉は、良心が痛む故の言葉であった。そのため、真実味が感じられる発言である。一方で、オリヴァは理解できない。何故、彼らが魔獣を殺せないのかの理由である。
(まさか、またコトウの物語かよ)
「何故、殺せないのですか?」
オリヴァは、自分の予想を否定することを願い、馭者に問いた。
「あれは、せ――」
馭者の言葉はかき消される。彼らの背後で草が揺れ動く。耳障りな音に、二人の顔は同時に動いた。
カサカサと這いずる音が突き刺す視線に殺される。だが、一方で、草木は不自然にゆらゆらとしている。
オリヴァは一歩が出なかった。もしも、一歩踏み出せば、その刹那、草むらから何が出てくるのか容易に想像できるからである。だが、このまま何もせねば、草むらに潜むものが先手必勝と言わんばかりに襲いかかってくるだろう。
彼は、どの選択肢も選べなかった。
風が穂先の上を走っていく。サァぁぁと線を引く足跡に載せ、二人に向い、棒きれが投げつけられる。まっすぐ一直線に向かう棒きれ。
オリヴァは、反射的に棒きれから逃げるように避けた。
しかし、座り込んだままの馭者は避けられない。棒きれは縦回転しながら、馭者の鼻にぶち当たる。彼の鼻から鈍い音がした。止まっていた鼻血が再び間欠泉のように噴出する。
馭者は、手で鼻を押さえ、前かがみになる。手の皿の隙間から粘着質の血液が細い線を描きながらにじみ出る。
彼は、鼻頭の痛みに涙をこぼす。滲んだ視界に、傍らに転がる棒切を見つめた。
細長い、灰色の皮膚。筋肉質で膨れ上がった曲線。固い角質の塊。そして、粗く引きちぎられた肉と赤をまとった欠けている骨。
馬の前脚だった。
馭者の感情は限界だった。鼻を支える反対の手で馬の脚を拾い上げると、苛立ちながらオリヴァに投げつける。
すると、それを合図に草むらから、黒い毛むくじゃらが彼に飛びかかった。
毛むくじゃらの魔獣は、動けない馭者の股ぐらに着地する。そして、そのまま両手で彼の脇からすくいあげるように持ち上げた。
「なんでええええええええええ。なんでなんよおおおおおおおおおおおおおお」
馭者の叫び声が響き渡る。
「いやだあああああああああああああああああ。ああああああああああああああ」
馭者は、取り乱していた。先輩風を吹かせていた彼は、先程二人の間を走った風と共にどこかへ消えてしまった。残されたのは、どうしようもない現実。彼が身を捩っても、変わることのない現実。彼に残されたのは言葉だけであり、言葉が、残された希望を手繰り寄せようと必死になる。顔を赤く 唇を青白くさせた馭者の表情がオリヴァの脳裏にはっきりと刻み込まれるのであった。




