初夜編 サヨナラになる前の遊戯01
王都に帰る道。二人の顔は冴えなかった。
馬車は、蹄の音を響かせながら走る。馬は、前脚と後脚をパカラ パカラとリズムよく走れば、彼らが苦心した道もあっという間に超えていく。オリヴァはあの時の事を思い出す。
雨が降り、見上げれば、救いようのないどっしりと腰をすえた灰色の雲がかかっていた。自分の背後では、生まれてきた咎を糾弾するかのような落雷が二度あった。女を一人抱きかかえ、悪路に悪態をつきながら、一歩一歩、大地に自分の存在を刻み込んだ。この過酷な状況は、ウェルラン山を見るだけで思い返される。トリトン村から渡船場へ続くこの道は、悪夢の道として、彼の中に名前を刻まれた。
オリヴァは下唇をきつく噛む。時折、馬車が大きく揺れると、噛み締めた下唇からほんのりと、鉄の匂いがした。オリヴァは、苦い記憶を抱き抱え、馬車の窓から見える風景を眉間に皺を寄せながら睨みつけている。頬杖をついているが、杖の柄となる手のひらは、彼の白い皮を隠していた。握りこぶしではなく、手のひら。彼の中にある伏せたい思いを体現しているとベルは思った。
「終わりよければ全て良し。なーんてことはなかったわね」
ベルの一言にまたオリヴァの眉が神経質に動く。思った通りの反応に、ベルはくつくつと喉を震わせ、笑って見せた。再び、馬車が大きく揺れる。
コルネールの配慮で、二人には立派な馬車が用意された。馬の頭蓋骨を覆う鉄のヘルメットには、良馬を示す紋章が刻まれている。馬車の内装も、飾りっ気はないが、朱色に貼られた椅子の弾力はとても豊かだ。地面や板張りで寝かされていたオリヴァの体にはありがたい代物である。
寂れた村にやってきた不釣り合いな馬車。立派な馬車に村人の視線は釘付けになり、その視線は冷ややかな視線へと変化し、二人に浴びせられる。ある種、コルネールの嫌がらせであろう。そう言う事まで見越して、彼は、オリヴァに馬車を手配したのだ。
馬車でだけであれば、オリヴァも「終わった事」として対応したであろう。だが、彼の心が、激しく悶えるように掻き毟られたのは、二人を迎えにきた人物である。
「ニクラス・シュリーマン」
ベルはオリヴァの心を見透かすようその人物の名前を口にした。
「ニクラス・シュリーマン。苗字持ちの貴族。名家じゃない。それにーー」
ベルが続きを言おうとすると、遮るように、オリヴァは口を開いた。
「別に、苗字持ちの貴族が名家であるとは限らないだろう」
オリヴァは頬杖をついたまま吐き捨てるように言った。
「ううん。苗字持ちはみんな名家よ。だって、苗字をもっている貴族には、家の歴史を刻む権利が与えられ、生まれた瞬間、その人が歴史になるよう、星の剣に名前が刻まれるの。苗字を持たなきゃ、自分という存在が、跡形もなく過去に埋没されてしまう。自分が生きていたかどうかなんて事すらわからないのよ。家の歴史がなければ。でも、苗字がある事で、自分という存在は、星の剣によって、歴史に残される。それだけで、他の家とは違うわ。だから、苗字持ちはみんな名家なのよ。歴史が与えられた名家」
ベルは断言した。オリヴァに自分の意見を反論させぬ確固たる自信が読み取れた。オリヴァもベルの主張に反論する意思はさらさらない。己の考えはあるが、苗字持ちのオリヴァとそうではないベルでは、決して交わる事はない隔たりがあるのだ。
「まぁ、それにしても、ニクラス・シュリーマン。イケメンだったよね。あんなイケメンがハシム様の新しい筆頭侍従かぁ。どっかの人とは違うわね」
ベルは強張る体をほぐすよう大きく伸びをしながら言う。情を寄せる一言に、オリヴァの視線はベルに映るも、すぐに外の風景へ戻した。
「ニクラス・シュリーマン」
オリヴァも噛みしめるようその人物の名前を口の中で転がすように呟く。その視線は、渡船場へ向かう道ではなく、トリトン村の出来事に変わっていった。
