森でのくらし
昼も幾分か過ぎた頃、猫は呼ばれた気がして目を覚ました。
しばらくぼんやりした後、ふと違和感があった気がして、目をぱちぱちさせる。
「……魔法使い?」
違和感の正体は、隣に寝ていた筈の魔法使いのぬくもりがないこと、だった。
それに気付いて起き上がる。眠い目をこすり、見渡した室内に彼の姿はなかった。
(どこ、行ったんだろう?)
思って、猫は不安げにひげとしっぽを垂らした。
目を覚まして、魔法使いがそばにいなかったことなんて、今までで一度だってなかった。だから、どうしていいか分からなくて、クッションの上から動けなかった。
きょろきょろと、せわしなく動く猫の目が、ふと窓で止まる。
窓の向こうは抜けるような青い空だった。いつもよりも高い場所にある太陽に、今日は少しだけ早起きをしたのかなぁ、と思う。
(探しに行こう)
そばにいないなら、探せばいい。思い立って、猫はクッションの上から飛び降りた。
魔法使いは、いつだって猫のそばにいてくれたから、彼を探そうと思ったのは初めてのことだった。だから、少しだけわくわくする。
魔法使い、どこにいるのかなぁ。そう思いながら、猫は彼が寝ていたシーツを踏む。肉球に触れる温度は冷たくて、さびしくなる心は見ないふりにした。
ベッドから降りて、少し隙間のあいたドアから出ると、古い木と埃のにおいがした。
(そういえば、こうやって館の中を歩くのは初めてかもしれない)
気づくとなんだかおかしくて、猫はふふふ、と笑う。
もう随分長いことここにいるのに、こうして陽の下で見て回るのは初めてだった。宵の口に魔法使いを見送ったら、まっすぐ森へ出ていたし、明け方に帰っても薄暗い中をベランダに直行する。だから、こうしてゆっくりと館の中を見るのは、なんだかおかしな気持ちになった。
でもなんだか楽しくて、猫はいつも魔法使いに抱かれて通る廊下を、ゆっくり見て歩いた。
等間隔で並ぶ縦長の窓も、歩く度に音を立てる古い床板も、今まで気にも留めていなかった閉じられたドアも、何もかもが初めて見るもののように思えた。
ずっとここで暮してきたのに、初めて見る物ばかりなんて面白いな。今度、夜に森じゃなくてこの館を探検してみるのもいいかもしれない。そんなことを考えながら、猫はてくてく歩いた。
しばらく進むと、ようやく開いているドアを見つけた。猫がぎりぎり通れるくらいの隙間から顔を出せば、窓のところに人影を見つけてうれしくなる。
魔法使いは、ただじっと青空を見上げていた。
そろりと近づき、足元に座り込んでみても、彼は視線を動かすことはない。
なんだか、声をかけてはいけない気がした。何かを考えているような雰囲気を纏う彼を見上げ、猫はただそこにいられることが幸せだった
きっと、彼は猫がそこにいることを知っている。じぃっと見つめる視線に気づいていて、それでも空から目を離さない。
空は抜けるような青で、雲がゆったりと浮かんでいた。館の二階にあるこの部屋から森の緑がよく見えて、凪いだ空気に、時折木の葉が揺れてさわさわと鳴る。
そんな静寂に包まれた森を、けれど魔法使いはどこか鋭い目で見ていた。
穏やか、というには静かすぎる。鳥の姿も、獣の声さえ聞こえない森は、息をひそめているかのようで、彼は、何かを肌で感じていた。
きっと、何かある。
それは確信にも近い。
「猫」
「なぁに?」
急に響いた声に、猫は大して驚きもせずに答える。魔法使いは相変わらず猫を見ないまま、でも猫はうれしそうに笑った。
「猫はどうして、私のそばにいる」
問われて、猫はきょとんと首を傾げた。
どうして、そばに。その質問の意味が分からない、とでも言うように。
分らないから、猫は黙ったまま彼を見上げた。自分を見ようとしない魔法使いをただ見つめて、そうして言葉を待っていたけれど、彼の口が再び開くことはない。
だから、分らないなりに考えた。
どうして。魔法使いのそばに、どうしているんだろう。
そんなこと、考えたことさえなかった。今までそれが当たり前だと思ってきたから。理由、なんて必要すらなかったけれど、魔法使いが今問うているのは、その理由。
猫は窓の手すりに飛び乗った。空を見続ける彼を、正面から覗き込む。
「理由なんて、ないよう」
それだけ言うと、へにゃりと破顔した。
理由なんてない。どうしてと考えても、そばにいるのが当たり前で、それ以外なんて考えられないから、そのままを言葉にした。
今までずっとそれが当たり前だったから。そう答えれば、彼は虚を突かれたように猫を見下ろして、少しの間沈黙した。その瞳から感情を読み取ることはできなかった。けれど、魔法使いのこげ茶色の瞳に自分の姿が映っているのが見えて、猫はえへへと笑う。
それを眺め、不意に視線を動かした魔法使いは、虚空を優しく掴むような仕草をした。ぱきん、と乾いた音が響き、魔法使いは猫を見る。
「……あ」
「『星くず』だ。私以外には、砕けて初めて見える」
猫の前で開かれた手の中には、キラキラと儚く光る、透明な「星くず」があった。
さらさらとした砂のようなそれは、手からこぼれ、粉雪のように舞い落ちる。床に届く前に溶けるように消えてしまったそれを、猫はうっとりと見つめていた。
(「星くず」は、きれいだ)
猫の持っている青いガラス玉みたいな「星くず」も好きだけれど、透明なのもきれいだから、好きだ。
そう思って、ふと思い立つ。
「あたしのは、どうして見えるの?」
疑問はそのまま言葉になった。
魔法使いのくれた「星くず」は、青いガラス玉みたいな形をしている。もらった時に、それは砕ける前の「星くず」なのだと教えてくれた。
でも、今見せてくれたのは透明な「星くず」。砕けるまでは、魔法使いにしか見えないモノ。なら、どうして猫の「星くず」は見ることができるの? そう問えば、魔法使いは猫をそっと抱きあげた。
「あれは、特別な『星くず』だからだ」
猫を優しく抱き、ゆったりと流れる雲を見上げながら、彼は低く言う。その声音はいつもよりもずっと低くて、どこか苦しそうで、泣きそうだった。
「猫に渡したのは、強い魔法と、魔力と、悲しみから生まれた『月の涙』の欠片」
それ故に青く、目で見ることができる。
そう続ける彼に、猫はふぅん、と相槌を打つ。
「月が、泣いたの?」
「そうだ。月が――世界が泣いた夜に生まれた欠片だ」
魔法使いが頷く。それを聞きながら、猫は今ヴィアが持っている青い「星くず」を思い出した。
淡い青の、涙の粒が欠けたような欠片。あれを見ていると、悲しくなった。胸の奥がちくちくして、苦しいような、切ないような、そんな気持ちになる。きっとそれは、月が泣いたからなんだな、と猫は納得した。
魔法使いの言葉は重くて難しかったけれど、なんとなく、理解できた。
「星くず」は悲しい心の欠片。猫が持っていたのは、悲しいだけじゃない欠片。だから青くて、特別な「月の涙の欠片」。
そっかぁ、と気の抜けたように呟く猫を、魔法使いはくすぐるようにそっと撫でた。
さらさら、と毛を滑る感触に、幸せだなぁ、と思う。ずっとずっと、こうして撫でられていたいな。抱きしめられたいな。そんなことを思いながら、そっと目を閉じた。
魔法使いは、猫にしか分らないくらい僅かに、微笑んだのだった。