初めて見た「ニンゲン」 3
川のほとりに着くと、そこに木の根にもたれて眠るヴィアがいた。
ぐっすりと眠り込んでいて、猫は来る途中で見つけたくだものを置いて、そぉっと彼に近づく。
呼吸は穏やかで、顔色もまだ悪いけれど昨日よりは良い。肩の出血はもう止まったようで、風に混じる血の臭いは大分薄れていた。
彼が死んじゃっていたらどうしよう、なんて思っていた猫だったけれど、杞憂に終わったようで、ほっとする。
とりあえず気持ちよさそうに寝ていることだし、と思って、その場に腰を下ろした。
「……ん」
しばらくそのままぼんやりしていたら、浅い吐息が聞こえて、ヴィアを見る。
まだ傷が痛むのだろう。眉間にしわを寄せ、かすかに呻きながらゆっくりと目を開ける。その様子をじっと見守っていた猫は、地面に投げ出される彼の左手に近付いた。
乾いた血がこびりついたその手を、覚醒を促すようにぺろりと舐める。とたんにヴィアはびくりと体をこわばらせ、見開いた目で猫を見ると気の抜けた息を吐き出した。
小さな猫が、自分の手の横にちょこん、と座り、きょとん、とした顔を向けるものだから、ヴィアは少し笑った。そのまま手を伸ばして頭を撫でれば、猫はうれしそうに目を細める。
しばらく撫でられて、猫はごろごろとのどを鳴らす。でも急にそれが止まって、どうしたのかな、と目を開けた。
彼の目が、猫から反れていた。何を見ているんだろうと視線を追って、猫は「ああ」と呟く。
「ヴィアの食べ物だよ」
視線の先にあったのは、森で見つけたくだものだった。
「みつけたから、持ってきたの。ヴィア、まだ動けないでしょ?」
当たり前のように言えば、彼は驚いたように目を丸くして、猫とくだものを交互に見つめた。
森にあるくだものは、森に住む動物たちの食べ物だと、以前魔法使いに教えてもらったことがある。動物が食べるなら、人間も食べれるかな、と思って持ってきた猫だったけれど、彼はくだものを驚いたように見るだけなので、猫は不安になってしまった。
(ニンゲンはくだもの、食べないのかな)
もしそうなら、ニンゲンは何を食べるのだろう。
猫はミルクと、たまに小魚を食べる。魔法使いはミルクを飲んでいるところしか見たことがないし、人間が食べるもの、といわれても、猫には想像すらつかない。
だからどうしよう、と困惑する猫に気付き、ヴィアは手を伸ばしてくだものを手に取った。それを目で追う猫に、彼はにっこりと笑って見せた。
「おいしそうなリンゴだね。ありがとう」
片手に収まるくだものは、赤くつやつやと輝いて、瑞々しいリンゴだった。へたの所に猫の歯形があるのがちょっと笑える。小さな体で一生懸命持ってきてくれた姿が見えるようで、ヴィアはリンゴを膝に置くと、猫のひげのところを優しく掻いた。
「ね、そのくだもの、リンゴって言うの?」
「ん? そうだよ」
猫が問えば、ヴィアは頷く。猫は赤くて丸いくだもの、としか知らないけれど、ヴィアはたくさん名前を知っていてすごいなぁ、とヴィアを見た。
そんな視線を向ける猫に、ヴィアはにこりと笑う。
「レイルーンも、食べる?」
「え」
言って、ヴィアはポケットに手を突っ込んだ。
「甘くておいしいんだ。半分お食べ」
取り出したのはナイフだった。それでリンゴを割ろうとするけれど、猫はふるふると首を横に振って、彼の手を止める。
「あたしはいらないよ」
にこりと笑って言えば、ヴィアは残念そうな顔をする。
「あたしにはね、魔法使いがくれるミルクがあるからいいの。ヴィアに食べてほしくて持ってきたんだよ」
「……そっか。わかった。ありがとう」
微笑む猫に、ヴィアも笑顔を返す。服の汚れていないところでリンゴをこすり、一口かじる。ふわりと甘く瑞々しい味が広がって、ヴィアは自分が空腹だったことに気付いた。しゃくしゃくと、ヴィアがリンゴを頬張るのを、猫は傍らに座って眺めていた。
「ねえ、ヴィア。その怪我どうしたの?」
リンゴが綺麗に芯だけになり、彼が一息ついたのを見ると、猫は言った。
だって怪我はずいぶん酷くて、ガラスの破片で切ったとか、そんな血の量じゃなかったから、どうしてそんな怪我をしたのか、気になったのだ。
ヴィアは、あぁと苦笑して、そっと傷のある肩に触れる。
「昨日森でね、体の大きな獣に会ってしまってね。逃げ切れなかったんだよ」
なさけない話だけれどね、という彼に、猫はますます首をひねった。
「逃げるの? 動物さんに会って、なんで逃げるの?」
「え? え、えーとね」
何で大きな動物さんに会ったら、逃げるんだろう。そう思ったから聞いたのに、ヴィアは困ったように笑って、考え込んでしまった。
猫は森の動物に会ったことがない。だからどうして逃げるのか、それが分からない。
むしろおしゃべりしたり遊んだりしたいのに。そう思うのに、どうして逃げるんだろう。どうして、逃げ切れなかったせいで怪我をしたんだろう。それが本当に、わからなかった。
「えっとね。森で獣に会ってしまったら、人間は襲われてしまうんだ。怪我をしたくなかったら、逃げるか、戦うかしか、ないんだよ」
だからレイルーンも気をつけるんだよ。とまるで子どもに教え諭すように、ヴィアは答える。
