砂城の棄民
「ブラ、明日は親方がうちの家ば来るっちゃけん、用は外で足さなあかんけんな」
ブラの母は、彼女が床に就く前、釘をさすように言った。
「母ちゃん、なんで親方がくるけん、便所ば外でせんといかんの?」
娘の質問に、両親の表情に困惑の色が浮かび上がる。彼女がもう一度「なんで?」と問えば、鋭い声一つ、布団へ放り込まれるであろう。
親方と便所使用不可。この二つが何故イコールで結ばれるのか。と考えたが、幼女には難しすぎた。これ以上考えても仕方が無いと諦め、膀胱に「おしっこダメばい」と念を押し、自分の寝室へ向かうのであった。
床に就き、「便所に行かない」「便所へは行かない」と必死に暗示をかけた。暗示をかければかけるほど眠りは浅くなり、時折見る夢は、夜尿やら失禁した。などそういう類の夢である。「うーん」「うーん」と唸り声を上げ、彼女は突然起き上がった。
「しっこ!」
暗示はあっさりと解き放たれ、尿意に目覚めてしまう。夜尿は許されず、失禁も許されない。寝室を飛び出し、彼女は便所へ向かった。だが、楽園の扉は固く閉ざされていた。×の形で板がはめ込まれ、便所は物理的に使用できないようになっていた。
「なんでなーん」という彼女の問いに、母の厳しい姿が思いこされる。
「うー。ううううう」
パンパンに膨らみ始める膀胱。彼女は廊下を振り返る。まっすぐ行けば玄関。しかし、その道はとても喰らい。外はもっと暗いだろう。そこで一人で用を足せるかと言えば、とても無理である。
今から一筋の光が差し込んでいた。光が灯されている。ということは、両親が今にいることの証でもある。
ブラの小さな頭の中は様々なことが考えられている。どうすれば両親に怒られずにすむのか。どうすればパンパンに膨らんだ膀胱を解き放つことが出来るのか。様々なことを考え、尿意は一番簡単でなおかつ怒られやすい選択肢を導いた。
ブラは一目散に賭け、今の扉を開いた。
「母ちゃん、しっこ!」
扉が柱にぶつかり、破裂音に似た音が響いた。
しかし、この音は扉の音だけではない。彼女より遥かに大きい一匹のバケモノが、同じ大きさをしたもう一匹のバケモノの顔を叩いた音でもあった。
「……」
母親の食事を彩っていた飯台は、短い足が折れ、陶器の破片と共にそこかしこに散乱している。父親が好んでいる抹茶色の平べったい座布団は切り裂かれ、中の綿がむき出しになっている。
壁には、毛並みの荒いヘラで落書きをしたように、無数の水色の線が轢かれていた。
日常の平凡 日常の平穏 日常の幸福の象徴であるこの場所が、三本の角が生えた灰色の毛に覆われたバケモノに破壊されていく。
バケモノが暴れる度、耳障りな音をたて壊れていく居間。ほんの少し前、当たり前のように存在した日常が、跡形も無く消え失せていた。
彼女は声をあげようとしたが、せり上がる声は咽喉仏より上に這い上がることが出来ない。
せわしなく動く眼球は、顔を叩かれたバケモノの腹部に母が使っている包丁が刺されていること。
眼球に長い爪をねじりこまれ、良くわからない悲鳴を上げていること。
一方的優位に立っているバケモノは、何度も相手の顔を叩き、頭突き、うるさいと言いたげに喉元に喰らいついたその瞬間までしっかりと捉えていた。
「あ……あぁ……」
食用鳥を殺す要領で、優位に立っていたバケモノが相手の首を手刀で刎ねた。
吹きあがる水色の血液。雨粒の隙間からゆっくりと倒れていくバケモノの身体。その身体には、父親の服が、勝ち誇ったように立つバケモノの身体には母親の服の切れ端がへばりついているのが分かった。
このバケモノには同胞殺しの咎を理解していない。
何のためらいもなく、一般の動物は行わない同胞喰いを始めた。血と肉と骨を喰うバケモノの姿を見て、彼女の意識が一瞬遠くなる。しかし、バリバリと骨を砕き、クチャクチャと咀嚼する音が耳元まで届くと、意識が現実へと引き戻される。
ブラは二歩、三歩と後ずさりをし、両親の寝室へ転がり込んだ。
「とおおおおおちゃあああああん。かあちゃあああああああん」
開け放たれた寝室。しかし、そこには布団が敷かれているだけで、部屋には誰もいなかった。
「……」
彼女は腰をぬかしベタンとその場に座り込む。彼女を中心に、大きな水たまりが出来始めた。
「父ちゃああああん。母ちゃあああん」
