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たまずさ  作者: 歩野
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6  微揺

 萌芽(ほうが)は梅雨入りした五月の中旬だった。

 休み時間に友達とのお喋りに興じていると、吹奏楽部の哲也が、なにやら愉快そうに話しかけてきた。

「おまえ一コ下の志保と仲が良いよな。最近、志保が安幸の事ばかり聞いてくるけど、おまえにも聞いてくるか」

 突然の話に意味が分からず、きょとんと哲也をみた。

「前はな、悠次、おまえが好きだって言ってたけど、今は安幸に夢中らしいんだ。それでなにかと安幸の事を聞いてくるんだよ」

 哲也はたいそう面白げだった。

 僕は一瞬、脳回路がストップした。

「へえ、そうだったんだ。――俺には聞いてこないけどね」

 頭の整理がつかないままにこたえた。

「じゃあ今度志保に会ったら安幸の話をしてみな。きっと顔を赤くするから」

 哲也は歯をむいて、にやりとした。

「あっ、そう。――じゃあ志保を見かけたらやってみるよ」

 僕のこたえに哲也は親指を立ててウィンクしてみせ、緑の絨毯に(きびす)を返し、やたら上機嫌にトイレを目指した。

 僕は奇妙な感覚をおぼえながら窓際の自分の席に戻り、次の授業の教科書を机に取り出した。奇妙な感覚がなんなのか、てんで分からないままに。

 外は土砂降りの雨だった。大粒の雨が屋外の山景をかすませ、雑音を奪い取り、世界を狭くしていた。


 雨上がりの放課後、音楽室の廊下に、譜面立てに挟んだ楽譜の音符を指で追いかける志保がいた。首からさがった黒のストラップがVの字にぴんと伸び、先端のフックにプラチナ色のフルートが四十五度にぶら下がっている。

 その姿を見かけるや哲也のにやけた顔を思い出し、通りがてらに軽く、おう、と声をかけた。

 志保は顔を上げて、にっこり微笑んだ。濡れた髪が天然でゆるやかにウェーブしている。

「安幸のこと好きなの」

 浅慮な僕は委細かまわず陽気にたずねた。すると志保は見る間に赤くなった。

「なんで知ってるわけ。――哲也兄が言ったんでしょ」

 はたして志保は目に見えて慌てふためいていた。

 僕は心の波動を笑顔で消して、こっくり頷いた。

 志保は、もう、と言ったなり、(つくろ)う事もできず、恥じらいの膨れっ面で足早に音楽室に隠れ入った。

 すぐに志保の姿は他の部員の人だかりにまぎれた。

 校舎独特の匂いがする湿気た空気の中、僕は揶揄できずに志保の挙動を黙って眺めていた。

 放課後の緩慢な気配があたり一面を支配し、塾など無縁に、田舎ならではに、ゆったり時が流れていた。

 追いかけるまなかいの中心点を失って目線を上げると、一列に並んだ肖像画が生徒と好対照をなしていた。シューベルトが素知らぬ顔でベートーベンは何か言いたげだった。

 手持ち無沙汰になった僕は不思議な感覚をおぼえながら野球部室に歩きだした。

 後ろ髪を引かれる思いでゆっくりと歩く視界に、廊下に引かれた無意味なセンターラインが久しぶりに気になった。

 窓のむこうで雨に濡れた木々が色を濃く、質量感を増していた。

 新緑の微揺と近似に、胸の奥がかすかにざわついていた。



   *



 それからというもの、執心の隠し立てをなくした志保は、おのずと安幸と仲の良い僕に、安幸の事をさまざま聞いてくるようになった。

 そのたびに僕は気持ちを汲んで、あいつは成績がいいとか、面白い奴だとか、良い面だけを誇張して手放しで褒めた。

 志保は僕のする安幸の話を、興趣に瞳を輝かせ、至福顔で傾聴するのだった。

 思春期の恋は好きな人を想うだけで幸があふれだす。それを間近に感じる僕も、幸のお裾分けにあずかったようで気分がはなやぐのだった。

 邪心は爪の垢にもなかった。


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