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たまずさ  作者: 歩野
25/41

25  見舞い

 (あや)ぶまれた怪我は、ひびが入った程度の頭蓋骨骨折と、きれいに折れた右鎖骨の骨折だけで済んだのだが、手術後間もない頃に見舞いに来てくれた友達は、酸素注入器を鼻に、点滴を腕に刺され、虚空(こくう)を見つめて仰臥(ぎょうが)する姿に、植物人間になったと思ったらしい。それから何日かして、おとぎの国を見ながら英語で訳の分からない独り言をいうようになった時に見舞いに来てくれた友達は、気がふれたと感じたようだった。

 しかし生命の力は自然治癒力を駆使し、やおらと脳を修復していった。

 事故から十日も過ぎた頃には、話しかけに反応するようになったのだ。

 怪我はゆっくり、着実に、快方へとむかった。

 話し始めの頃は、午前に話した事や見舞いに来てくれた友達を、午後にはもう忘れていたのが、何日かすると、その日の事を覚えられるようになり、それから更に何日か経つと、昨日の出来事も覚えられるまでに回復していったのだ。

 その頃の記憶はいまだ蒙霧(もうむ)の中である。

 徐々に怪我が回復していくなかで一番困ったのは、文が読めない事だった。本はおろか、マンガの一コマのセリフを読むのでさえ、頭が痛くなり具合が悪くなる始末だった。一日中病院のベッドにいて本が読めないのはことのほかつらく、無聊(ぶりょう)な日々を閑暇(かんか)するしかやりようがなかった。

 そんな中、記憶が少しずつ復旧していた或る日、曙光がきざすように、脳内に忽然(こつぜん)と志保が出現した。

 志保はすっと現れると、(おだ)やかに頭の芯でたたずんだ。

 霞がかった中で、志保が一人。神々しく。ひっそりと。

 体も頭も満足に働かない僕は、うつつ幻にたたずむ女神を、どうしても具現化したかった。

 一縷の希みをたぐり寄せようと、友達に電話するからと母に十円玉をせびった。母は、長い距離を歩くのは無理だからやめなさいと止めたけれど、僕は大丈夫と言い張り、それなら付いて行くと言った母に、大丈夫だからとそれも断って、かろうじて動く体で幽閑とした夜の廊下によろけ出た。

 平衡感覚が正常に戻ってなかった為に、一歩進むごとに足元を安定させて、壁伝いに、ゆっくりゆっくり、おぼつかない足どりで一階にある公衆電話へむかった。

 エレベーターの前で下矢印のボタンを押すと、ひとつの達成からくる油断に眩暈(めまい)をおこし、壁に体をもたげて休んだ。

 もう横になりたいと感じるほどに疲労していたが、どうしても志保の声が聞きたかったのだ。

 随分と時間を(つい)やし、公衆電話にたどり着いた時には、乗物酔いに似た気分の悪さに襲われていた。

 昏倒(こんとう)しそうな頭の状態が安定するまで、僕は目を閉じてじっとするのを余儀なくされた。

 胃液が脳に這い上がってくるような気分の悪さを味わったのは、後にも先にもこの時だけである。

 多少気分が晴れたところで、左手で不器用に十円玉を投入した――右鎖骨が折れているせいで左手しか使えなかったのだ。

 万事が不確かなのに、志保の電話番号を覚えていたのには自分で驚いた。

 記憶に留まっていた番号をゆっくりと押して、祈りをささげるように、呼び出し音に身をゆだねた。

 呼び出しの信号音をこれほどいとしく感じたことはなかった。

 電話にはお父さんがでて、快く志保に繋いでくれた。

「はい、かわりました」

 懐かしい声は、天下った聖霊のものだった。志保の声は耳から入って全身に行き渡り、僕を言いようのない安心感に包み込んだ。

 声の余韻にひたっていると、聞こえなかったと思ったのか、「もしもし」再度、志保の声が体に反響した。

 僕が小さくこんばんはと挨拶すると、志保は死人に出会ったようなおののき方をした。おおかた、悠次はもう駄目だろうと耳にしていたからだろう。

「電話なんかして大丈夫なの。寝てないと駄目でしょう」

 志保は気遣ったが、僕は大丈夫と答えた。

「本当に大丈夫なの。もう元通りになったの。頭は痛くないの」

「字はまだ読めないけど、話なら出来るよ」

「それならまだ元に戻ってないじゃない。話が出来るのなら今度友達と一緒にお見舞いに行くから、もうベッドに戻って寝て頂戴」

 志保は今にも体調が急変してしまうのではないかと危惧しているようだった。

「うん、分かった。志保の声が聞きたかっただけだから」

 廊下の薄暗くなっている公衆電話の前で、僕は目を閉じて、受話器越しに聞こえる声をかみしめていた。

「絶対にお見舞いに行くから、今日はこれで切るよ。電話が終わったらすぐに寝てね」

「うん」

「それじゃあね」

 志保は優しく言って、すみやかに電話を終わらせた。

 僕はしんと静まり返った外来受付の待合室を遠目に、緑色のどっしりした電話を、安堵に浸って何を考えるでもなく見つめていた。

 感情に嬉しさや楽しさはなく、ただ安心だけがあった。

 何かあたたかいものに包まれたようで、しっとり気が安らいでいた。

 ややあって背後の人の気配に、手にした受話器を眺めて、それから元に戻し、ほっとして、殺風景な病室にふらふら引き返した。


 電話の三日後に、志保は授業が終わったその足でスクーターに乗り、はるばる見舞いにやってきた。

 制服姿でかすみ草の花束を抱えて病室に入った志保は、おそるおそる僕の頭を見て痛々しそうにした。剃られた坊主頭にはっきり見える大きく切れた生々しい傷跡と、傷のふちに沿って接触を拒むように荒れて捲れ上がったかさぶたが、見る者に事故の凄惨さを雄弁に物語っていた。

「気分は平気?」

 ショックのこもった潤んだ瞳で志保は尋ねた。

「大丈夫」

 平然と僕は答えたけれど、志保は懸念が消えないようで、浮かぬ顔がなごまなかった。

「本当はもっと早く来たかったけど、友達の都合がつかなくて遅くなっちゃった。ごめんね」

 謝ってから、志保は当たり(さわ)りのない話をいくつかして、それ以上の会話を遠慮した。

 志保の顕現は、いわば昔日の花火のように儚く、回顧に鮮烈なあでやかさだった。

 多くは話せなかったが、僕はじんと嬉しかった。

「今日は時間がないから帰るけど、退院したらゆっくり話そうね」

 最後にそう言って、志保は病室を後にした。

 退院したら何をしたいと考えられるほど、僕の脳は回復していなかったけれど、体内に注がれた生温かいものを感じながら、志保の残像をぼんやり眺めていると、生きるってことはそう悪い事じゃない、と思えたのは確かだった。



   *



 入院から一月近く経つと、容体がだいぶ安定し、自宅療養を許された。

 退院しても相変わらず本は読めなかったけれど、音楽が聴けるようになった分、暇をつぶすによほど助かった。中学の頃から部屋にいる間はずっと音楽をかけていて、先輩や友達からダビングした洋楽のカセットテープは百本以上になっていた。

 僕は自由に動けない日々を横になって音楽を聴いてやり過ごした。

 窓の外に見えた抜けるような青空が、僕の高校三年の、夏の思い出である。


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