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たまずさ  作者: 歩野
30/41

30  再会

 待望の連休三日目の夜、僕達は渋谷で落ち合った。

 僕はリーバイスのジーンズに、Tシャツの上にデニムのシャツを着ただけのラフな身なりだったけれど、志保はベージュのスーツに痩躯(そうく)を包んで薄化粧していた。

 はじめて見る社会人姿の志保は初々(ういうい)しかった。垢抜けぬなりにめかしこんだ容姿は完璧に着飾るよりもむしろ僕好みで、シンデレラを思わせる原石の美しさがあった。

 思わず立ち止まり、見惚(みと)れる僕に、志保はスーツのウェストのあたりを両の手で広げるように軽くつまんで、どう、と恥ずかしそうにした。

「化粧は必要ないだろう」

 シンプルな(よそお)いに文句のつけようはなかったが、一つだけひっかかる点を指摘した。

「私の化粧、変? まだ慣れてないから上手くできないのよ。姉さんからいつも下手だって笑われる」

 通りゆく人さえも笑うのではないかと気にするふうに言った。

 僕はもともと化粧が好きじゃなかった。ましてや素顔のきれいな志保は化粧の需要がどこにもない。

「志保に化粧は必要ないよ」

「化粧が下手だからでしょ。次に会う時はバッチリ化粧できるようになってるから」

 ぷっくり頬を膨らませる志保はいじらしかった。

「志保は化粧をしなくても綺麗だよ」

 僕は素直に言って、ごったがえす喧騒を踏みだした。

 東京の狭くて明るい夜空の下を二人で歩いた。

 周囲をみるとどの方角にもカップルがみてとれる。しぜんと心もはなやいだ。

(まるでデートしているみたいだ。いや、ひょっとしてこれはデートなのか……)

 バブル景気に沸く渋谷の街は、つどう若者のエネルギーが狂騒の飛沫となり、叫喚にも似た地響きをたてていた。

 僕達は鈴なりになった群集に揉まれながら、ふんだんに装飾された騒がしい街中を洋風の居酒屋を物色してまわった。

 煩雑な店はどうあっても回避したかった。会話が楽しめる所でないと久しぶりに会ったというのに口惜しい。しかし探せども、渋谷で若者が静かにお酒を楽しめるお店が簡単に見つかるわけもなく、つきつけられた選択は妥協か別の街への移動だった。

 そこはかとなく移動を匂わせながら時間の都合を聞いてみた。

「門限とかあるの」

「今日は朝まで飲んでも大丈夫。どんとこい」

 志保は冗談めかせてこたえた。

 安心した僕はいくらかの距離はあったが比較的詳しい中野に移動する事にした。繁華街と色違いの中野なら間違いがないだろう。

 新宿駅で山手線から中央線に乗り換えてすぐの中野。

 平日よりすいた車内で吊革に掴まり、正面をみると、流れる闇と光を背景にした鏡が志保を映しだしていた。

 窓ガラスに映る志保の姿と、その向こうに見える高層ビル群が、現実とは思えない奇異さでシンクロしている。

 志保の隣には不思議そうな顔をした僕が立っていた。

 夜にコーティングされた街中を無数の光に見送られ、車輪の(きし)む音をとどろかせて突っ切っていく。(このまま二人だけの世界にいけたらどんなにいいだろう)談笑できぬ状況下で子供じみた空想に(ふけ)るたけなわ、反射したガラス越しに志保と目が合い、お互いの顔に照れ笑いが浮かんだ。

 中野では労せず北口から二、三分歩いたあたりでショットバーに似たおあつらえ向きのお店を見つけ、そこに入る事にした。

 こじんまりとした店内は客もまばらにジャズが流れ、ガラス棚に並んだ多彩なお酒が(つつし)みのあるきらびやかさで異国情緒を放っていた。五十がらみのバーテンダーが小さくいらっしゃい、と迎えた。二人掛けのボックス席が二つあったが、僕達は止まり木の一番奥に腰掛けた。

