祈りの棘 01
男のの意識に黒い幕が落ちていく。黒い緞帳の裾から一本の糸がほつれ落ちた。緞帳より早く舞台に着いた。無音。だが、これを合図に彼の時が止まった。静止した世界で、自由を与えられたのはほつれた糸のみ。糸はクルクルと背を伸ばしていく。線から円 楕円へと形を変え、そして一つの輪が出来上がると人の姿を形どる。輪郭から肌が盛り上がり、目と耳と口と、人のパーツが浮かび上がる。ようやっと生まれた姿は奇妙。前足を曲げ、片方の足を後ろへ引き伸ばしていた。そしてゆっくりと起き上がるのであった。
白いうりざね顔の若い女。臀部まで伸びた黒髪をかきあげると嬉しそうに声を上げ、男の意識に一発平手打ちをお見舞いした。
「あらぁ? 貴方、息子の仇が取れなかったのね」
男にも自由が分け与えられた。自分を射貫く細い目に自分の心臓を穿った男の姿を重ね「そ、それは」と言い淀む。
「イヴハップは死は、名声を天へと上ろうとしている。樹の根の底で眠るべき者が天に上るなんて笑止千万。だいたい貴方、息子の仇を取りたい。イヴハップの存在全てを地に堕とし、子種を踏みつぶすのが願いじゃなかったの? その願いの為に、わざわざ私は貴方の中へやってきたというのに」
男は言い訳がましく「そもそも無謀だったんだ」「王子の襲撃だなんて畏れ多いことを」と言い出した。彼の言い分をよほど聞きたくないのだろう。耳の穴に指を突っ込みグリグリほじくりながらあきれ顔で聞き流した。
「そうよねー。そうよねー。人間っていっつもそうよねー。出来なかった出来なかった。失敗したらいーっつもそう。人間って、何故かそこで止まるのよ。せっかく私が救いの手を差し出しても、潰れてしまう。まぁ、まともにそんな運命に立ち向かえたのはアレぐらいしかいなかったけれど。もう貴方には関係ない。せっかく私が貴方にチャンスを与え、『王族しか知らない言葉』を教えてやっても、意気地なしには意味がなかったね。ご破算よ。ご破算! 全てはご破算」
彼女は指についた耳カスをフッと吹き飛ばし、パンと手を叩く。
「私の求める高貴な聖剣のエサにすらなれないのならば、その代償、その身体で払いなさい!」
オリヴァも騎士団長もコルネールも凶人の死を確信した。首を落とされ心臓の管が切り離された。例えこの場に命の聖剣使いが現れたとしても生き返らせることはできない。
だが、事態は奇妙に踊り出す。
首から迸る血液。地に伏せた胴体は血まみれで鮮血は茶褐色に変化していた。その場にいる誰も血溜まりの中から一粒の水滴が上がったことに気づかなかった。波紋が描かれ徐々に徐々に広がっていく。紋様一つ一つは血だまりに浮かぶ手首と首を胴体へ引き寄せている。異変に気づいたのはオリヴァが先で、騎士団長も死体の変化に気づいた頃には
黒い水たまりの中で泳ぐ汚れた苦悶の頭部は首にくっ付いていた。濁った白目はオリヴァを捉え、舌を動かして言葉を紡いだ。
「シシテ トオウ。 ワレハ ケモノ ナンジ ケモノ ナリヤ? ケモノノケガ マッテオルゾ」
オリヴァと騎士団長にしか聞こえない耳につく甲高い声。イントネーション、文節、リズム。ソレの言葉はバラバラで不自然であった。わざとらしい声が耳にこびりつく、ザワザワと不審に心をかき立てる声に煽られ、心臓が痛く脈を打つ。狭い部屋に閉じ込められたかのようで呼吸だけが響いている。
見てはならぬ。聞いてはならぬ。と自分に言い聞かせるも、オリヴァの目は狂人の濁った眼球から離れられず、耳は男の声に注意深く傾けられるのであった。
「ナンジ ニンゲン ナリヤ?」
男の顔が首を押しつぶす。心臓を中心に肉・骨・人間を象るものが押し込まれ始める。頬に膝が生え、首には手が咲いた。ぎゅうぎゅうに押し込まれた肉体は膝ほどの高さの球体へと姿を変えた。
「何……だよ」
肌色をベースに黒色、灰色、黄色、赤色、茶色。様々な色を取り込んだ球体は人間のモノであったとは、俄に信じられなかった。
「なんじゃこりゃ」
ある兵士が肉塊を覗き込む。オリヴァは「よせ」と声をかけたが無駄だ。兵士達に命令できる権限は無い。忠告として「やめろ」と声をかけたが、兵士は鼻で笑い、自分の度胸を示すようつま先で小突いた。ニィと歯を見せる兵士。「タマナシ」とオリヴァを嘲笑った。そのような彼に勇敢な証として額から一本の黒い棘が生えた。
「あっ?」
情けない声の後、棘が抜けた。ぽっかりと空いた穴からボロボロとこぼれ落ちる淡紅色の液体。兵士の体が前のめりに倒れ、絶命した。オリヴァ達の前に現れたのは一本の黒い棘が伸びたあの肉塊であった。