目に熱が灯り、眦から液体が零れ落ちる。今まで経験したことのない大量の涙があふれだした。
なぜ、自分はこれほどまで泣けるのかが分からなかった。バケモノが怖いからか。両親が自分を見捨てたからか。自分が両親の言い分をきちんと理解しなかったからか。自分が両親の寝室で失禁してしまったからか。様々な理由はあったが、今、この場に両親がいないことがとても、辛い。そのことだけは十二分に理解していた。
ブラの泣き声に誘われ、バケモノがやってきた。自分の後ろにあるはっきりとした存在感を感じると、彼女はバケモノの方を振り向いた。何かを訴えるよう、口元を動かし、声を発しているが、間には全く理解できない言葉である。
「こ、こないでぇ……」
ブラの懇願にバケモノは両手を拡げた。横に一筋パックリと割れた瞳は訴え続けている。
「……」
バケモノの身振り、手振りを見て、ブラは匂いを嗅ぎ取る。ぼんやりとした匂いは、母親の服を見たことでより輪郭をはっきりとさせていく。
バケモノはブラに必死に何かを歌える。声が届かないならば気持ちを伝えようと、太い毛むくじゃらの手をブラに伸ばした。
ゴツゴツとした水色に地にまみれた手は、父親が褒める時のように、母親が慈しむ時のように、慈愛の暖かさに満ち溢れていた。
「……ラァ」
「えっ?」
ブラは顔を上げた。バケモノは自分の言葉が伝わったこととても嬉しそうで、細い目をさらに細めている。
「●●ちゃん?」
バケモノの目尻から一筋の涙がこぼれ落ちた。
玄関口から荒々しい足音が響き渡る。自警団の面々だ。彼らは玄関付近でバケモノに襲われている少女を見つけた。
バケモノの手はブラに伸びていた。彼等はブラが握りつぶされることを予見し、容赦なく、問答無用にバケモノの急所に次々と刃を突き立てていく。
バケモノはブラを話、甲高い絶叫を上げる。
自分に害をなす自警団を殺そうとバケモノは鋭い爪を振るいあげた。戦いに慣れていないバケモノの動きは場数を踏んだ自警団にとっては単調な動きである。
腕を斬り落とし、首を刎ねる。二度と生きられぬよう、心臓に刃を突き立てた。
生命に必要な器官を破壊されればどんな強靭なバケモノでもひとたまりはない。
崩れ行くバケモノに自警団員が罵声を浴びせた。そのような中、一人の幼女がバケモノに駆け寄り「母ちゃん」と声をかける姿を見ても、彼等は何も感じないのであった。
ブラは生存者として保護され、村の集会場に一人で避難させられた。村がどうなっているのか、自分と同じよう着の身着のままやってきて憔悴しきった表情で膝を抱える者ばかりである。
道中、人の形をしたものを見たが、自警団の者たちは「見たら心に毒ばい」といい、彼女の手を強く引いた。あれが死体であることは幼女はとっくの昔に理解している。たった一夜で村中に転がる死体。村の様子が一変した理由を彼女は知る由もない。
「ブラちゃん」
聞きなれた声がブラへ投げかけらた。ブラは顔を上げ、声の方向を向く。そこには親友のスタンがいた。後ろには父親がいる。「うらやましい」という強い思いはあったが、痛いぐらいに抱きしめる友人の抱擁が緊張していた彼女の心を慰めるのであった。
「ブラちゃん、ケガはなか?」
「うん」
スタンの父の問いに短く答えた。
「ブラちゃん、大変なことになっちょーばい。村に沢山の魔獣が出たんですって」
「まじゅー?」
「そう。人にちゅーばつ? を与える獣の聖剣が遣えるのが魔獣」
「ふぅん」
ブラはよくわからなかった。おそらく、自分の家にいたバケモノの事だろうと理解した。
「んじゃ、野獣と何が違うん?」
「魔獣は野獣と違って人間を殺すのがお仕事なんだって。魔獣はこの村にはもういないはずなのに……。でも、大丈夫だよ。自警団のみんなが今魔獣退治に行ってるし、王都にも連絡してるし、親方も戻ってくるんだって!」
「親方がぁ!」
「うん。さっきあのおじいちゃんたちが言ってた」
スタンが指差す先には、彼女たちを可愛がる老人達がいた。
「新領主様は、なんで何にもしてくれないんだろうね」
「なんでだろう。みんな、こんなに苦しんでいるのに」
二人の幼女は窓を見上げる。真っ暗な夜でも闇の裾野を焦がす赤色が見えた。赤色の近くには、新領主の邸宅があることを二人は知らない。




