声よ、もう一度 02
「お兄さん?」
ブラの声に反応するかのように腕が伸びた。ブラの顎関節を片手で掴むと、遠投でもするように家屋に向かって放り投げた。
「んっんんー。久っっびさの空ぅ気ぃ」
ブラを投げ飛ばした指は耳にかかる仮面に伸びる。スルスルと糸を解くと、仮面は乾いた音を立てて地面に落ちた。
仮面の下に隠されていた異様に白い肌があらわになった。仮面の下で眠っていたソレは天から降り注ぐ光を見上げる。眉の形に人差し指を当て、手をヒサシとした。
「でも日の光が強すぎる。あたしにはつらいなぁ」
声はオリヴァのものそのものだが、口調は異なっていた。しかも一人称は「俺」から「あたし」へ。何色にも染められない漆黒の瞳の上にモヤのように緋色が色味づいていた。
壁にたたきつけられ、うめき声をあげるブラには彼の変化を不安げに見つめていた。
「音の聖剣使いめ。小粋なことをしてくれる」
ソレは首を左右に回しグルグルと肩を回す。その仕草は、初めて着用する鎧甲冑に自分の体を合わせているようにも見えた。
「確かにね、この体は窮屈すぎた。せっかく脂がのっているのに動くことすらしないんだもん。何をするにしてもウジウジウジウジ悩み、根暗で他人とコミュニケーションをまともに取ることもできやしない。あー。体だけじゃなくて思考も窮屈な男」
そういうと、ソレは大きく息を吐いた。手首を回すと、自分の頬に当てる。指先に伝わる冷たさは、「自分は生きている」「動いている」ことを伝えていた。
「音の聖剣使い、お前の呪いはきちんとオリヴァに回っている。アイツはお前のことなんざ覚えていない。何かあった程度。だけどね、あたしは覚えている。あたしは、獣の聖剣の落し子。他の生き物とは違う。獣の聖剣がある限り、あんたの呪いの影響は受けやしない」
ソレは、すでにここにいない人物に語りかけていた。自分の言葉が届く子はないことに気づいている。だが、誰の許可も取らずに、自分で考え、言葉を発する解放感は、ソレが渇望していたものだった。心地よい疾走感に似た快感に万悦の体でいる。
一方、オリヴァ・グッツェーという人となりを知っているのであれば、彼がこの表情を浮かべる人間はないことを理解するだろう。「快感」から一歩引いた彼が何故「悦楽」の表情を浮かべられるのか、答えは一つである。彼の肉体を開始、喋っているのは彼ではない。
今、肉体と思考の支配権を有しているのはオリヴァの肉体に取り込まれたトリトン村の魔獣 アヌイの魂だ。
「さすがは音の聖剣ね。観客はオリヴァだけじゃない。あたしも観客ってことに気づいてたのね。なんだろう。やっぱり、あたしとコイツの音は違うのかな?」
そう問いかけ
「違うに決まってるか」
と勝手に答えを導いた。
赤い舌を唇に這わせいたずらっぽく嗤う。その仕草はなまめかしく女性的であった。音の聖剣使い イリアがオリヴァの頭上でかざした音の聖剣。彼女の言う通り、彼は魂が黙殺されている彼女の存在に気づいていた。彼は、聖剣使いを認識した恩赦を与えた。
オリヴァの肉体と精神の支配力の向上。
もちろん、対価が必要だ。彼は、この部分での調律が条件となる。アヌイはイリアからの提案を受け入れ、引き受けた。契約は交わされ、権利の行使 義務の履行が求められる。
アヌイはオリヴァの精神を押しのけ、全面的に現れた。それが彼女の役目を果たすために。
「あー。やっぱりこの体は窮屈だ」
アヌイが身に着けている甲冑に不満を漏らすと、ブラに冷ややかな目を送った。足音を響かせ彼女に近づくとすぐに脇腹を蹴り上げた。
「狸寝入りしてんじゃないよ。とっとと起きな」
彼女の呻く声にアヌイは表情一つ買えない。いや、自分の言葉に従わないブラに不満げである。舌打ちを漏らし、彼女はブラの全身を見る。服のあちこちが破れいたるところから出血の痕が見うけられる。苦しそうに体の収縮を繰り返す。息を吸うことも吐くことも全てが苦痛。眉根をひそめ、痛みに身じろぎする姿は、良識あるものが見れば心を強く悼めることだろう。けれども、アヌイは良識を持ち合わせていない。少女を持ち上げて「叩き起こす」為、アヌイはブラの頭を掴み、自分の目線と同じ高さまで持ち上げた。
「クソガキ」
言葉と同時にブラの頬に重いフックが叩きこまれる。ブラは口から透明と赤色の液体を吐きだした。彼女は苦痛の中でえづきながら鋭い視線でアヌイを睨んだ。
