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たまずさ  作者: 歩野
33/41

33  訣別

 その日の夜、意に反して志保から電話があったが僕は理性を取り戻していた。

 志保は最初から涙ぐんだ声だった。

「……志保だけど」

「うん」

「ごめんなさい」

「……俺の方こそごめん」

「 …… 」

「もう二度と連絡しないから」

「ごめんなさい」

「志保が謝ることじゃないから。悪いのは俺の方だから」

「 …… 」

「 …… 」

「また会えない」

「――いや、もう会わないようにしよう」

「 …… 」

「体に気をつけて、このさき頑張ってな」

「 …… 」

「それじゃ」

 無感情に言って電話をきった。そして、泣いた。

 志保への真紅の言の葉は、ひらひら僕を切り裂いて舞い、咆哮をあげる情念の川面に着水し、もみくちゃにされながら切りたった永遠の崖を落ち、荒廃の滝壺に跡形もなく呑み込まれた。

「おまえ気持ち悪いな」

 畳に置かれた電話を前に、膝を折り、涙にくれる僕を、ぬけぬけと博が(さげす)んだ。

 怨恨の地に、足がかかった地雷の、乾燥した金属音が背筋で聞こえた。

 座ったまま上体をひるがえし、そしりの主をたしかめた。

 博は赤ペンを片手に、競馬新聞に(ふけ)っていた。

「俺をこういう人間にしたのはおまえだろう。俺をいじめるのは楽しかったか。――どうせなら、完全に人格が分裂するまでやってほしかったよ」

 殺意の(はら)んだ怒気を冷ややかに投げた。

 博は聞こえぬふりだった。

 博から目を外さずに立ち上がり、一歩二歩とにじり寄った。

 横手の棚から、無造作に置かれた焼酎の五合瓶が沈着に自己主張した。

 それを右手で鷲掴んでラッパ飲みにあおると、胃袋がかっと熱くなった。

 手にした瓶を大将気取りの脳天に渾身の力で振りおろそうかと見下ろした。

 博の死への憐憫は皆無で、無防備な頭頂部は些少の価値もないただの固形物だった。

 己の散りざまを不浄に考えた。スイカに海苔を貼り付けた程度のこいつを潰して行路を絶とうか……。

 思えば幼い頃から数えきれぬほど博の死を願っていた。

 さんざん殴られてきた中でも、ひときわ鮮烈に覚えている、倒れ際に体重のかかった蹴りをみぞおちに受け、息もできずに悶絶した記憶が頭をよぎった。

 次に、祖母の言葉が脳裏に浮いてきた。(悠次がまだ歩けもしないのに、博は目を離すといつも悠次をいじめていた)

 瓶を持つ手に力が入った。

 もしそこで、博が迂闊(うかつ)に愚弄していたら、人格を蹂躙し、大切なものをむしりとった卑劣をあやめ、僕は自決していただろう。

 しかし博は何も言わなかった。

 死にざまへの美学が、人生を終わらせるにはちんけすぎる相手だと、すがって()き止めた。

 座卓に瓶のあたる音を大きくしてあぐらに座ると博が顔を上げた。

 足蹴(あしげ)にされてきた怒りが狂気に孵化(ふか)した目で、死にたいか、と問うた。

 博は何も言わず競馬新聞に顔を戻した。

 しばらく阿修羅の如く博を睨みつけていたが、怨念の叫びは空を切るにすぎなかった。

 鬱憤のままに暴れる事もできず、はっぱをかけて気分転換する気概もなく、困憊(こんぱい)のまま、立てた片膝に額をつけ、アルコールが血液を循環する感覚に神経を傾けた。

 博は新聞をたたんで寝床にはいった。

 真暗な夜だった。

 部屋の明かりを消すとボリュームを極限に絞ったテレビが青白い照明をつくりだした。

 陽気なタレントが楽しげに笑うブラウン管は見る気になれず、ちらつくテレビの明かりを受けた組立式の三段ボックスと、時代がかった安物の壁板を、まんじりともせず廃人のように眺めていた。

 無味無臭の(しかばね)と化した志保の思い出を傍らに、霊安室にくずおれる僕は世界中からひとりぼっちだった。

 夜半になぐさめるように雨が降り出し、しじまの旋律を変えた。

 窓を開け、外を見やると、沼のような静けさに涙雨が降りしきっていた。

 さめざめとした降雨に心を雨曝(あまざら)し、しこたま酒を(あお)り、気が遠のくほど泣き、ぐでんぐでんに酔った。

 されど用をたす足が千鳥足になろうとも、嘔吐しようとも、頭の核は覚醒したままだった。

 廃墟の心に去来する想いは、雨の調べにただ悲しかった。

 空を黒く塗った暗雲が、丑三つ時に雨脚(あまあし)を強めた。

 闇に街灯の光をはね、降り注ぐ雨がダイヤモンドに輝き、矢継ぎ早に路面に刺さり、無数の輪を描いた。

 アルコールでぬぐえぬ悲哀は衰弱した僕を(とら)えて離さなかった。

 雨粒が路面を叩く単調なリズムはどこまでも静かで、普遍が故に優しくもあり、とわに孤独でもあった。

 両膝を抱えて顔を埋めると、(うれ)いに溺れたしゃぼんだまの唄が口を流れた。

 震えるレクイエムは純色だった青春の終焉だった。

 雨がやみ、夜が白みはじめた頃、精も根も尽き果て、ようやくのこと、半死半生にとろとろと浅い眠りにおちた。


 翌日、志保からの手紙を捨て、新しいアドレス帳に志保の連絡先を写さずに古いものを捨てた。

 志保との訣別、それが僕の考える志保への精一杯の愛だった。

 死んでしまいたかった。なにもかもが厭になった。(生まれてこなければよかった)それまで何度もよぎった思いがひしひしと重くのしかかった。

 弧絶した霊魂は幾晩もかけて、万里の砂漠と一寸の光も射さぬ海底を漂流し、一旦は黄泉(よみ)を伺い、すんでの所で再び目に見えぬなんらかの揚力で前へと押し出された時、僕は世俗の洗礼を所望し、望みはこともなく成就した。

 行きずりの女と初めての関係を持ち、その後も妄動に色欲に身を任せた。

 純情をかなぐり捨て、貞節を堕落させると、身が軽くなり楽になった。

 僕の人生には志保がいないのである。女の事はどうでもよかった。不潔な自分を笑い、志保と話す資格がないと言い聞かせた。それでもふと志保を思い出し、詩を書く事もあった。


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