落ちる都
細い路地を、その少年は歩いていた。街を囲む外壁の向こうに沈みかけている太陽が、肩にかかる程度に伸びた白い髪をオレンジ色に染めている。ただでさえひょろりと細い少年の体から伸びる影は、干ばつが起きた年に収穫されたやせ細ったへちまのようだった。少年は四つ角でパタリと足を止めると、肩から下げていた深緑色のショルダーバッグから紙切れを取り出し、十数秒ほどしげしげと眺めた後、紙切れをポケットに直して今歩いてきたばかりの道を少し引き返した。14,5歳と思われる幼い顔を不安そうにしかめていたが、やがて少年は一軒の店の前で立ち止まった。扉の脇には木の看板が立っていて、洒落た筆記体で刻印がされていた。
”CAFFE CHALKIS"
少年はまた紙切れを取り出し、目が紙切れと扉との間を何度か往復した後、取っ手に手を伸ばした。しかしその手は、取っ手にかかることはなかった。内側から誰かが勢い良く扉を開けたのだ。
「じゃあな、来週はもっと濃いやつを持ってくるよ。あと旦那さんに、あんまり働き過ぎないように言っとけ。このままじゃ奴ぁ魔法素そのものになっちまうぜ、ガハハ」
と、低い声で笑いながら出てきた小太りの男が恐らく扉を開けた主であり、この店の客なのだろう。
男に引き続き、店員であろうエプロンを付けた女性が扉から出てきて、男に言った。
「あの人は真面目なのさ、あんたと違ってね。気をつけて帰んなよ。・・・って、どうしたんだい、そんな所に座り込んだりして」
「いや、あの、扉が急に開いてあの人が出てきたから尻もち着いちゃって」
女性の最後の言葉は、扉の脇でへたり込んでいる少年に向けられたものだ。
「あら、ごめんなさいね。ボームさんはせっかちだから」
「大丈夫です。ありがとう、アンクおばさん」
アンクおばさんと呼ばれた女性は少年に手を伸ばし助け起こしてから、小さくなっていく先ほどの小太りの男の方をチラリと見て少しため息をついた。
「あの・・・おばさん?」
少年がオドオドと言うと
「何でもないわ、イル。さぁ、お店はこれでおしまい!夜ご飯にしましょう。今日は特に人が多かったからお昼もまともに食べれてないのよ。お腹もぺっこぺこのペコだわ。今日は何が食べたい?イルも初めての学校で疲れたでしょう。何でも好きなモノをごちそうしてあげるわ」
そう言うと、女性はイルと呼ばれた少年の手を引いて店に入り扉をバタンと閉めた。道の遥か遠くでは、豆粒ほどの大きさになった先ほどの小太りの男がチラリとこちらを振り向き、そしてスタタと見えなくなった。
それから30分もすると、CAFFE CHALKISの窓という窓から今夜の夕食を示唆するのに十分な匂いが染みだしていた。玄関先に植えられた花たちも、その香りを吸おうと背伸びをしているかのように、そよそよと吹く夏の夜風に揺れていた。通りすがりのおばあさんが鼻をクンクンさせながら立ち止まり、キッチンの隣の窓から中に呼びかけた。
「アンクや。美味そうな匂いだね。何を作ってるんだい?」
「こんばんは、トリフばあちゃん。何って、今日はイルが初めて学校に行った日ですからね。マトルの肉のオイル炒めですよ」
「イル・・・?あぁ、昨日この街に来て噂になったあの子だね!もう学校かい?」
「本当は王都魔法修練学校に行かせてあげたかったんだけどね。西エヴィア多種魔法学校っていう所に決めましたよ」
キッチンの窓からおばあさんと会話を交わしながら料理を作っていくアンクおばさんの姿を、イルはポカーンと口を開けてただ呆然と眺めるしかなかった。なんせ今アンクおばさんの手元では玉ねぎが包丁も使わずにみじん切りにされていて、しかもそれはアンクおばさんが手をかざしているだけで行われていることなのだ。かと思えばキッチンの端から深底鍋が勝手にビューンと飛んできてコンロの上に収まり、そこに先ほど刻まれた玉ねぎに加えて、人参、じゃがいも、そしてイルが見たこともないような白くてくしゃくしゃっとして野菜、その他いろいろな具材が飛んできてはサーカス顔負けの精度で我先にと鍋に潜り込んでいくのだった。イルの居た村では魔法を使うことはあっても、それは干ばつが続きどうしても畑が駄目になりそうな時に村中総出で行う雨乞いの儀式であり、喧嘩した友達と仲直りした時、これからの友情を確かめ合う握手なのだ。イルにとって、このように何でも出来る便利な道具のような魔法は初めてだった。
イルはワクワクを抑えきれなかった。
僕はこれからこの街の学校で魔法を学ぶんだ。そこで学ぶ魔法は大勢で円陣を組んで雨を呼ぶ呪文を唱えたり、顔も見たくない友達と取り繕った表情で握手を交わす必要もないんだろう。手を使わずに料理が作れたり、他にももっともっとすごいことが出来るんだろう。
風に吹かれてガタガタ音をたてる窓も、徐々に盛り上がりを見せるおばさんとおばあさんの会話も、シューシューと音を立てる鍋も、彼の興奮を表しているようだった。イルはこの先この街で出会うだろう様々な不思議なことに思いを馳せた。
