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たまずさ  作者: 歩野
28/41

28  慰撫

 みそっかすにされた単孤無頼(たんこぶらい)の自尊心は完膚(かんぷ)なきまでに叩き潰され、世渡りのいろはも知らず、活路を見出せずに困窮しきっていた。

 人間の汚い部分ばかりが目に付く模糊(もこ)とした霧中を、のたうちながらノイローゼ気味に徘徊した僕は、煩悶(はんもん)のなれのはてに、あろうことか、志保に電話をかけてしまった。志保の事は禁忌にしたつもりでいたのだが、のっぴきならない程に打ちのめされ、救いがほしかったのだ。志保に厄介をかけると考えるゆとりはひとひらもなかった。ほんのひと時でいいから、人間の温もりを感じさせてほしかった――後になってそう思うのだが、その時は顕然としていなかった。懊悩(おうのう)のきわみから、気が付くと指が覚えていた番号を押していた、と言ったほうが正しい。

 目を閉じ、耳を澄ますと、行き詰まった頭に呼び出し音は、果てしない螺旋(らせん)階段の中心をまっ逆さまに落ちる擬似音に思えた。脳細胞の隅々(すみずみ)まで響く等間隔の音響に、僕は溶け入るように、ずっぷり埋没していった。

 と、突然、聞き慣れた声がした。

「はい、原田です」

 はっとするより早く、志保の声は心の琴線に触れた。胸の底から熱いものがこみ上げた。

「こんばんは」

 一拍の後に、つとめて平静に言った。

「悠次兄? ――えっ……今どこから」

「東京だよ」

「そうなんだ。――東京はどう」

 いつもの明るい声だった。

「う~ん、色々たいへんだよ」

「色々って」

「――色々は色々だよ」

 僕は苦衷(くちゅう)を見せまいと、はぐらかそうとした。

 志保は敏感に、精彩を欠いた声音(こわね)に異変を感じたようだった。

「何かあったんでしょ。――何があったの」

「う~ん、――色々」

「悠次兄、私になら話せるでしょ。何があったのか話してよ」

 情感に直接ふれる声に、僕は泣けてきた。

 こみあげる涙に語句を継げずにいると、志保は破砕された気魂を優しく覆った。

「どうしたの。なんでもいいから話して」

 聖母をおもわせる慈愛にみちた声に、硬くなっていた心がとろけ、堪え続けていた都会生活の愚痴がゆっくりとこぼれだした。とぎれとぎれに、次から次に。

 志保は相槌を挟みながら包み込んで聞き、壊れそうになった僕を持ち前の明朗さで柔和に鼓舞した。

「悠次兄なら頑張れるよ。私もついてるから」

 遠く離れた電話の向こうで、志保はずっと優しかった。その心遣いに、声を殺して泣いた。孤独で屈折した骨身に、志保の慰撫(いぶ)は痛いほどに染みた。

「こんな電話してごめんな。でも本当にありがとう」

 最後に心から言った。

「そんな暗い声だしてちゃ駄目だよ。元気ださないと。何かあったらまた電話ちょうだい」

 志保は殊更(ことさら)に明るく励ました。

「うん、ありがとう。――それじゃ」

 勇を()して言い、胸をいっぱいにして受話器をおいた顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃに崩れていた。

 渺渺(びょうびょう)たる不毛の荒野で、僕は希望の聖水を嚥下(えんげ)し、蜃気楼を見た。

 しばし(いつく)しみのほとぼりに胸を()いた。それから、消えなずむ感動に放心脱魂した。程経(ほどへ)て、這いつくばっていた胆力がむっくと頭をもたげた。

 電話の数日後には、身の上を案じた志保から追い風の手紙が届いた。

 独特にたたまれた便箋を開き、びっしり綴られた励文を読み進むと、総身鳥肌立ち、手紙(なか)ばにして、体の奥底から湧き上がった激情が五臓六腑を(つらぬ)き、丸みをおびた懐かしい文字が嗚咽(おえつ)にぼやけて震えた。

 僕はその時の尋常ならざる有り様をうまく表現できない。無二の狂ったような感銘、五体と情操が異常に乱れたさまを。

 その後、艱難(かんなん)にめげそうになるたび、志保の声が聞きたくなったけれど、迷惑をかけると思い、拳を握りしめて、力ずくで踏み(こた)えた。その都度、志保から貰った手紙を読み返し、尾島方角を遥拝して己を(ふる)い立たせた。



   *



 東京での初めての秋、アルバイト暮らしにほとほと疲れはてた僕は、物は試しとソフトウェア会社の入社試験に臨んだ。

 慣れないスーツで受けた試験は手応(てごた)えこそあったものの、どうせ駄目だろうと他のアルバイトに目星を付けていたのだが、これが予想外に受かりデスクワークにありつく事ができた。


 困難続きだった僕の生活はこれを機に安定していった。

 仕事は派遣とはいえ、大手企業での就労となり、職場の全員が大卒か専門卒だった為に、自分が最低レベルだという自覚と、負けず嫌いで、電車の中でも家に帰ってからも休みの日も、寸暇を惜しんで勉強に打ち込んだ。

 並行して、複雑怪奇な社会の仕組みを知るため新聞やニュースを精察し、世界情勢の雑誌や本を読みあさるようになった。

 これほどに強い欲求で勉強したのは初めての事で、知識が血肉になるのが至上の喜びだった。

 月百五十時間の残業もそれまでの苦境に比べれば物の数でなかった。

 飢えていた僕は水を得た魚の如く、生新と活力を取り戻していった。

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