ニクラス・シュリーマン。彼は、隊列の先頭にたち、銀の兜と同じ色の甲冑に身を包み、村人を威圧するよう、馬上から地面の上に立つ者を睨んでいた。ニクラスが片手をあげる。すると、背後に立つ、二名の旗持ちの男が、天高く、威光を知らしめるよう、旗をはためかせた。
緑の御旗。教養の低い村人達でも、その旗の意味は知っている。贋作は存在せず、全て真作のみ。円を描いた蔦の中央は空白。しかしながら、彼らの目には「会ったこともないやんごとない人々」の姿が写り込んでいるはずだ。
ニクラスは、被っていた兜を脱ぎ、顔にへばりついた髪をはがすように首を横に振る。
ニクラスの赤茶色の細い髪を撫でるように風が吹いた。頬に当たる心地よい風に顔を綻ばせる事はしない。彼は、髪と同じ色をした大きな瞳を細め、村人一人一人を射殺すような鋭さを発し、口を開く。
「私の名はニクラス・シュリーマン。ハシム王の筆頭侍従である」
オリヴァと同年代と思しき若い人物は、自分の立場を明らかにした。スナイル国王の名前を聞き、浮き足立つ村人。そして、空位であった筆頭侍従に就いた人物がいる事実に打ちひしがれる人物が一名。オリヴァの顔は、アヌイの皮膚以上に顔を青白く変色させ、目を丸くし、馬上の人物を見つめていた。
「私の言葉は、ハシム王の言葉並びに、キルク王の言葉でもある。王の言葉を前に、貴君らは、何を考える」
ニクラスの言葉に、村人は地面にひれ伏し、頭を地につけた。それこそ、地面に頭がめり込むのではないのか。と思う程、村人は地面に頭を擦り付ける。ベルは、村人と違い、地面に片膝を着き、左手を右肩に当て、頭を下げた。官僚の姿勢である。立ち尽くすオリヴァに「おりんりん」と声をかけ、服の裾を強く引っ張る事で、彼もゆっくりとベルと同じ姿勢をとる。
「宜しい。聞くところに夜と、この村では、イヴハップ前王が固く禁じた初夜権続いていると聞いている。ハシム王は、この件を深く悲しみ、事実であれば、国に対する裏切り行為としなければならぬ。と仰せだ」
村人は沈黙を保った。重い空気と慣れない姿勢に、ブラは母に「しょやけんってなぁに?」と問いたが、母は「静かに」と鋭く囁くのみ。何も語らなかった。
「諸君達にも話を聞くこととなるが、安心してほしい。正直に証言した者の安全は我らが保証する。故に、諸君達の誠実な協力を要請する」
ニクラスの言葉に、村人の心臓はけたたましく音を立てている。動揺を悟られぬよう必死に堪えるも、額から滴り落ちる汗が止まらない。村人全員の汗を合わせれば、水たまりぐらいはできるだろう。
彼らの動揺を慰めるよう、「おそれながら」と優しい声が響く。村人は、その声が、誰の者であるかすぐにわかった。
声の主は立ち上がる。胸に抱えている者を両手で挟み、ニクラスの下へやってきた。
「この方は、トリトン村の領主 コンラッド様でございます」
そう言うと、大事に抱きかかえていたコンラッドの首をニクラスの前に差し出した。驚きと苦悶の色を残した土色の顔。人の生首を前にし、ニクラスは眉ひとつ動かさなかった。
「申し訳ございません。コンラッド様の首を刎ねてしまいました」
「何故、領主を殺した」
「私の娘は、領主に初夜を迫られ、抗いました。娘は、抗った事を悔い、自責の念で自刃致しました」
親方の告発に、村人は息を飲み込む。親方の娘の死は、村人全員が知っている。彼女の死をどう感じたかは、村人によって様々だ。しかしながら、村人は、娘を喪った親方の深い悲しみ、怒りと恨みをこの時になって初めて知る。優しく強い男が胸に抱えていた感情は、村人の想像以上の深さであった。けれども、この感情の炎に火をつけたのは、ベルである。この事は、オリヴァもニクラスも知らない。
「一応、聞いておこう。貴様一人で行ったのか?」
胸が割かれ、四肢がもがれた焼死体。
泥まみれで首の無い遺体。
血糊が付着したツーハンドアックス。
