39 小説に入れなかった会話の断片
小説に入れなかった会話の断片
最後に会った日
「やっと普通に話せるようになったと思ったけど、駄目だ。話しているとやっぱり志保が好きになる」
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「中学の時から今の今まで、ずっとずっとず~っと、死ぬほど志保が好きだった」
「その言葉が聞きたかった。嬉しい」
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「何年もかかったけど、志保と心が通じあえて本当に嬉しいよ。会うのは今日が最後になるけど」
「どういう事」
「これまで志保の人生に脇役として登場してきたけど、今後はいっさい登場しないから」
「なんで」
「志保に迷惑かけたくないし、幸せになってほしいから」
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「悠次兄の人生の舞台で私はどんな役だった」
「舞台の上のほうでいつも輝いている聖母マリア様」
―
「俺はいつか志保の事を小説に書く。そういえば高校の時に、小説を書いたら最初に志保に読ませるって約束してたな。俺は志保との約束は絶対に破らないから、もし小説を書いたら、志保の友達にでも頼んで郵送させるよ」
「それじゃあ私が馬鹿みたいじゃない」
志保は不満げに言った。
「そんな事ないよ。少なくとも俺の中では、志保は世界で一番美しいから」
僕は正直に言ったが志保は合点のいかない様子だった。
「その約束はいいから私をお嫁さんにするって約束して」
「……夢だよなあ。――でもその約束はできない」
「どうして」
「志保は俺みたいな人間と一緒になっちゃ駄目だよ。もっといい男と結婚してくれ」
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「中野でそういう仲になっていたらその後はどうするつもりだったの」
「結婚してくれってプロポーズしていただろうな」
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「惚れたら負けって言うものね」
「――なにそれ」
「惚れた方は相手の言う事を聞かなくちゃいけないから負けっていうじゃない」
「そうなの? ……腑に落ちないな。俺は惚れた方が勝ちだと思うけどね。だって惚れてなければこうやって話しているのもただの話になるじゃない。でも俺は志保が好きだから今すごく楽しいし夢みたいだよ。惚れるのを負けと言うなら俺は死ぬまで負け続ける自信がある」
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「それにしても志保は相変わらず細いな。ちゃんと食事してるか」
「うん、ちゃんと食べてるよ。今が私の普通の体重だから。一時は三十八キロまで落ちたけどね」
「何かあったのか」
見る間に志保の表情が翳り、注意深く言葉を探しはじめた。その目に涙の膜が厚くなった。
「うん。――なんだと思う」
「……病気?」
「う~ん、病気のような病気じゃないような」
「……仕事のストレス?」
「――ううん。三年前、悠次兄と別れた後」
絶句した。
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「私は悠次兄の一番の理解者でいたいのに悠次兄は誰にも心の中を見せない事が多いよね」
「俺の事なんか理解しなくていいよ」
自分に存在価値を感じていなかった僕は捨て鉢に言った。
ぞんざいな態度に志保は機嫌を損ねた。
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「俺の記憶は消し去ってくれ」
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「いつか俺の言っている意味がわかる日がくるよ」
「今わかるようにしてよ」
「そんなに怒らないでくれ。今は分からなくてもいつの日か必ず俺の言っている意味が分かるから」
深い愛情はかえって冷酷に受け取られた。
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試すように志保が言った。
「じゃあ、もう帰る?」
僕は黙って頷き、車のエンジンをかけた。
ギアをローにいれると志保が口をはさんだ。
「私が一番好きって言ったけど、いま彼女いるんでしょ。私とは付き合えないのに彼女とは付き合えるっておかしいじゃない」
「彼女はまだ結婚したいと思ってないし、志保のようないい女じゃないから付き合えるんだよ」
アクセルをゆっくり踏み込んだ。
「じゃあ結婚しなくていいから私と付き合って」
「志保とは付き合えない」
「やっぱり安幸兄と関係を持ったのが嫌なんでしょ」
「それは絶対にない。他にどう誤解されようと構わないけど、それだけはない。俺はそんな器の小さい人間じゃないよ」
「じゃあもし今の彼女が結婚したいって言ったらどうするの」
「俺は結婚願望がないって知ってるから言わないよ」
「言ったらどうするの」
「結婚できないって謝る」
「そのコなら傷つけてもいいってわけ」
「彼女がいいコなら話は別だけど、別れたくなるような事を何度もやられてるからね」
「だから傷付けてもいいと思ってるの」
「――俺は結婚願望がないって知ってるから結婚したいなんて言わないよ」
「悠次兄は女の気持ちが分かってない。結婚しないなら付き合うべきじゃない」
「――そうかもね」
「本当にそう思ってる?」
「うん、じゃあ二度と付き合わない」
「約束できるの」
ブレーキを踏んで、ギアをニュートラルに戻した。
かりそめの約束をしたくなかった僕は、熟考した末に、約束できるよ、と答えた。
志保はあきれた顔をした。
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「好きになってごめんなさい。生まれてきてごめんなさい」
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志保はいじらしいほどに恋愛に純粋で、結婚願望が強かった。
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最後に会った日から何日かして、東京に戻った志保から電話があった。
「付き合おう」
「いや。俺は志保を幸せに出来ないから」
「幸せにするように頑張ってよ」
「今の状態なら頑張れるけど、鬱状態に陥ったらどうしようもなくなるんだよ」
「その時は私も一緒に頑張るから」
「その状況に志保を巻き込みたくない。俺が一番望んでいるのは志保が幸せになる事だから、幸せにしてくれる男を探してくれ」
「私のこと嫌いになった」
「志保を嫌いになる事はないよ。絶対に。何をしようとも。たとえ人を殺したとしても志保を嫌いになる事はない。嫌いになれるはずがない」
「それならどうして」
「さっき言った通りだよ。本当に志保に幸せになってほしいから」
しばらく志保は口説いてくれたが僕の返事は同じだった。
「私が好きなんでしょ」
「好きとかそういうのは超越しているんだよ」
「愛しているってこと」
「愛というのがよくわからん」
「世界で一番私が好きって言ったじゃない。そういうのを愛しているっていうんじゃないの」
「それを愛というなら、そうなんだろうな」
「じゃあ、気持ちをこめて愛してるって言って」
「やだよ」
「お願いだから言って」
「――愛してる」
「――志保、愛してる、って言って」
「もういいだろ」
「お願いだから言って」
「――志保、愛してる」
「私も悠次兄を愛してる」
僕が心を込めて愛してると言ったのは、生涯でこの時だけである。
「じゃあ私の電話番号を言うから、気が変わったら電話ちょうだい」
「電話しないから教えなくていいよ」
志保はかまわず番号を口にした。
「わかった?」
「番号を覚えなかったしメモもしてないから、俺から電話がいく事は絶対にないよ」
「なんで」
「番号がわかっていたら電話したくなるから」
「その時は電話すればいいじゃない」
「いや。俺は金輪際、志保と関わらないから」
「悠次兄はそれでいいの」
「しょうがないよ。俺はひとりで生きていく。志保ももう電話しないでくれ」
「じゃあ、もうこれが最後だね」
「うん。今まで本当にありがとう。このさき体に気をつけて頑張って」
言い尽くせぬ感謝をこめて受話器を置いた。