肉塊は人間を嘲笑うかのように無数の槍上の棘を放射線状に放った。その場にいた者は、誰一人状況が理解できない。漠然と「これはおかしい」と認識しても、逃げる者・挑む者・佇む者様々である。
無作為に選別された不幸な人の体が複数の黒い棘に貫かれる。
突如として現れた無差別の殺戮現場に、オリヴァは驚愕の色を隠せず佇むのであった。
「な、なんだよ。これは」
オリヴァの動揺をよそに棘の伸びる範囲が広がっていく。騎士団長は王子達目がけて伸びた棘を細いエペで突き刺し先端を割った。
「王子達を城内へ! 早く。この場から遠い場所へ避難させろ」
騎士団長の声にハシムは「戦う」と抗うも、屈強な騎士達によって城内へ押されていく。
「オリヴァ!」
キルクの声だ。キルクもハシムと同じで騎士達に守られ城内に入っていく。オリヴァは振り向き「キルク様!」と声を投げた。一瞬交わされる瞳。互いの無事を祈る言葉はかけられなかった。伝わると信じ思いを飛ばすのだ。重たい城門は空気の塊を吐き出し閉じられた。彼らを狙う棘の先端は空気圧によってたたき落とされた。門扉にいくつかの棘が浅く刺さっている。内側から救助を求める音が返ってこないことから、彼らの無事は確保出来たようである。
その場に残されたのは王子達の付き人と騎士団と兵士達。戦力として数えられるのは限られた者であった。
「オリーちゃん。こっからは仕事の範囲外だけド?」
オリヴァの胸中を余所にユーヌスはつま先で地面をえぐり人差し指で毛先をもてあそぶ。
「黙れ。王宮勤めは王宮で出会うことすべてが仕事だ。逃げればお前の上司に報告するぞ」
「ヒャダ! それは好いネ。あの子、ぜぇーったい怒ってくれる! あたし、あの子の燃えたぎる目で見下されることが一番のご褒美なのヨ。うれシー」
ユーヌスはうっとりとした表情でS字に腰を振りスティレットを握った手を頬に当てた。細まる目は自分を射貫かんとする棘をとっくの昔に捉えており、射程範囲に入った途端、悠然と長い足でなぎ払った。
「ソソウ。オリーちゃん。面白いことを思い出したネ」
棘の破片を踵で踏み潰しながら嬉しそうにオリヴァを見る。
「何だよ」
「ヨナンはね、あのトゲトゲがいっぱい海の中にいるの」
「あんな風に棘を伸ばして人間の脇腹でもえぐるのか? 怖い国だな」
「ううん。違うの。あーいうのはね、外は堅くて、中はすごーくおいしいノヨ」
ユーヌスの言葉の最後はオリヴァの耳に届かなかった。ユーヌスはオリヴァを突き飛ばした。彼を突き飛ばした棘は不幸にもオリヴァの背後にいた者を貫いた。
戸惑うオリヴァ、その他大勢に対しユーヌスは動じず落ち着きを払っている。自分に仇なす棘を足と剣でかわしたたき割り「レベルの差」を生石見なく突きつける。
「あたし、今! 生きてイル! 生きテルって実感できるのすーっごく好キ! 失敗すれば死だなんて、必死にナルジャナーイ」
彼の言うとおり、皆、生きるのに必死だった。戦えない者は棘を目で追い、避け、伏せ、逃げ惑う。戦える者は棘を払い、叩き、切り捨てる。
どちらとも、失敗すれば皆、断末魔のごとき悲鳴を上げて貫かれて死ぬ。
オリヴァは目を上げた。鎧を貫き心臓が串刺しになった兵士の姿があった。若い肉体は急激に萎み 縮み 萎れ散っていく。それに比例し肉塊は死体を積み重ねれば積み重ねる程に大きくなっていった。針のように細かった棘も気づけば彼らが帯刀している剣と同じ太さである。
かすり傷一つで死に至る。背筋をつぅと流れる汗に肌が粟立つのがわかった。
「あたしとアナタ、違う空気吸ってルのわかる? アナタは死の空気吸ってるワ」
「死」
その一言をオリヴァは繰り返す。彼が今より幼き頃から、死は甘美な誘惑であった。慣れない王宮勤め。別離の両親。好奇の衆人。見世物小屋の動物のような生活から逃れるよう、短絡的に死を連想した。自分は綺麗な亡骸で死ぬ。若くして死ぬ自分を見て嘆く両親。もっと優しくしておけばと後悔する衆人。絶望で顔を青ざめ震え慄くキルク。
なんと美しい光景なのだろう、と一人夢想に耽るオリヴァであるが、人の死に触れる機会が増えると、死は自分の想像よりも遙かに淡泊で無味乾燥なのだと知る。
流れゆく死を「そういうもの」と処理し、一方で白々しい美しい死に憧れる。
だが、彼はこの瞬間をもって死の概念が打ち壊された。
死は平等な終着点であり、死に至る道は残虐な旅路である。
体を貫かれ、じわりじわりと嬲り殺される者。急所を一発で仕留められ納得すらさせられずに殺される者。
死はむごたらしい。何もなせず、何も残せず、苦しみの茨道を歩かせる。死に至る道の慈悲の無さに、自分が愛した夢を羞恥で顔を燃やす。
死にたくない。生に執着を始めた彼の判断力は平時より大きく鈍るのであった。