15 高校入学
第四章
春光が溢れる四月、通り一遍の厳粛な入学式があり、退屈な高校生活が始まった。
僕は入学するまで高校は自由な所だと思い込んでいたのだが、現実は大きく異なっていた。なかんずく島央高校は校則が軍隊のように厳しく、角張った校風だった。
毎日のおしきせの朝補習は、でばなから校門で待ち構える規律第一の先生にげんなりである。
彼らは楽しみの一つみたいに、獲物を狙う目つきで服装チェックを行い、時には鞄の中を検査するのだった。
その神経質さときたら、学ランの詰襟のホックが一つ外れているだけで、罪人をみつけたがごとく呼び止め、文句をつける異常さだった。
時代遅れの学生帽を嫌った僕は、「なんで帽子をかぶらないんだ。君は島央の生徒じゃないのか」と、説教と一緒にげんこつを貰うのが毎日の挨拶代わりだった。
週のオープニングである全校朝礼にいたっては、刑務所さながらで、うんざりする事この上なかった。
ずらりと整列された生徒を見下ろしながら、教頭やら校長が仰々しい陳腐な訓示を垂れ流す間、担任はいかめしい顔つきで生徒をくまなく観察して回るのだが、その目つきは囚人を見る看守そのものだった。
訓示では、「島央高校の生徒である事を誇りに」というフレーズが常套句のように使われていた。島内にある高校の中で一番偏差値が高い事で、先生にも生徒にもくだらないプライドがあったのだ。
矜持の薄い僕はそれがたまらなく厭だった。
たしかに学年で上位を争っていた一握りの優等生は東京六大学に入れるレベルだったけれど、小さな尾島からそのレベルの人間が一学年三百人以上集まるわけもなく、大半の生徒はたいした学力じゃなかった。たいしたことのない連中に限って、自分は島央の生徒だと誇りにしていた。
入学そうそう固陋な学校に失望し、他の生徒達に違和感を覚えた。
もっとも、大学に進学する気がなく、高校には半分遊ぶつもりで行ったのだから、根本から島央の原則に反していたのである。当然といえば当然の話である。
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くだんの味気ない学校生活で救いだったのは、暮らしのベースとなる下宿がそれなりに楽しかった事である。
島央高校から五分歩いた山裾にある下宿先は、いっけん立派な面構えをした鉄筋コンクリートの三階建てで――実情は随分と前から下宿業を営んでいるせいで、古アパートのようにくたびれていたが――一階と二階が下宿用にあてがわれていて、口うるさいばあさんが一人できりもりしていた。
建物の造りは、一階に食事をする大広間、お風呂、トイレ、下宿部屋が二つあり、二階部はトイレ以外、七部屋すべてが下宿部屋になっていた。
僕は二階にある八畳の角部屋を、プロレス好きの同級生、和久と使う事になった。
二人部屋はプライバシーがなくて快適とは言えなかったし、上下儀法が厳格で、三年生に屋上に呼び出されて殴られたりしたけれど、さりとて先輩に殴られるのははなから覚悟の上で造作もなかった。
そもそも僕が島央を選んだのは、家を出たいというのが一番の理由だったのだから、下宿生活に苦痛を感ずるはずもなく、家族から離れられた事で小楽園に移住したほどの軽々とした心持ちだった。
学校が終わって下宿に戻ると体を鍛えるのが楽しかったし、本と漫画を飽きる事なく不断に読んだ。漫画好きというわけではなかったけれど、一年生がお金を出し合って漫画週刊誌を調達するのが下宿の習わしで、毎週毎週、先輩が読み終わった週刊誌がまわってきたのだ。
下宿仲間と学校の愚痴を言うのがストレスの捌け口にもなり、低落しそうな心柄を踏み留まらせてもくれた。
ただ一つ、食事がどうしようもなくまずい点を除けば、案外と楽しい下宿生活だった。
体が著しく成長した分、めっきり運動能力がたけ、一年終了時の体育の成績は5だったが、時間がもったいなくてクラブ活動には参加しなかった。
読みたい本、聴きたい音楽、観たい映画が山ほどあったのだ。
小遣いのほとんどがその三つに潰え、おしゃれを楽しむ余地などどこにもなかった。
学業もないがしろにして、視野を広げる本と、気分に抑揚を与える音楽と、別世界に逃避できる映画をむさぼっていた。
中でも映画は格別に好きで、映画監督になれたら楽しいだろうなと、現実味のない空想を楽しむ事もあったが、家の台所事情では、大学はおろか専門学校にさえ行けなかった。
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高校一年の夏といえば体育祭の応援団に選抜され、上級生からしごかれた事が思い出されるが、語るほどのものでもなかった。無尽蔵の好奇心は新たな生活を味わい尽くしておらず、あれやこれやと感興のうちに胎動はまだ小さかったのだ。




