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お月さま色した、猫  作者: 久世ひろみ
1章
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初めて見た「ニンゲン」


 ざわざわ、と木々が騒ぐ夜は、この森では珍しい。

 いつもは魔法使いが出かけてしまうと、途端に息を潜めるように静まり返る森だった。その静まり返った森しか知らない猫は、ざわめく森に、どうしたんだろう、と首をひねる。


 ひょっとして、人間がいるから騒いでいるのかな、なんて思うけれど、どうしてだろうと、もっと首を傾げる。

 森の中には、猫は見たことがないけれどたくさん動物がいるのに、人間だって動物なのに、どうして森は騒ぐのかな。そう疑問に思うけれど、深く考えることはない。ただ、気の抜けた笑みを浮かべるだけだった。


 力なく木にもたれかかる人間は、夜目の利く猫には、魔法使いと似た形だと思えた。肩より少し長い栗色の髪を後ろでくくった、まだ幼さの残る顔立ちを猫はキレイだな、と感じた。

 魔法使いの顔はたまに怖くなるくらい綺麗だけど、この人も、キレイ。


(……生きてる、のかな?)


 ぴくりとも動かないから、猫は恐々彼に近づいた。人間、なんて魔法使いの話でしか聞いたことがないから、もっと近くで見てみたい。そう思って。

 近づいて、だらんと地に落ちている手の側まで来ると、猫はすんすんと匂いをかいでみた。


(変、なの)


 猫がまず思ったのは、そんなことだった。


 変。ニンゲンって、すごく変。

 だって、彼からは魔法使いとも、森や風や、花とも違う、今まで嗅いだことのない匂いがするから。


 変――だけど、頭の隅で、ほんの少しだけ、「懐かしい」と思った。

 懐かしいだなんて、どうしてそう思うんだろうと、猫は首をひねる。人間を見たのは初めてなのに。この匂いを、空気を、知っていると思う、なんて。


「……っ」


 突然耳に飛び込んできた音に、猫はなにかを考えるよりも先に、近くの木陰に身を隠した。

 あんまり驚いたものだから、猫のしっぽはいつもの三倍に膨れ上がり、背中の毛も逆立っている。

 心臓がどくどくうるさくて、猫は前足をなめて気持ちを落ち着かせた。


 そろりと覗き込むと、倒れていた彼は顔を苦しげにしかめて、肩に手を当てていた。怪我が痛むのだろう、枯れ草色の上着にじわりと赤い染みが広がって行く。

 音のない森は静か過ぎるくらいで、彼の苦しそうな浅い息遣いが猫の耳に届いた。あたりに立ち込める血のにおいはだんだん濃くなって、猫はどうしよう、と焦る。


 森に暮らす猫は、実は森に棲む他の動物のことを、あまり知らない。

 日の出ている間を魔法使いと館で過ごし、森に来るのは夜、月の出ているときだけだから、というのもあるだろう。静か過ぎる森はけれど、他の動物がいないわけでもなかった。

 魔法使いに森の動物のことは教えてもらっているし、館の中で何度も獣の声を聞いている。森の中から生き物の気配も感じるけれど、彼らが猫の前に姿を現したことは、一度としてなかった。

 だから猫は、怪我をした人間を前に、どうしていいか分からなかった。


(魔法使いは、どうしていたっけ?)


 前に怪我をしたときに、魔法使いはどうしていただろう。指先から血を流した魔法使いは――そこまで考えて、猫は彼を見た。

 どうやら彼は、傷の程度を確認しているようで、不自由な動きで上着を脱いでいた。肩の傷は酷くて、なにかに引き裂かれたような傷が三本、走っていた。


 猫が見ている間に、彼は脱いだ服の汚れていないところを裂いて、傷口を覆うように肩にまきつける。それは、魔法使いが指先の怪我にしていた行為と同じだった。だから、猫は、それが「手当て」なのだと気付く。

 猫は、息をひとつ落として、心を決める。


 この、人間を死なせたく、ない。だから、たすけなくっちゃ。

 そう強く思ったから、木陰を出た。


 猫が人間の前に姿を現したとき、彼は丁度、細長く破った布を肩で縛ろうとしているところだった。でも、その指先は覚束なくて、動くほどに血が溢れて行く。

 猫は躊躇うことなく彼の膝に飛び乗った。小さな体をいっぱいに伸ばして、布の端を口で捕まえる。


「っ! ……猫?」


 突然の重みに体をこわばらせた彼は、その姿に、詰めた息をゆっくりと吐き出した。

 痛みに歪んでいた顔に、薄く笑みが浮かんだのに猫は気付いたけれど、彼を助けたいしか考えていないから、促すように布をぐいぐいと引く。

 戸惑う彼に、今度は傷を一瞥し、それから彼の目を見据えて、もう一度。


 その動作で猫の言いたいことを理解した彼は、瞠目した。猫が――獣に過ぎない一匹の仔猫が、自分の手当てを手伝おうとしているなんて、信じられない。そんな目だった。

 けれど、と彼は思う。けれどここは魔法使いが棲む森だから、人間のような知性を持つ猫がいたって、不思議じゃないのかもしれない。そう考えて、とりあえず手当てを済ませてしまうべく、もう一方の布端を掴んだ。