 座る前に志保はエスコートを要求したけれど、きざに思えて僕は出来なかった。

 細作りの椅子におさまると物珍しさに店内を見渡した。屋外の様子が分からないのが幸いして日常とは別世界にいるような錯覚に陥る。

 夢心地におもわず頬がゆるくなった。昔は考えもつかなかったシチュエーションが現実に展開されているのだ。

 瀟洒(しょうしゃ)なバーテンダーが手慣れた動作でメニューを差し出した。

 もったいをつけたメニューを開いて目を通すと、初めて見るスペル達が安居酒屋しか経験のない僕に格の違いを見せつけた。

 僕は冗談交じりにバーテンダーに解説を()い、その薦めに従ってハーパーのロックをダブルで頼んだ。水割りを飲みたいと言った志保にはシーバスリーガルを注文した。

「ここは日本なんだからメニューは日本語にしてほしいよな」

 僕はおどけていたが志保は初めての雰囲気に身構えたそぶりだった。

「悠次兄は何回もこのお店に来てるの」

「いや、初めてだよ」

「でもさっきバーテンダーの人と親しく話してたじゃない」

「バーテンダーは客に愛想良くするもんだよ」

 僕は東京で生きるための図々しさを習得し始めていた。

 志保と腰を据えて話すのは久しぶりだったけれど、時の隔たりが嘘のように、即座にしっくり馴染(なじ)んだ。

「悠次兄はこの駅でよく降りるの」

「たまにね。俺けっこうこの街が好きなんだよ。歌舞伎町界隈の鬱陶(うっとう)しさがないから歩きやすいし、モールもあるし。今は通勤途中駅だから定期券も使えるしね」

「今どこで働いてるの」

「王子駅前に三菱銀行の大きいビルがあるの知ってる? って、知るわけないよね。そこの七階で仕事してるよ。ワンフロアーぶち抜きの職場だからだだっ広いよ」

 僕は職場の雰囲気やプログラミングの仕事をあれこれ説明し、志保はゆかりのない話を興味深げに聞き入った。

「通勤時間はどれくらいなの」

「片道二時間」

「二時間? 私いまの一時間の通勤でも長いと思ってるのに」

 志保は目を白黒させた。

「東京じゃ普通だよ」

 バーテンダーが注文の品をカウンターにすべらせた。

「悠次兄はずっと二時間の通勤を続けるつもりなの」

「いや。今の派遣先は今年いっぱいの契約だから、来年は別の職場に移ってるはずだよ。それより、まず乾杯しよう」

 それぞれのグラスを手に、「再会を祝して」時間差で言って、ささやかに杯をかさねた。

 僕達の若さは店の(おもむ)きから浮いていたけれど、いっこうに気にしなかった。時が経つのも忘れて酒を飲み、つまみを頬張り、山々積もった話をはずませた。

「私、平成第一号の卒業生だよ」

 志保が自慢げに言う。この年の一月、年号が昭和から平成にかわっていた。

「って事は、俺は昭和最後の卒業生って事か。――そのうち俺らの年頃の人間に、昭和卒業なんておじさんだねって言われるんだろうな」

「何おじさんになった話してんのよ。まだまだ先の話じゃない」

 志保は可笑(おか)しそうにした。

「そうだな。でも俺は自分の三十歳が想像つかないよ」

 目線を上げ、空中に自分の三十歳を映しだそうとしたが、まったく無理な相談だった。

「なに見てるのよ。若い今の事を考えるのが先じゃない」

 都会生活と社会人、未知の世界に足を踏み入れたばかりの志保は、僕にというよりも毎日がそうであるように、最初はどこかに緊張をこしらえていたのだけれど、飲み始めてから小半時も経った頃にはすっかりリラックスしていた。

 僕はアルコールと音楽を浴びて気持ち良くなっていた。なによりも横にいるのが志保である。

 これ以上のセッティングはなかった。

 なんだか桃源郷(とうげんきょう)にいるようで気分がふわふわした。

 軽快なジャズに慶福され、志保との(うたげ)は優雅に経過した。

 覚えたての煙草をくゆらせると、煙のむこうで汗だくになったマイルス・デイヴィスがポスターの中からトランペットをファンクさせた。

 志保が相槌を打つと、その端整な輪郭を妖艶な照明が魅惑的に隈取(くまど)った。

 琥珀色(こはくいろ)に光る芳醇(ほうじゅん)な液体の中で氷が小気味いい音を立てるたびに、二人の仲は音もなく溶けていった。

 グラスも、ボトルも、ピンライトの光芒も、残らず(きら)めいた素敵なひとときだった。


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