今日、学校に行くとき路上で見た自転車も、村で見かけるものより断然スピードが速かった。あれも何かの魔法なのだろうか。ちょっと地面から浮いていたような気もする。僕も魔法を勉強すれば、自転車を浮かせられるようになるのだろうか。ツバメにも隼にも負けないようなスピードで、風を切り裂きながら唸りを上げながら、自転車で走ることが出来るのだろうか。
そんなことが出来たら、僕にはどんな世界が見えるのだろう。
「・・・すごい」
イルは空飛ぶ自転車に乗りながら街を見下ろしていた。真下には、今日間違えて曲がりかけた四つ角が見える。その角から少し西に目を向けると、紫色のトンガリ屋根を持った特徴的な建物が見える。イルが今日から通うことになった魔法学校だ。名前は・・・なんて言ったっけ。この街に来たばかりなのでまだ名前は覚えていない。そして目を北の方へ向けると、この街最大のシンボルがそびえ立っている。
王都ハルキスは放射線状に広がっている街だ。
街をぐるりと囲む外壁には一定間隔で門があり、外の街からの来訪者や行商人はみんなそこから出入りする。そして、ハルキスの中央、全ての道路が通じる場所に建っているのが、高さ97メートルを誇る王都ハルキスの象徴、ハルキダ城である。
と、ここまではイルが街に来る時に馬車の運転手から聞いた話だが、今朝初めて実際に城を見た時、その荘厳さにイルは言葉は愚か足の指先から頭の天辺まで金縛りに合ったように動けなかった。不純物を全く含んでいないかのような純白の城壁が太陽の光を眩く反射し、すらりとそびえる天守は美しさと優美さを兼ね備えてそれでいて、こちらを微動だにさせない圧倒的な存在感があった。
イルはハンドルをギュッと握りペダルを力強く漕ぐと、自転車は速度を上げて城の周りをぐるりと周回した。ビュウビュウと顔を打つ風さえも心地よく感じられた。快感だった。空を飛んで地上を見下ろす。それはイルが幼い頃から抱いていた夢の一つだった。顔を上に向けると、目移りするような満天の星空とお月様がイルを見下ろして笑っていた。それは優しい微笑みでもあり、挑戦的な笑みでもあった。
ここまで来れるかな。
イルは月がそう言っているような気がした。
ハンドルをグイッと手前に引くと、その意図を察したかのように自転車は真上を向いた。不思議と落ちる気はしなかった。待ってろよと心のなかで凄んでから、イルはペダルを漕ぐ足に更に力を込めた。自転車は猛烈な加速度で上昇していった。あれほど壮大だったハルキダ城もすぐに手のひらくらいの大きさになった。涙で周りの景色が歪んだが、イルは気にしなかった。コンドルのような大きな鳥が一瞬イルの隣に並んだが、直後に諦めたように落ちていった。イルは昂揚した。月はぐんぐんイルに近づき、対照的に周りの星はイルと月を残して遠ざかっていくようだった。イルにはもう月しか見えなかった。タイヤはタイヤであることを忘れたかのような速度で回り、ペダルはとうの昔に外れて吹き飛んでいた。だがそれでもイルは漕ぐのをやめなかった。月はますます迫っている。
あと少し、もう少し、手を伸ばせば、触れられる・・・・!
「やっ・・・」
あああああああ!と思わず叫びそうになってイルは慌てて口を抑えて周りを見渡した。
イルはCAFFE CHALKISの椅子に腰掛けていて、鍋はシューシューからピーピーへ音を変えていた。アンクおばさんはまだおしゃべりに夢中でイルが叫びそうになったことなどまった気づいていない様子だったので、イルはひとまずほーっと息をついた。
悪い癖だ、イルは髪の毛をくしゃくしゃとかいた。
昔から、ふとした瞬間に想像の世界に入り込んでしまう。ただ想像するだけではない、周りが全く見えなくなるくらい想像の世界に浸ってしまい、そして感極まって現実に戻った時に初めて、周囲が自分に向ける奇異の視線に気付くのだ。この想像力をすごいと言ってくれた人も居たが、やはり普通とは違うものを持つ人間は、他の人にある種先入観を抱かせてしまう。この人に近寄ってはいけないのだと。
ダメダメ、この街では上手くやるって決めたんだ。
目を閉じて、静かに息を吸ってから、ふっと小さく鋭く吐く。イルはゆっくり目を開けて、そして目を見開き叫んだ。
「おばさん!鍋が!」
ヒィっと情けない声を漏らしたアンクおばさんが火を止めようとして鍋に手をかざした途端、慌てすぎたのか鍋の蓋が吹き飛び、中からよく焼けた肉が飛び出てキッチンを2,3周ぶんぶん飛び回ってから、窓の外でポカンと空けていたトリフおばあさんの口にゴールインしたのを見て、イルとアンクおばさんは腹が捩れるかと思うくらい笑った。
そこから後の十数秒間、何が起きたのかは全く分からない。
突然窓をカタカタ鳴らしていた風が止み、ゴオオオオという地鳴りが段々大きくなってきたかと思うとふわりと体が軽くなり、直後、うめき声を上げる暇もなく巨大な衝撃と共にイルは上空30メートルに吹き上げられた。
いや、拭きあげられたのはイルだけではなかった。イルがさっきまで座っていた椅子も、蓋が吹き飛んだ鍋も、アンクおばさんも、トリフおばあさんも、窓も壁も屋根も扉も、全てが宙に吹き飛ばされた。そしてしばし停滞の後、人々の絶望の悲鳴を巻き込みながら、上空30メートルから全ては落下する。
下へ、
地面へ。