獣。特に肉食の大きな獣は危険だからね。小さな猫なんてすぐに食べられてしまう。そう噛んで含めるように言う彼だったけれど、猫はやっぱりよくわからなくて、視線をあちこちにさまよわせた。
そんな様子の猫に、ヴィアは仕方ないとため息を吐き、話を変えることにした。
「ひとつ、不思議なことがあるんだ」
思い出すのは、昨日のこと。
森に入り、しばらく歩き回ったところで熊みたいな獣に出会ってしまった。そこまでは別に不思議ではない。不運だったけれど、でも不思議なのは襲われた、その後のことだった。
「爪に襲われて、このまま死ぬんだって思ったんだけどね。でも夕日が沈みきったことに気づくと、攻撃をやめたんだ。そのまま何もせず、森の奥へ去っていったんだよ」
まるであれは、時間になったから家に帰る子どものようだった。そう言って、考え込むヴィアに、猫はふぅんと声を上げるだけだった。
興味を失ったような猫を、ヴィアはそっと抱き上げる。そのとき、ヴィアの動きが一瞬とまり、猫は彼に両脇を持ち上げられた格好のまま、きょとんと彼を見た。
ヴィアは、眉間にしわを寄せ、体を強張らせていた。ゆっくりとした動きで猫をひざの上に置き、そのまま傷のある肩をそっと押さえる。
(痛いんだ)
彼の表情と仕草でそれに気付き、猫は心配そうな目で彼を見上げる。負担をかけないように出来るだけ動かず、じっとヴィアを見ていれば、彼は大きく息を吐いて、体の力を抜いた。
心配そうな猫に気付いたのか、彼は弱く微笑み、猫の背をそっと撫でる。
「ねえ、レイルーン。君は、この森の外へ出たことがある?」
優しい声色だったけれど、でもどこか鋭い瞳でヴィアがそう問うた。
猫をじっと見下ろす彼に、猫はへにゃりと弛緩した顔で、軽く首を横に振った。
「ないよぅ」
猫が森を出たことは、一度としてなかった。
外へ出られないわけでは、ない。魔法使いが「森を出てはいけない」と言ったことは無いし、猫はいつだって自由に自分の行動を決めることが出来る。
だけど、猫は魔法使いとずっと一緒にいることが幸せだから、猫には外の世界なんて、必要なかった。
だから、猫はにこにこ笑ったまま首を振ったのだけれど、ヴィアはそれを見て眉をひそめた。
苦しげに歪んだ顔を、見られないように背ける。でも猫は、彼がどうしてそんな表情をするのか分からなくて、どうしたのかな、と思う。おなかがすいたのかな、とか、傷がいたいのかな、とか。
そう問おうとすれば、ヴィアは小さく「そうか」と呟いて、猫の頭を撫でた。
にこり、と笑うその顔にはもう苦しそうな影はなくて、猫は安心した。
「ねえレイルーン。よかったら、僕に森での暮らしを教えてくれないかな?」
代わりに、森の外のことを話してあげるよ、とヴィアが優しく言う。その言葉に、猫は目をぱちくりさせて彼を見た。
「君がいつも、どんな風に暮らしているのか知りたいんだ。レイルーンと、もっと仲良くなりたいから」
「ふぅん。……わかった! ねえ、ヴィアは森のこと、何ききたい?」
にぱっと笑う猫は、うれしくて仕方がないと目をきらきらさせていた。
いつも、猫が魔法使いと一緒にいるとき、猫が話すのはその日あったことだとか、思った事とか、そんな些細なことだった。
けれどそれは猫が勝手にしていることで、話して欲しい、といわれたことではない。魔法使いは何も言ってくれないけれど、聞いていないわけでもなかった。だから良かったのだけれど、それでも、望まれたことがうれしかったのだった。
だから歓びに輝く瞳をヴィアに向ける。その先で、彼は微笑ましげに笑った。
「そうだなぁ。ねぇ、レイルーン。ここは『魔法使いの森』なんだよね?」
「? ううん、違うよぅ。魔法使いはここに棲んでるけど、魔法使いは、『星くずの森』って呼んでる」
「……星くず、の、森」
猫は歌うように答えた。にこにこと笑顔を崩さない猫を優しく見下ろすヴィアの目に、僅かに剣呑の光が宿る。でも、猫がそれに気付く前に、それは元の柔らかくてやさしい眼差しに戻ったから、猫はなにも知らずに笑顔のままだった。
「今日も、陽が昇る前に行ってしまうの?」
「うん。あのね、魔法使いにおかえりって言うのよ」
言って、猫は膝の上で空を仰いだ。
木々の隙間から見える小さな空は、闇色にも近い黒だった。欠けた月はまだ高い場所にあって、猫はほんの少しだけ寂しそうに、目を細める。
「――ねぇ」
そんな切ない瞳の猫を見つめて、ヴィアはわざと明るい声をかけた。
猫の両脇に手を差し込み、そっと抱き込む。鈍く痛む傷は無視して、小さな体を落とさないように力を込めた。そのぬくもりが、魔法使いのそれによく似ていて、猫は安心しきったように体の力を抜いた。
「手当てと、リンゴのお礼にね、僕の国のおとぎ話を聞くかい?」
「おとぎ話?」
「ん。銀色のお姫様の――お話、だよ」
優しい彼の声が、一瞬迷うように途切れたことに、猫は気付けなかった。
彼の目があまりにも優しくて、愛おしさにあふれていたから、猫は魔法使いに抱かれている時のようにまどろんでいた。
だから、何も考えずににっこり笑って、頷いたのだった。