死者は一人では無い。二人だ。コンラッドと誰かが死んでいるのは明白。領主の家族の者か。とニクラスは考えた。しかし、立ち込める、血と土埃の匂いが思考を鈍らせていく。もう一人の遺骸を問うのは、全身を赤く染めた二人の官僚。綺麗な体をしているが、血の匂いを纏っている村人。にしろ。と脳みそが指令を送る。ニクラスもその考えに寄る。何より、目の前に首を差し出した男は「嘘をつく」余白が見えない。
「答えろ」
感情を抑えた、ニクラスの声に、再び村人の体がビクビクと震えだした。しかし、親方は、
「私が一人で行いました」
と大きな声で答えた。親方の答えに、震えていた村人は顔をあげる。領主の遺体を損壊した罪悪感と初夜権の解放に、何人かは意見しようと口をあける。だが、彼らの声を遮るように親方は喋り始めた。
「私が行なったこと。初夜権について詳しいお話しましょう。私は、この村の治安を守る自警団の長です。村の事について、ほぼ全てを知りうる立場にあります。しかし、この場で話すのはやめていただきたい。村人が聴くには、あまりにも酷な内容が含まれています」
ニクラスは何も言わないオリヴァたちを一瞥すると、鼻を鳴らし、左腕をあげた。それを合図に、複数の兵士が馬から降りる。ある者は、コンラッドの首を確保し、またある者は、親方の体を拘束する。手首と首に、麻縄を巻きつけながら、彼は、トリトン村の自然を見つめた。偉大なウェルラン山。雄大な自然とウェルラン山に見守られ、彼は生きた。
辛い時は、ウェルラン山の夕日に慰められ、嬉しい時は、朝日を抱くウェルラン山が活力を与えた。生活の一部であり、彼の人生は、ウェルラン山が彩っている。幼き頃より、親方を見つめていた家族の山。けれども、これからもう、この山を自由に見る事は叶わないのだ。親方はその姿を目に強く焼き付けた。
(可能であれば、もう一度ゆっくりと、この美しい山を見つめたい)
親方は目を細める。ゆっくりと、頭を垂れ、そして、兵士たちにひきずられるようにどこかへ消えていった。ベルの目にも村人の目にも大きいと思っていた親方の体が小さく見える。村の信頼を一身に集めていた大きな背中に誰も声をかける事は出来なかった。
「さてと」
ニクラスの厳しい表情が緩み、薄い微笑みを浮かべながら、官僚二人に声をかけた。
「遅れてしまって申し訳ございません。お迎えに参りました。キルク王の筆頭侍従補佐 オリヴァ・グッツェー殿。そして、王宮図剣館の司剣のベル」
ニクラスの言葉に、村人の動揺が走る。ロサリオは王都の者。王宮の中の者。と踏んでいた者がいるが、よもや王の側近とまでは考えていないようだ。王の側近に魔獣の心臓を食べさせた。人間として許されない所業を強要した。村人達は、自分たちがオリヴァに対して行ったことを思い返しブルリと震え上がる。彼らは、力関係で言えば優位にあると思っていた。だが、蓋を開けると、力関係は圧倒的にオリヴァが上で、権力者にたてついた事を無罪放免とできるわけがない。オリヴァは被害者なのだ。親が子供を注意するような叱責で終わることはない。強大な権力者の怒りをかった。その代償は、命をもって償わなければならない代物に違いない。
ガタガタと震えだし、地面につけた額は体の震えで切れていく。何人もの村人が、地面に赤い斑点を描き出した。ニクラスは、村人の様子をはっきりと馬上から確認している。
「グッツェー殿。御身に代わりはございませんか? 何かあれば、キルク王が悲しまれる」
ニクラスは村人の心臓を締め上げるよう、後半の言葉を強調して声をあげる。すると、村人は、彼の予想通り、体を少しだけ宙に浮かし、悲鳴に近い声をあげていた。
「ここでは何です。場所を移して話しませんか?」
ニクラスの提案に、オリヴァは口を開かない。
「集会場を貸し切りましょう。私もゆっくりと話をしたい」
ニクラスはそう言うと、オリヴァ達の意見も聞かず、馬を進めるのであった。




