森の猫
序章 森の猫
ざわり、と夜が揺れた。
やわらかな風が、月光を受けて銀色に輝く毛並みを撫でる。それが気持ちよくて、猫は深い青の目を細めた。
(満月の夜は、やさしいから、すき)
まんまるを描く月を見上げ、猫は長いしっぽを揺らめかせて思った。ふわり、としっぽの動きに合わせて、その先に結ばれた青いリボンも揺れる。
日の光すら拒む深い森も、月夜には一変して優しくなる。
蠢くような闇は優しい風に変わり、重苦しい沈黙は木々の囁き声に。むせ返るような濃く湿った森のにおいは、月光によってふわりと甘い花の香りに変わる。
そうして、この森は猫と一緒に、出かけて行く魔法使いを見送ってくれるのだった。
「いっちゃった」
誰にでもなく呟くと、猫はその足で森へと向かった。
木々の下に入って空が見えなくなる前に、もう一度、と空を見上げる。闇を切り取ったような黒いローブを翻す魔法使いが見えて、猫は小さく微笑んだ。
(いってらっしゃい)
夜空を行く魔法使いに、猫は言葉を舌に乗せずに、心の中でそっと告げる。そしてそのまま、森の中へと入っていった。
夜のお散歩は、猫の日課だった。
陽のある間はずっと一緒にいてくれる魔法使いも、夜は出かけてしまう。だからその間だけ気まぐれに森の中を見て回るのだ。
小高い丘へ行ったり、川に沿って歩いてみたり、花の匂いをかいだりして時間を潰す。そうして空が白み、小鳥たちのさえずりが魔法使いの帰りを知らせる頃に、森の中心にある館へ戻り、魔法使いと一緒に眠る。
それが、猫のいつもの生活だった。
(あのお花は、もう咲いたかな?)
この間、川のほとりで見つけた、ちいさな蕾。
魔法使いが、夜にしか咲かない花なんだと教えてくれた。月明かりで目覚めて、薄い青色に輝く美しい花だと話してくれた。だからそれが見たくて、猫はこのところずっと川のほとりへ行っていた。
つぼみを見つける前は、館から少し離れたところにある大きな木のところへ行っていた。もう何十、何百年と生きているような、すごく大きな木の根元に、鳥の羽を見つけて以来、もしかしたら鳥にあえるかもしれない。そう思って、しばらく通い詰めていたのだった。
結局、鳥の姿どころか、羽音のひとつも聞こえてこないままで、諦めてしまったのだけれど。
昨夜見たときには、大きく膨らんだ蕾が、青く色づいていた。満月の日には夜の力が強くなるから、今夜は咲くかもしれないと、魔法使いに教えてもらっている。
もし、咲いていたら魔法使いに教えてあげようとおもって、猫はにこにこと笑う。
通いなれた獣道には、雑草が生い茂り、先へ進む足を阻んでいた。でも猫の体は小さくて、葉や木の根の間をするりと通れるから楽だった。もっと大きな――たとえば魔法使いが歩けば、きっと若木の枝やいろんなものがじゃまで歩きにくいんだろうな、なんて思う。
もっとも、魔法使いは、森の中を出歩くなんて、しないのだけれど。
しばらく歩けば、水の匂いが猫の鼻に届いた。
川の近くまで来れば、花のあるほとりはすぐ側で、だから猫ははやる気持ちのまま、足元を確認もせずに木の根を飛び越えた。
そして。
「ふぎゃあ!」
つぶれたような声を上げて、猫はとっさに飛び上がった。
足の裏に触れた気持ちの悪いものから飛びのいて、猫は耳を伏せる。肉球と、それから毛にも少し濡れた感触があった。どうやら水溜りに着地してしまったらしいと気付いた猫だったけれど、あれ、と思う。
ここ数日はずっと晴れていた。なのにどうして、水溜りがあるんだろう。そう思って、首を傾げて、ふと気付いた。
それは、妙に暖かかったのだ。ぬるりと粘り気があって、それが気持ち悪くて、猫は濡れた前足を、見えるように持ち上げた。
(なんだろう、これ)
水ではなかった。一目瞭然だった。
赤くて、暖かくとろりとしていて、匂いを嗅いでみればつんと鼻が痛い。その匂いには覚えがあった。
「……血、だ」
いつだったか、魔法使いがガラスを割って指先を切ったことがある。切ったところからぷくりと溢れた、赤いもの。それが「血」なのだと教えてくれた。
でも、なんでこんな所に血が落ちているのだろう、と猫は首を傾げる。
血溜まりは、ずいぶん大きかった。猫が夜明けに魔法使いにもらうミルクよりも多く見えて、こんなに血を流すなんて、すごい怪我なんじゃないかなぁ、と猫は思う。
その時、がさりと草の擦れる音がして、猫はびくりと体をこわばらせた。耳を立て、血に濡れた前足から、前へと、視線を動かした先に見たものは。
猫がそれを見て瞠目した、その時。
夜空を星がひとつ、流れて、消えた。
小さく煌めいた光とともに始まった「音」を聞いたのは、森だけ。