「親切な猫さん。ここを縛るから、そのまま押さえていてくれるかな?」


 猫は言われるまま、顎に力を入れた。ぐっと、力を入れすぎたのか「うっ」と声が漏れていた気がする。


 そうこうしている内に手当ては終わったようで、彼はほうと息を吐いて、猫の小さな体を抱き上げた。ぽすん、と猫が膝の上に乗せられた直後、一瞬、彼の動きが止まる。

 どうしたのかと猫が見上げれば、彼は猫のしっぽを大きく見開いた目で見つめていた。猫が首を傾げると、彼ははっとしたように顔を上げて、ちょっとぎこちなく笑う。


「あ……、助かったよ、猫さん。ありがとう」


 そう言って、彼はそっと猫の頭を撫でた。それは魔法使いがいつも猫にしてくれているのと同じ仕草で、猫はゴロゴロと喉を鳴らして目を閉じる。


「ね。君はこの森に棲んでいるの?」


 しばらく撫でられていた猫は、そう問われてぱちりと目を開けた。


「この森にはもう何度も来ているけれど、動物に合ったのは今回が初めてだなぁ」


 もっとも、さっき襲われた大きな獣と、君だけだけどね。彼はそう苦笑しながら、独り言のように言う。だから、猫は夜空色の瞳で彼を見上げ、うん、とひとつ頷いた。

 それだけだったのに、彼はどうしてか、ぎょっとした顔で固まってしまったから、猫は首をひねる。

 まるで、うっかり声に出してしまった考え事に返事を返されたような、微妙な顔を見つめていると、不意に目がぱちぱちと瞬いた。


「あー……えっと。君、人の、人間の言葉が、わかるの?」


 恐る恐る、半信半疑といった様子で彼が言う。猫がまた頷くと、彼は血まみれの右手を額に当てて、まさかね、と低く呟いた。

 そんな様子をじいっと見ていた猫は、なんだか随分元気だし、大丈夫みたい、と思う。


「君は、この森に棲んでいるという、魔法使いの飼い猫?」


 半信半疑の色を浮かべた彼の問いに、今度は猫が目をぱちくりさせる番だった。

 確かに、魔法使いはこの森に棲んでいるし、自分は猫、だけれど。


「――ねえ、人間さん。『飼い猫』ってなぁに?」

「え?」


 猫がそう問うた、一瞬遅れで彼はこれ以上ないほど目を見開いた。

 絶句し、瞬きすら忘れてしまった彼に、猫は彼をまっすぐに見上げたまま、もう一度「ねぇ」と声をかける。それでも反応がないので、聞こえていないのかなぁ、なんて思った。


「ねぇ、どうしたの?」


 だから、猫は乗せられている膝をぐいぐいと押した。彼が驚く理由がわからなくて、猫は未だ放心する彼をじっと見つめる。


「……君、人の言葉を、喋れる、の?」


 彼の声音は僅かに震えていた。そんな様子に、猫はますます首を傾げ、へにゃりと力の抜けたような笑みをこぼす。


「そんなの当たり前でしょー? 人間さんだって、喋ってるのに」


 あんまりにもあっけらかんと言うものだから、彼は二の句を紡ぐのを少しだけ躊躇った。ええと、と言葉を探しながら猫の背中をそろりと撫でる。さらさらとした毛並みが心地よくて、彼は手をそのままに口を開いた。


「僕は人間だから話せるけど……でも、猫は普通喋らないよ?」

「ふーん。……それより、ねぇ『飼い猫』って何?」


 無邪気に言う猫に、彼はぽりぽりと頬を掻いた。きょとんとした目で見上げてくる猫を見下ろしながら、そっと目を細めて、また猫の背を一撫でする。


「飼い猫というのはね。主従関係――って言ってもわかんないか。食べ物をもらって、愛されて、育ててもらう猫のこと、だよ」


 口の端に笑みを浮かべて、彼は低い声で静かに告げた。

 言われて、猫はふいと彼から目をそらす。


(飼い猫……)


