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たまずさ  作者: 歩野
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29  志保上京

   第九章


 全国を網羅するシステム開発のたてこんだ労務に、こつこつ寝る間も惜しんで仕事と勉強に明け暮れていると(またた)く間に四月が巡ってきた。

 たゆまざる努力は確かな実を結びはじめていた。仕事にも慣れ、エンジニアが見落とした設計ミスにも気付くようになり、多少の余裕と自信が付き始めていた。

 そんな頃、ラッシュアワーの通勤電車でもみくちゃにされているさなか、下ろしたてのスーツを着た新社会人に目がとまり、志保が卒業後どうしているのか、はたと気になった。

 矢もたてもたまらず志保の実家に電話を入れて話を聞くと、川崎でお姉さんと一緒に住んでいると、お父さんが親切に教えてくれた。

 川崎に志保がいる。電車で会える距離に志保がいる。

 それは大きな衝撃だった。来世に持ち越したはずの意中人がとつぜん間近に現れたように思えて、がぜん気がせいた。

 僕は迷わず――卒業おめでとうと言える口実があったから――川崎の志保の番号を押した。

 滑稽(こっけい)なほどに行動が思考を先走っていたのだ。

 時ならぬ電話に志保はびっくりしながらも喜びをあらわにした。

 僕は志保の声を聞いて安堵と愉悦を覚えた。志保の声には僕を癒す何かが宿っていたのだ。その声音がひとたび耳に入ると、まるで鼓膜が心のひだに変化したように、僕の深いところに響いてくるのだった。

 歳月が遡ったような型崩れの挨拶をした後、何から何まで新鮮であろう志保に、川崎の生活はどうかと訊ねた。

「最悪」

 意外にも志保はうんざりした様子でこたえた。志保もまた田舎との文化の違いに戸惑っていたのだ。

「じきに慣れるよ」

 都会生活に順応した僕は余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)に言った。

「悠次兄あんなに東京を嫌がってたじゃない」

 打って変わった様相に志保は驚いた声をだした。

「あの時は心配かけてごめんな。――でも志保のお陰でがんばる事ができたよ。ありがとう」

 感謝を深甚(しんじん)に込めて言った。

「いえ、とんでもないです」

 役に立てたのが嬉しそうに志保は明るく謙遜した。

 それから志保は、中小企業に入社して事務をしているとか、会社がどうだとか、最近の出来事を問わず語りに話し、僕は志保の社会人生活を想像しながら微笑(ほほえ)ましく聞いた。

 ひとしきり志保が話した後に、

「今度一緒に飲みに行くか」

 親友のノリで気軽に誘った。

「うん、絶対に連れてって」

 志保は上機嫌で賛同した。

 僕達はゴールデンウィークに飲みに行く約束を交わして電話を切った。

 受話器をおいた僕は間髪(かんぱつ)入れず壁にかけてあるカレンダーを見た。今日はエイプリルフールじゃないよな。腕時計の日付をみた。――間違いない。それでも足りず、新聞の日付を確認した。

 記載された日付を穴があくほど見つめてから、間違いのない現実に思わずにんまりして、カレンダーにある約束の日を赤マジックでまるく囲った。


 指折り数えたゴールデンウィークまでの数日は待ち遠しかった。



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