「お、起きたかい? クソガキ」
「あなた……誰? あなた、お兄さんじゃない」
「当たり前だ。あたしをアイツと一緒にするな」
そう言いながら今度はブラの鼻頭に拳を叩きこんだ。
「ガキ、残念だったなぁ。コイツを殺せなくて」
アヌイはそう言うと、殴った手を自分に向ける。ニィと勝ち誇った表情とは対照的にまだら模様の青あざを作るブラは不満そうに湿った顔で睨みつけた。
不満げ 納得がいかない表情がとても心地よいのだろうか。アヌイの口調は久方ぶりに会話した生き物とは思えないほど滑らかなものであった。
「か細い声で助けて、か。良いじゃねぇか。人の良心ってやつにはよく効く」
彼女の言い草は、親方の死体がまさに人の良心にかこつけた凶行と言わんばかりのものである。
「大方そうやって人の良心に漬け込んで殺してきたんだろう? 人間を」
アヌイの問いにブラは答えない。沈黙を肯定とアヌイは捉えた。彼女はブラよりも高次の見地にあると錯覚し、思考をそのまま口にした。
「残念だったよなぁ。コイツはちょっと特殊でな。人間の中にあたしが居座っている。アンタみたいな胡散臭いやつにはあたしはちぃーっとばかし鼻が効いてね」
アヌイはそう言うと、オリヴァの筋の通った鼻筋の天辺と人差し指で叩いた。
「そうだろ? わかったんならその物騒なもんをひっこめな」
彼女の視線は鋭くブラの手に注がれる。彼女の手は赤く染まっている。手指が汚れているのではなく、鋭利で分厚い長い爪の中まで血で濡れていた。それは血に触れたから汚れたのではなく、血肉の中へ積極的に指を突っ込んだから汚れたのだ。服は土ぼこれの汚れが目立つ。つもり重なった汚れではない。地面に転がって作りだされた汚れだ。袖口の汚れも似たようなものだ。手指と同じ色で汚れているのは彼女が食事をするときに飛び取った血液の跡であり、屠り、貪り拭った跡であった。
ブラはアヌイから一度視線を外す。困ったような表情を浮かべていたが彼女の中で「もう演技する必要がない」と結論に至ったようで再びアヌイと視線を合わせた時には「ニィ」と赤く染まった歯牙を見せていた。
「なぁーんだ。もう失敗するなんて」
「あぁ。あんたは失敗さ。獣の聖剣の落ちこぼれにしてもさ、あんたは、魔獣にも人にも慣れない中途半端な良きモンだよ。世界がアンタを認め生かすことはどうやらないようだ」
アヌイは心の中で自分もそうだとつぶやく。彼女は魔獣として一度死に人間の皮を借りて生きている。本来あるべき姿を亡くした彼女の生なぞ世界のほんのお目こぼしにしかすぎない。
「哀れだよ。ガキを殺す役割で生かされるなんてさ。」
イリアがアヌイに世界の調律の為ブラ殺害を託した理由。音の聖剣は少々特別だ。彼は、聖剣の力を用いて人の死をあるべき姿に調律することは出来ても、生きている者の生き方を調律することは出来ない。それは、その人の未来を聖剣が決めてしまうことになる。聖剣は世界を作った剣であるが、世界は些末な人間の将来をいちいち気にするような存在ではない。生と死の円が崩れなければ人の生き方に口出しすることはなく、また聖剣使いにも生き死への干渉することを積極的に行うことを禁じている。人間だけではなく聖剣同士の干渉も禁じていた。それは、先例――火の聖剣と水の聖剣がかつて険悪な関係にあった――にある。
聖剣は聖剣のゴミ掃除をすることは許されても、商品の処分は所有者の裁量としている。他者の介入は許されない。
今回の場合、他人が、ブラの存在に口出しするなど、俗にいえば余計なおせっかいだ。それでも彼、いや、他の聖剣たちは獣の聖剣欠落による魔獣の存在を容認できなかった。
捩じれた存在であるブラを是正するためには、何とかできないのか。そうして見出されたのがアヌイである。
紐解けば、彼女は獣の聖剣が生み出した産物である。そして、彼女はオリヴァ・グッツェーの体に居座っている。形だけ見ればアヌイは”人間”でもあった。
人間が魔獣に手を下す。
形式的には何も問題はない。形を整えるため、イリアやアヌイにオリヴァが無意識に貸していた重石を外し、調律の為にブラ討伐を命じた。
「因果なものさ」
アヌイはブラの首に手を重ねる。
一思いに。と心を決め手に力を込めた。
その時であった。オリヴァの目が緋色に輝いているように、彼女の目は榛色から濃い茶色に変化した。
「粋がるな。ロバのくせに」