 教えてもらった言葉を吟味するように、猫は口の中で呟いて、考えた。

 飼い猫。魔法使いはミルクをくれるし、そばにいてくれる。「愛される」が何かはわからないけれど、二年、ずっと魔法使いは猫をそばにいさせてくれた。


 でも――違う。そんな、気がした。

 猫と魔法使いの関係は、飼う、という言葉ではないと、なんとなく思う。関係につけられる名前なんてわからないけれど、きっとどんな言葉を並べても違う気がして、猫は二度、頭を振った。


「ちがうよ。あたしは魔法使いと一緒にいるけれど、『飼い猫』じゃないよ」


 思ったままを口にすれば、彼はそうか、と目を細める。何か考えているような 一瞬の間を空けて、そっと猫の背から手を離した。


「ねえ、猫さん。君の名前はなんていうんだい?」

「名前?」

「うん。名前を聞かないと、なんて呼べばいいのか分からないから」


 にこり、といわれて、でも猫は困ってしまった。


 名前なんて。そんなもの猫にはないのだから。

 魔法使いは猫を「猫」と呼ぶ。猫も、魔法使いを「魔法使い」と呼ぶ。それは。名前なんて必要がないからだ。この森には、「猫」も「魔法使い」もほかにはいないから、別の「名前」なんて、要らなかった。


 だから答えられなくて、猫は困ったように彼を見上げた。


「えぇと、人間さん」

「ヴィア。僕の名前はヴィアっていうんだ。そう、呼んでほしいな」


 優しい声に遮られて、猫は思わず閉口した。この森には人間なんて彼しかいないから、人間さんでいいんじゃないかな。ぼんやり思ったけれど、彼が妙にきらきらした瞳で猫を見つめるから、猫は小さく息を吐いた。


「ヴィア?」


 囁くような声音で呼べば、彼は嬉しそうに破顔する。でも猫は、そんな彼を見ていなかった。


(……懐かしい?)


 呟きがまるで、胸の奥にぽっと熱を放ったようだった。むずむずとくすぐったいような。温かくて、嬉しいような、そんな不思議な感じがする。猫は前足で胸のあたりをこすってみた。

 そんな猫の行動を訝しんで、ヴィアは「どうしたの?」と声をかけた。その声で自分がぼうっとしていたこと気付いた猫は、それまでの思考を振り払うように頭を振る。


「どうもしないよ」


 彼を見上げて言う猫は、何も考えていないような、気の抜けた笑顔だった。


「あのね。ヴィア、あたしね、名前ないんだよ」

「そう、なの?」


 驚いたように片眉を上げたヴィアに、猫はにへらと笑ったまま頷いた。ヴィアはそんな猫から顔を背ける。ぎゅう、と引き結ばれた唇が、何かを必死にこらえているように見えた。でも「どうしたの?」というより早く、ヴィアが猫のほうを見て笑ったから、その言葉が猫の口から出ることはなかった。


「名前がないんじゃ、呼ぶときに困るね。――よかったら、君にぴったりの名前があるんだ。受け取って、もらえないかな?」

「……うん?」


 優しい空色の瞳が、刹那悲しげに揺らぐ。それでも微笑む彼の表情は優しくて切ない。猫はそんな表情を見たことがなかったから、どうすればいいのか分からなかった。

 そんな猫を見透かしているように、彼は猫の頭を優しくなでる。どうして撫でられているのか分からなかったけれど、そういえば魔法使いも、よく理由もなく撫でているから、まぁいいや、と思う。


 その手は、魔法使いとは違う暖かさだった。優しくて気持ちいいけれど、やっぱり違う。それでも、初めて知る魔法使い以外の手のぬくもりに、猫はそっと目を瞑ってそれを受け入れた。


「……レイルーン。この名を、受け取ってくれる?」


 その名を告げる彼の声は、ひどく甘い響きを含んでいた。


「レイルーン。僕の、大切な人の名前なんだ」

「大切?」

「うん」


 頷いたヴィアの目に、切ない光が宿る。


 告げる名前にさえ、愛情があふれていた。本当に大切なのだと分かる、そんな名前をあたしがもらってもいいのかな、と思う。でも他ならぬヴィアがそうして欲しいというのなら、いいのかな、と思い直した。

 猫がありがとうを言えば、ヴィアは安心したように笑って、優しく猫を見下ろす。


「レイルーンは。彼女は君によく似ているよ。君の毛並みのような白銀色の髪の女の子なんだ。ずっと探している、僕のお姫様なんだよ」

「……ふぅん」


 撫でる手が急に止まったので、猫はそっと彼を見上げた。

 猫の頭に手を置いたままのヴィアは、笑顔だった。確かに笑っているのに、どうしてだろう。猫には泣いているように見えて、胸がきゅっと切なくなったのだった。



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